住み、狸に侵し食われて雌鶏一つ残る。烏来ってこれに交わり一子を生む、その子鶏の声を聞きて父の烏が偈《げ》を説いて言うたは、この児、我が有にあらず、野父と聚落母が共に合いてこの子あり、烏でもなく鶏でもなし、もし父の声を学ばんと欲せば、これ鶏の生むところ、もし母の鳴くを学ばんと欲せば、その父は烏なり。烏を学べば鶏鳴に似、鶏を学べば烏声を作《な》す。烏鶏二つながら兼ね学べば、これ二つともに成らずと。そのごとく魚を食いたがる貴僧らは俗人でも出家でもないと。仏これを聞いて、この居士は宿命通を以て六群比丘が昔鶏と烏の間の子たりしを見通しかく説いたのじゃと言うた(『摩訶僧祇律《まかそうぎりつ》』三四)、『沙石集』三に、質多居士は在俗の聖者で、善法比丘てふ腹悪き僧、毎《つね》にかの家に往って供養を受く、ある時居士遠来の僧を供養するを猜《そね》み、今日の供養は山海の珍物を尽されたが、ただなき物は油糟《あぶらかす》ばかりと悪口した。居士油を売って渡世するを譏《そし》ったのだ。そこで居士、只今思い合す事がある、諸国を行商した時、ある国に形は常の鶏のごとく、声は烏のようながあった。烏が鶏に生ませたによって形は母、音は父に似る故|烏鶏《うけい》と名づくと聞いた。貴僧も姿は沙門、語は在家の語なるに付けて、かの烏鶏が思い出さると、やり込められて、善法比丘無言で立ち去ったとある。すべて昔は筆紙乏しく伝習に記憶を専らとした故、かく少しずつ話が変っていったものだ。烏が鶏に生ませた烏鶏とは、烏骨鶏《うこっけい》だ。色が黒い故かかる説を称えたので、その頃インドに少なかったと見える。ただし烏骨鶏に白いのもあって、大鬼が小鬼群を引きて心腹病を流行《はや》らせに行く末後の一小鬼を、夏侯弘《かこうこう》が捉え、問うてその目的を知り、治方を尋ねると、白い烏骨鶏を殺して心《しん》に当てよと教う。弘これを用いて十に八、九を癒した由(『本草綱目』四八)。
 十六世紀に出たストラパロラの『面白き夜の物語』(ピャツェヴォリ・ノッチ)十三夜二譚は余未見の書、ソツジニが十五世紀に筆した物より採るという。人あり、百姓より閹鶏《えんけい》数羽を買い、ある法師、その価を払うはずとて伴れて行く。既に法師の所に至り、その人法師に囁《ささや》き、この田舎者は貴僧に懺悔を聴いてもらうため来たと語り、さて、大声で上人即刻対面さるるぞと言うて出で行く。百姓は鶏代の事を法師に告げくれた事と心得、かの人の去るに任す。所へ法師来たので金を受け取ろうと手を出すと、法師は百姓に、跪《ひざまず》いて懺悔せよと命じ、自ら十字を画《えが》き、偈《げ》を誦《じゅ》し始めた。これに似た落語を壮年の頃東京の寄席で聴いたは、さる男、吉原で春を買いて勘定無一文とは兼ねての覚悟、附《つ》け馬《うま》男を随えて帰る途上、一計を案じ、知りもせぬ石切屋に入りてその親方に小声で、門口に立ち居る男が新死人の石碑を註文に来たが、町不案内故|通事《つうじ》に来てやったと語り、さて両人の間を取り持ち種々応対する。用語いずれも意義二つあって、石切屋には石の事、附け馬には遊興の事とばかり解せられたから、両人相疑わず、一人は急ぐ註文と呑み込んで石碑を切りに掛かれば、一人は石を切り終って揚代《あげだい》を代償さると心得て竢《ま》つ内、文なし漢は両人承引の上はわれここに用なしと挨拶して去った。久しく掛かり碑を切り終って、互いに料金を要求するに及び、始めて食わされたと分るに及ぶ。その詐欺漢が二人間を通事する辞《ことば》なかなか旨《うま》く、故正岡子規、秋山真之など、毎度その真似をやっていたが余は忘れしまった。今もそんな落語が行わるるなら誰か教えてくだされ。
 ストラパロラの件《くだん》の話にある閹鶏《えんけい》、伊語でカッポネ、英語でカポンは食用のため肥やさんとて去勢された鶏だ。本篇はキンダマの講釈から口を切って大喝采を博し居るから、閹鶏のついでに今一つキンダマに関する珍談を申そう。一一四七年頃生まれ七十四歳で歿したギラルズスの『イチネラリウム・カムブリエ』に曰くさ、ウェールスのある城主が、一囚人の睾丸と両眼を抜き去って城中に置くに、その人、砦内の込み入りたる階路をことごとくよく記憶し、自在にその諸部に往来す。一日彼城主の唯一の子を捉え、諸の戸を閉じて高き塔頂に上る、城主諸臣と塔下に走り行き、その子を縦《ゆる》さば望むところを何なりとも叶《かな》えやろうと言うたが、承知せず、城主自ら睾丸を切り去るにあらずんばたちまちその子を塔上より投下すべしと言い張った。何と宥《すす》めても聴き入れぬ故、城主しかる上は余儀なしとて、睾丸を切ったような音を立て、同時に自身も諸臣も声高く叫んだ。その時、盲人城主にどこが痛いかと問い、城主腰が烈しく痛むと答えた。盲《めくら》と思うて人をだまそうとは怪《け》しからぬと罵って、子を投げそうだから、城主更に臣下して自身を健《したた》か打たしめると、盲人また今度は一番どこが疼《いた》いかと問うた。心臓と答うると、いよいよ急ぎ投げそうに見える。ここにおいて父やむをえず、板額《はんがく》は門破り、荒木又右衛門は関所を破る、常磐御前とここの城主はわが子のために、大事な操と陰嚢《ふんぐり》破ると、大津絵《おおつえ》どころか痛い目をしてわれとわが手で両丸くり抜いた。さて、今度はどこが一番疼むかと問うに、対《こた》えて歯がひどく疼むというと、コイツは旨い。本当だ「玉抜いてこそ歯もうずくなれ」。汝は今後|世嗣《せいし》を生む事ならず一生楽しみを享《う》け得ぬから、余は満足して死すべしと言いおわらざるに、盲人、城主の子を抱いて塔頭より飛び降り、形も分らぬまで砕け潰れ終った。されば悋気《りんき》深い女房に折檻《せっかん》されたあげくの果てに、去勢を要求された場合には、委細承知は仕《つかまつ》れど、鰻やスッポンと事異なり、婦人方の見るべき料理でない。あちらを向いていなさいと彼方を向かせ、卒然変な音を立て高く号《さけ》び、どこが一番疼いと聞かれたら、歯が最も疼むと答うるに限る。孟軻《もうか》の語に、志士は溝壑《こうがく》にあるを忘れず、勇士はその元《こうべ》を喪《うしな》うを忘れずと。余は昨今のごとき騒々しい世にありて、キンダマの保全法くらいは是非|嗜《たしな》み置かねばならぬと存ずる。
 ベロアル・ド・ヴェルヴィユの『上達方』に、鶏卵の笑談あまたある。その一、二を挙げんに、マーゴーてふ下女、座敷の真中に坐せる主婦に鶏卵一つ進《まい》らする途中、客人を見て長揖《ちょうゆう》する刹那、屁をひりたくなり、力《つと》めて尻をすぼめる余勢に、拳《こぶし》を握り過ぎて卵を潰し、大いに愕《おどろ》いて手を緩《ゆる》めると、同時に尻大いに開いて五十サンチの巨砲を轟《とどろ》かしたが、さすがのしたたかもので、客の怪しみ問うに対してツイ豆をたべたものですからといったとある。その頃仏国でも豆は屁を催すと称えたのだ。全体この書は文句|麁野《そや》、下筆また流暢ならず、とても及ぶべくもないが、古今名人大一座で話し合う所を筆記した体に造った点が、馬琴の『昔語質屋庫』にやや似て居る。たとえば医聖ガリアンが、ブロアの一少婦が子を産み、その子女なりと聞いて、女の子は入らぬ元の所へ戻し入れておくれといったは面白いというと、古文家ボッジュが、緬羊児を買いてその尾に山羊児の尾を接《つ》いだというのがあって一層面白いという(ここ脱文ありと見え意義多少分らず)、アスクレピアデスは、牝鶏よく卵を生むと見せるため、その肛門に卵を入れ置いたをある女が買ったが、爾後一向卵を産まなんだと語る所がある。
 西鶴の『一代男』二、「旅の出来心」の条、江尻の宿女せし者の話に「また冬の夜は寝道具を貸すようにして貸さず、庭鳥のとまり竹に湯を仕掛けて、夜深《よぶか》に鳴かせて夢|覚《さ》まさせて追い出し、色々つらく当りぬるその報いいかばかり、今|遁《のが》れてのありがたさよ云々」。この湯仕掛けで鶏を早鳴《はやなき》せしむる法は中国書にもあったと記憶する。木曾の松本平の倉科《くらしな》様ちゅう長者が、都へ宝|競《くら》べにとて、あまたの財宝を馬に積んで木曾街道を上り、妻籠《つまご》の宿に泊った晩、三人の強盗、途中でその宝を奪おうと企て、その中一名は宿屋に入って鶏の足を暖め、夜更《よふけ》に時を作らせて、まだ暗い中に出立させた。長者が馬籠《まごめ》峠の小路に掛かり、字《あざ》男垂《おたる》という所まで来た時、三賊出でて竹槍で突き殺し、宝を奪い去った。その宝の中に黄金の鶏が一つ落ちて、川に流れて男垂の滝壺に入った。今も元旦にその鶏がここで時を作るという。長者の妻、その後《のち》跡を尋ね来てこの有様を見、悲憤の余りに「粟稗たたれ」と詛《のろ》うた。そのために後日、向山という所大いに崩れ、住民|困《くるし》んで祠《ほこら》を建て神に祀《まつ》ったが、今も倉科様てふ祠ある(『郷土研究』四巻九号五五六頁、林六郎氏報)。阿波の国那賀郡桑野村の富人某方へ六部来て一夜の宿をとった。主人その黄金の鶏と、一寸四方の箱に収まる蚊帳《かや》を持ちいると聞き、翌朝早く出掛けた六部の跡をつけ、濁りが淵で斬り殺した。鶏は飛び去ったが蚊帳は手に入った。その六部の血で今も淵の水赤く濁る。その家今もむした餅を搗《つ》かず、搗けば必ず餅に血が雑《まじ》るのでひき餅を搗く。蚊帳は現存す(同上一巻二号一一七頁、吉川泰人氏報)。
『甲子夜話』続一三に、ある人曰く、大槻玄沢《おおつきげんたく》が語りしは、奥州栗原郡三の戸畑村の中に鶏坂というあり。ここより、前《さき》の頃純金の鶏を掘り出だしける事あり。その故を尋ぬるに、この畑村に、昔炭焼き藤太という者居住す。その家の辺より沙金を拾い得たり。因ってついには富を重ね、故に金を以て鶏形一双を作り、山神を祭り、炭とともに土中に埋む、因ってそこを鶏坂という。これ貞享《じょうきょう》三年印本『藤太行状』というに載せたりと。また文化十五年四月そこの農夫、沙金を拾わんため山を穿《うが》ちしに、岸の崩れより一双の金鶏を獲たり。重さ百銭目にして、山神の二字を彫り付けあり。この藤太は近衛院の御時の人にて、金商橘次、橘内橘王が父なりと。今もその夫婦の石塔その地にあり云々。『東鑑』〈文治二年八月十六日午の尅《こく》、西行上人退出す、しきりに抑留すといえども、敢《あ》えてこれにかかわらず、二品《にほん》(頼朝)銀を以て猫を作り贈物に充《あ》てらる、上人たちまちこれを拝領し、門外において放遊せる嬰児に与う云々〉。因って思うにこの頃の人はかくのごとくに金銀を以て形造の物ありしかと。元魏の朝に、南天竺|優禅尼《うぜんに》国の王子月婆首那が訳出した『僧伽※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]《そうがた》経』三に、人あり、樹を種《う》うるに即日芽を生じ、一日にして一由旬の長さに及び、花さき、実る。王自ら種え試みるに、芽も花も生ぜず、大いに怒って諸臣をしてかの人|種《う》えたる樹を斫《き》らしむるに、一樹を断てば十二樹を生じ、十二樹を切れば二十四樹を生じ、茎葉花果皆七宝なり。爾時《そのとき》二十四樹変じて、二十四億の鶏鳥、金の嘴、七宝の羽翼なるを生ずという。これもインドで古く金宝もて鶏の像を造る習俗があったらしい。『大清一統志』三〇五、雲南《うんなん》に、金馬、碧鶏二山あり。『漢書』に宣帝神爵と改元した時、あるいは言う、益州に、金馬、碧鶏の神あり。※[#「酉+焦」、第4水準2−90−41]祭《しょうさい》して致すべしと。ここにおいて諫大夫|王褒《おうほう》を遣わし、節を持ってこれを求めしむと。註に曰く、金形馬に似、碧形鶏に似ると。これも金で馬、碧すなわち紺青《こんじょう》で鶏を作り、神と崇《あが》めいたのであろう。本邦にも古く太陽崇拝に聯絡して黄金で鶏を作り祀りしを、後には宝として蔵する風があったらしい。十一年前、余、紀州日高郡上山路村で聞いたは、近村竜神村大字竜神は、古来温泉で著名だが、上に述べた阿波の濁りが淵同様の伝説あり。所の者は秘して語ら
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