官や新聞に取らるるより、一と思いに取ってくださる、御国のためだと思うてすれば、天井で鼠が忠と鳴くと、鼠鳴きして悦び合い、密会税何回分と纒めて前以て払い済ます事疑いなし。これほど気の利いた社会政策はちょっとなかろう。
 増訂漢魏叢書本『捜神記』巻二に地獄の官人の話あり、鶏に関係ある故ここに略説する。太原《たいげん》の人、王子珍、父母の勧めにより、定州の辺孝先先生に学ばんとて旅立った。辺先生は漢代高名の大儒で、孔子歿後ただ一人と称せらる。子珍、定州界内に入りて路傍の樹蔭に息《やす》む所へまた一人来り憩《いこ》い、汝は何人《なんぴと》で何処《どこ》へ往くかと尋ねた。子珍事由を語ると、その人我は渤海《ぼっかい》郡の生まれ、李玄石と名づく、やはり辺先生の所へ学びに往く、かく道伴れとなる已上《いじょう》は兄弟分になろうと言い出たので、子珍も同意し、定州に至り飲酒食肉し、死生、貴賤、情皆これを一にせんと誓いおわって辺先生を訪い入門した。経業を学ぶ事三年にして玄石の才芸先生に過ぎたから、先生玄石は聖人であろうと讃めた。子珍その才の玄石に劣れるを知り、毎《つね》にその教授を受け師父として敬った。後《のち》子珍と同族で、同地生まれの王仲祥という人来合せ、まず先生に謁し、次ぎに子珍の宿に止まり、李玄石を見、翌日別れに臨み、子珍に、汝の友玄石は鬼《き》だ、生きた人でないと告げると、子珍、玄石はこれ上聖の聖で、経書該博ならざるなく、辺先生すらこれを推歎す、何ぞこれを人でないと言うべきと答えた。仲祥、我は才芸を論ずるでない、確かに彼を鬼と知って言うのだ。汝もし信ぜずば今夜新しい葉を席《むしろ》の下に鋪《し》いて、別々に臥して見よ、明朝に至り汝の榻下《とうか》の葉は実するも、鬼の臥所《ふしど》の葉は虚《むな》しかるべしと言うて別れ出た。夜に及んで仲祥の言に従い試みると、暁に及び果してその通りだったから、翌日玄石に、君は鬼だという噂《うわさ》がある、本当かと問うと、玄石、誠に我は鬼だ、この事は仲祥から聞いただろう、我冥司に挙用されて、泰山の主簿たらんとするも、学薄うして該通ならず。冥王の勧めに従い、辺先生に業を求めんとするに人間が我を懼《おそ》るるを憚り、人に化して汝と同師に事《つか》え、一年を経ずして学問既に成り、泰山主簿に任じて二年になるが、兄弟分たる汝と別るるに忍びず、眷恋《けんれん》相伴うて今に至った。既に実情を知られた上は久しく駐《とど》まるべきでないから別れよう、しかるに汝に知らさにゃならぬ一事あり、前日汝の父の冤家が、冥王庁へ汝の父にその孫や兄弟を食われたと訴え出たが、われ汝と縁厚きによりすみやかに裁断せず、冥王これを怒って我を笞《むち》うつ事一百、それより背が痛んでならぬ、さて只今王が汝の父を喚《よ》び寄せ、自ら訊問し判して死籍に入れるところだから、汝急いで家に帰れ、さて父がまだ息《いき》しいたら救い得る故、清酒、鹿脯《ろくほ》を供えて我を祭り、我名を三度呼べ、我必ず至るべし。もし気絶えいたら救いようがない。汝すでに学成ったから努力して立身を謀《はか》れ、我まさに汝を助けて齢《よわい》を延ばし、上帝に請いて汝に官栄を与うべし、また疾病なきを保《ほ》せんと言って別れた。
 子珍すなわち辺先生を辞し、家に帰って父を見るに、なお息しいるので、火急に酒脯銭財を郊に致《いた》し、祭り、三たびその名を呼ぶと、玄石白馬に乗り、朱衣を著《つ》け、冠蓋《かんがい》前後騎従数十人、別に二人の青衣あって節を執って前引し、呵殿《かでん》して来り、子珍|相《あい》見《まみ》えて一《いつ》に旧時のごとし。玄石、子珍に語るよう、汝眼を閉じよ、汝を伴れ去って父を見せようと。珍目を閉づるに須臾《しゅゆ》にして閻羅《えんら》王所の門に至り北に向って置かる。玄石、子珍に語ったは、向《さ》きに汝を伴れて汝の父を見せんと思いしも、汝の父、今牢獄にあって極めて見苦しければ、今更見るべきにあらず。暫くの内に汝が父の冤家がここへ来る、白衣を著《き》、跣足《はだし》で頭に紫巾を戴《いただ》き、手に一巻の文書を把《と》る者がそれだ。その人は※[#「日+甫」、第3水準1−85−29]《く》れ時にこの庁に入って証問さるるはずだ。われ汝に弓箭を与え置くから、それを取ってかの人来るを候《うかが》い、よくこれを射殺さば汝の父は必ず活くべきも、殺し損わば救いがたいという内に、果して右様の人がやって来た。玄石サアこれだ、我は役所に入って判決するから、汝はしっかりやれと言うて去った。いくばくならずして冤家直ちに案前《あんぜん》に来り、陳訴する詞《ことば》至って毒々し。子珍矢を放つと、その左眼に中《あた》り、驚いて文書を捨て置き走り出た。文書を取って読むに、子珍の父の事を論じあった。珍泣いて玄石に告げると、射殺さなんだは残念だ、眼が癒えたらますます訟《うった》えるに相違ない。汝|宜《よろ》しく家に帰り冤家を尋ね出して殺すべし。しかれば汝の父はきっと癒るという。珍、何人を尋ぬべきやと問うに、今汝が射たと似た者を見ば、やにわに射殺せと教えた。珍、倉皇《そうこう》別れ、帰って、冤家の姓名を知らねば誰と尋ぬべきにあらず。思い悩みて七日食わず。その時家人報ずらく、飼い置いた白い牡鶏が、この七日間往き所知れずと。因って一同尋ねてその白鶏が架墻《かしょう》の上に坐せるを見出すに、左の眼損えり。王子珍考えて、玄石が言うたところの白衣は白鶏の毛、紫巾を戴くとは鶏冠、跣足とは鶏の足、左の眼|潰《つぶ》れたるは我が射|中《あ》てたのだ。この鶏こそ我父の冤家なれと悟り、殺し烹《に》て汁にして父に食わすと平癒した。子珍、後に出世して太原の刺史となり、百三十八歳まで長生したは李玄石の陰祐《いんゆう》による。〈故にいわく、鶏三年ならず、犬六載ならず、白鶏白犬これを食うべからず、生を害うなり〉とある。わが邦で猫を飼う初めに何年と時を定めて飼うと、期限来れば去ってまた来らず。余り久しく飼えば猫又《ねこまた》に化け「猫じゃ猫じゃとおっしゃりますな、アニャニャニャンノニャン」と謡い踊るというごとく、晋時支那では、鶏を三年、犬を六載以上飼わず、白い犬鶏は必ず食わぬものでこれを食えば冥罰《みょうばつ》を受くると信じたのだ。今も白鶏は在家《ざいけ》に過ぎたものとし、寺社に専ら飼う所あり。讃岐《さぬき》琴平《ことひら》に多く畜《か》う(『郷土研究』二巻三号、三浦魯一氏報)、『古語拾遺』に、白鶏、白猪、白馬もて御歳《みとし》の神を祭ると見え、『塩尻』四に〈『地鏡』に曰く、名山に入るには必ずまず斎すること五十日、白犬を牽き白鶏を抱き云々〉。ゴムの『歴史科学としての民俗学』三十一頁に、インドのカッボア人は、白鶏を牲《にえ》して隠財を求むといい、コラン・ド・ブランシーの『遺宝霊像評彙』一巻六四頁には、天主教徒白鶏をクリストフ尊者に捧げて、指端の痛みを癒《いや》しもらう。他の色の鶏を捧ぐればますます痛むと見ゆ。熊野地方では天狗が時に白鶏に化け現わるという。支那湖南の衡州府華光寺に、昔禅師あって白鶏を養う。経を誦《じゅ》するごとに座に登って聴く。死して寺側に埋めし上に白蓮花を生じ、花謝して泉水涌き出づ。白鶏泉と名づく(『大清一統志』二二四)。
 諸国あまねく白鶏を殊勝の物としたのだ。[#地から2字上げ](大正十年二月、『太陽』二七ノ二)

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『甲子夜話』続一七にいわく、ある老人耳聞えず、常に子孫に小言をいう。ある日客ありし時に子供を顧みて物語るは、今時の者はどうも不性なり。我らが若き時はかようにはなしという時、飼い置きし鶏|側《かたわら》より時をつくる。老人いわく、あれ聞きたまえ人ばかりでなし、鶏さえ今時は羽敲《はばた》きばかりして鳴きはしませぬと。かかる話は毎度繰り返さるるもので、数年前井上馨侯耳聾して、浄瑠璃語りの声段々昔より低くなった、今の鶏もしかりと呟《つぶや》いたと新紙で読んだ。またいわく、ある侍今日は殊に日和《ひより》よしとて田舎へ遊山《ゆさん》に行き、先にて自然薯《じねんじょ》を貰《もら》い、僕《しもべ》に持せて還る中途|鳶《とび》に攫《つか》み去らる、僕主に告ぐ、油揚《あぶらあげ》ならば鳶も取るべきに、薯《いも》は何にもなるまじと言えば、鳶、樹梢で鳴いてヒイトロロ[#「トロロ」に白丸傍点]、ヒイトロロ[#「トロロ」に白丸傍点]。一八九一年オックスフォード板、コドリングトンの『ゼ・メラネシアンス』に、癩人島の俗譚に十の雛《ひな》もてる牝鶏が雛をつれて食を求め、ギギンボ(自然薯の一種)を見付けるとその薯根|起《た》ち出て一雛を食うた。由って鳶を呼ぶと鳶教えて一同を自分の下に隠す、所へ薯来って、鳶汝は鶏雛の所在を知らぬかと問うに、知らぬと答え、薯怒って鳶を詈《ののし》る。鳶すなわち飛び下って薯を掴《つか》み、空を飛び舞いて地へ堕《おと》すを、他の鳶が拾うて空を飛び廻ってまた落すと、薯二つに割れた。それを二つの鳶が分ち取ったから薯に味良いのと悪いのがあるようになったというと記す。面白くも何ともない話だが、未開の島民が薯に良し悪しあるを知って、その起因を説くため、かかる話を作り出したは理想力を全然|闕如《けつじょ》せぬ証左で、日本とメラネシアほど太《いた》く距《へだ》たった両地方に、偶然自然薯と鳶の話が各々出で来た。その偶合がちょっと不思議だ。
 鶏を入れた笑談を少し述べると、熊野でよく聞くは、小百姓が耕作終って帰りがけに、烏がアホウクワと鳴くを聞いて、鍬《くわ》を忘れたと気付き、取り帰ってさすがは烏だ、内の鶏なんざあ何の役にも立たぬと誹《そし》ると、鶏憤ってトテコーカアと鳴いたという。『醒睡笑《せいすいしょう》』二に、若衆あり、念者に向いて、今夜の夢に、鶏のひよこを一つ金にて作り、我に給いたるとみたと語ると、我も只今の夢にそのごとくなる物を参らせると、いやといってお返しあったと見た事よとある。西洋にはシセロ説に寝牀《ねどこ》の下に鶏卵一つ匿《かく》されあると夢みた人が、判じに往くと、占うて、卵が匿され居ると見た所に財貨あるべしと告げた。由って掘り試むるに、銀あって中に夥しく金を裹《つつ》めり、その銀数片を夢判じにやると、銀より金が欲しい思《おぼ》し召しから、卵黄《きみ》の方も少々戴きたいものだと言うたそうな。一五二五年頃出た『百笑談』てふ英国の逸書に、田舎|住居《ずまい》の富人が、一人子をオックスフォードへ教育にやって、二、三年して学校休みに帰宅した、一夜食事前に、その子、我日常専攻した論理学で、この皿に盛った二鶏の三鶏たるを証拠立つべしというので、父それは見ものだ、やって見よ、と命ずると、その子一手に一鶏を執ってここに一鶏ありといい、次に両手で二鶏を持ってここに二鶏ありといい、一と二を合せば三、故に総計三鶏ありと言うた。その時父自ら一鶏を取り、他の一鶏を妻に与えて、子に向い、一つは余、今一つは汝の母の分とする。第三番めの鶏は汝の論理の手際で汝自ら取って食え、と言ったので、子は夜食せずに済ませた。だから鈍才の者に理窟を習わすは、大いに愚な事と知るべしと出《い》づ。先頃手に鶏を縛るの力もないくせに、一廉《ひとかど》労働者の先覚顔して、煽動した因果|覿面《てきめん》、ちょっとした窓の修繕や半里足らずの人力車を頼んでも、不道理極まる高い賃を要求されて始めて驚き、自ら修繕し、自ら牽き走ろうにも力足らず、労働者どもがそんなに威張り出したも誰のおかげだ、義理知らずめと詈っても取り合ってくれず、身から出た銹《さび》と自分を恨んで、ひもじく月を眺め、膝栗毛《ひざくりげ》を疲らせた者少なくなかったは、右の富人の愚息そのままだ。かく似て非なる者を、仏経には烏骨鶏《うこっけい》に比した。
 六群|比丘《びく》とて仏弟子ながら、毎《いつ》も戒律を破る六人の僧あり。質帝隷居士、百味の食を作り、清僧を請じ、余り物もてこの六比丘を請ぜしに、油と塩で熬《に》た魚をくれぬが不足だ。それをくれたら施主が好《よ》き名誉を得ると言うた。居士曰く、過去世に群鶏林中に
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