ず。昔熊野詣りの比丘尼《びくに》一人ここへ来て宿る。金多く持てるを主人が見て悪党を催し、鶏が止まる竹に湯を通し、夜中に鳴かせて、最早《もはや》暁近いと欺き、尼を出立させ、途中に待ち伏せて殺し、その金を奪うた。その時、尼|怨《うら》んで永劫《えいごう》ここの男が妻に先立って若死するようと詛《のろ》うて絶命した。そこを比丘尼|剥《はぎ》という。その後果して竜神の家|毎《つね》に夫は早世し、後家世帯が通例となる。その尼のために小祠を立て、斎《いわ》い込んだが毎度火災ありて祟《たた》りやまずと。尼がかく詛うたは、宿主の悪謀を、その妻が諫《いさ》めたというような事があった故であろう。かつて東牟婁郡高池町の素封家、佐藤長右衛門氏を訪《たず》ねた時、船を用意して古座川を上り、有名な一枚岩を見せられた。十二月の厳寒に、多くの人が鳶口《とびぐち》で筏《いかだ》を引いて水中を歩く辛苦を傷《いた》み尋ねると、この働き、烈しく身に障《さわ》り、真砂という地の男子ことごとく五十以下で死するが常だが、故郷離れがたくて、皆々かく渡世すと答えた。竜神に男子の早世多きも何かその理由あり。決して比丘尼の詛いに由らぬはもちろんながら、この辺、昔の熊野街道で色々土人が旅客を困らせた事あったらしく、西鶴の『本朝二十不孝』巻二「旅行の暮の僧にて候《そうろう》、熊野に娘優しき草の屋」の一章など、小説ながら当時しばしば聞き及んだ事実に拠《よ》ったのだろう。その譚《はなし》にも竜神の伝説同様、旅僧が小判多く持ったとばかり言うて、金作りの鶏と言わず、熊野の咄《はな》しは東北国のより新しく作られ、その頃既に金製の鶏を宝とする風なかったものか。この竜神の伝説を『現代』へ投じた後数日、『大阪毎日』紙を見ると、その大正九年十二月二十三日分に、竜神の豪家竜神家の嗣子が病名さえ分らぬ煩いで困りおる内、その夫人に催眠術を掛けると俄《にわか》に「私は甲州の者で、百二十年前夫に死に別れ、悲しさの余り比丘尼になり、世の中に亡夫に似た人はないかと巡礼中、この家に来り泊り、探る内、私の持った大判小判に目がくれ、竜神より上山路村を東へ越す捷径《ちかみち》、センブ越えを越す途上、私は途中で殺され、面皮を剥いで谷へ投げられ、金は全部取られた。その怨みでこの家へ祟るのである」と血相変えて述べおわって覚めたと出た。それに対して竜神家より正誤申込みが一月十九日分に出た、いわく、百五十年ほど前、一尼僧この地に来り、松葉屋に泊り出立せしを、松葉屋と中屋の二主人が途中で殺し、その金を奪うた報いで両家断絶し、今にその趾《あと》あり云々。これを誤報附会したのでないかと。この竜神氏、当主は余の旧知で、伊達千広(陸奥宗光伯の父)の『竜神出湯日記』に、竜神一族は源三位頼政《みなもとのさんみよりまさ》の五男、和泉守頼氏《いずみのかみよりうじ》この山中に落ち来てこの奥なる殿垣内《とのがいと》に隠れ住めり、殿といえるもその故なり。末孫、今に竜神を氏とし、名に政の字を付くと語るに、その古えさえ忍ばれて「桜花本の根ざしを尋ねずば、たゞ深山木《みやまぎ》とみてや過ぎなむ」とあるほどの旧《ふる》い豪家故、比丘尼を殺し金を奪うはずなく全くの誤報らしいが、また一方にはその土地の一、二人がした悪事が年所を経ても磨滅せず、その土地|一汎《いっぱん》の悪名となり、気の弱い者の脳底に潜在し、時に発作して、他人がした事を自家の先祖がしたごとく附会して、狂語を放つ例も変態心理学の書にしばしば見受ける。
 金製の鶏でなく正物の鶏を宝とした例もある。元魏の朝に漢訳された『付法蔵因縁伝』五に、馬鳴《めみょう》菩薩|華氏城《かしじょう》に遊行教化せし時、その城におよそ九億人ありて住す。月支《げっし》国王名は栴檀《せんだん》※[#「罘」の「不」に代えて「厂+(炎+りっとう)」、第4水準2−84−80]昵※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]《けいじった》、この王、志気雄猛、勇健超世、討伐する所|摧靡《さいひ》せざるなし、すなわち四兵を厳にし、華氏城を攻めてこれを帰伏せしめ、すなわち九億金銭を索《もと》む。華氏国王、すなわち馬鳴菩薩と、仏鉢《ぶつばつ》と、一の慈心鶏を以て各三億金銭に当て、※[#「罘」の「不」に代えて「厂+(炎+りっとう)」、第4水準2−84−80]昵※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]王に献じた。馬鳴菩薩は智慧殊勝で、仏鉢は如来《にょらい》が持った霊宝たり。かの鶏は慈心あり。虫の住む水を飲まず。ことごとく能く一切の怨敵《おんてき》を消滅せしむ。この縁を以て九億銭の償金代りに、この三物を出し、月支国王大いに喜んで納受したそうだ。これは実に辻褄の合わぬ噺《はなし》で、いわゆる慈心鶏が一切の怨敵を消滅せしむる威力あらば、平生厚く飼われた恩返しに、なぜ華氏城王のために奮発して、月支国の軍を打破消滅せしめず、おめおめと償金代りに敵国へ引き渡しを甘んじたものか。
 世間の事、必ず対偶ありで西洋にも似た話あり。十三世紀にコンスタンチノプル帝、ボールドウィン二世、四方より敵に囲まれて究迫至極の時、他国へ売却した諸宝の内に大勝十字架あり、これを押し立て、軍《いくさ》に趨《おもむ》けば必ず大勝利を獲《う》というたものだが、肝心緊要の場合に間に合わさず、売ってしまったはさっぱり分らぬとジュロールの『巴里《パリ》記奇』に出《い》づ。例の支那人が口癖に誇った忠君愛国などもこの伝で、毎々他国へ売却されて他国の用を做《な》したと見える。警《いまし》めざるべけんやだ。
 一八九八年、ロンドン板デンネットの『フィオート民俗記』に、一羽の雌鶏が日々食を拾いに川端に之《ゆ》く。ある日|※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]《わに》が近付いて食おうとすると、雌鶏「オー兄弟よ、悪い事するな」と叫ぶに驚き、なぜわれを兄弟というたかと思案しながら去った。他日今度こそきっと食ってやろうと決心してやって来ると、雌鶏また前のごとく叫んだので、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]、またなぜわれを兄弟と呼ぶだろう。我は水に、彼は陸上の町に住むにと訝《いぶか》り考えて去った。何とも解《げ》せぬから、ンザムビ(大皇女の義で諸動物の母)に尋ねようと歩く途上、ムバムビちゅう大|蜥蜴《とかげ》に逢い仔細を語ると、大蜥蜴がいうよう、そんな事を問いに往くと笑われる、全く以て恥|暴《さら》しだ。貴公知らないか、鴨は水に住んで卵を産み鼈《すっぽん》もわれも同様に卵を産む。雌鶏も汝もまた卵を生めばなんとわれらことごとく兄弟であろうがのとやり込められて、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]は口あんぐり、それより今に至って※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]は雌鶏を食わぬ由、これは西アフリカには※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]がなぜか雌鶏を食わない地方があるので、その訳を解かんとて作られた譚と見える。アラビヤの昔話に、賢い老雄鶏が食を求めて思わず識《し》らず遠く野外に出で、帰途に迷うて、為《な》す所を知らず、呆然として立ち居るとただ看る狐一疋近づき来る。たちまち顧みると狐がとても登り得ぬ高い壁が野中に立つ、因って翅《つばさ》を鼓してそれに飛び上り留まる。狐その下に来り上らんとしても上り得ず、種々の好辞もて挨拶すれど、鶏一向応ぜず。ただ眼を円くして遠方を眺める。その時狐が言い出たは、わが兄弟よ、獣の王たる獅子と鳥の王たる鷲《わし》が、青草茂れる広野に会合し、獅子より兎に至る諸獣と、鷲より鶉《うずら》に至る諸禽とことごとく随従して命を聴かざるなし、二王ここにおいてあまねく林野|藪沢《そうたく》に宣伝せしめ、諸禽獣をして相融和して争闘するなからしめ、いささかも他を傷害するものあればこれを片裂すべしと命じ、皆一所に飲食歓楽せしむ。また特に余をして原野に奔走して洩《も》れなく諸禽獣に告げ早く来って二王に謁見しその手を吸わしむ。されば汝も速やかに壁上より下るべしと。鶏は更に聞かざるふりしてただ遠方を望むばかり故、狐大いにせき込んで何とか返事をなぜしないと責むると、老鶏始めて口を開き、狐に向い、汝の言うところは分って居るがどうも変な事になって来たという。どう変な事と問うとアレあそこに一陣の風雲とともに鷹群が舞い来ると答える。狐大いに惧れて犬も来るんじゃないか、しっかり見てくれと頼む。鶏とくと見澄ました体《てい》で、いよいよ犬が鮮やかに見えて来たというので、狐それでは僕は失敬すると走り出す。なぜそんなに急ぐかというと、僕は犬を懼《おそ》れると答う。たった今鳥獣の王の使として、一切の鳥獣に平和を宣伝に来たと言うたでないか、と問うに、ウウそれはその何じゃ、獣類会議に犬はたしか出ていなかったようだ、何に致せ僕は犬を好かぬから、どんな目に逢うかも知れない、と言うたきり、跡をも見ずに逃げ行く見にくさ。鶏は謀計もて大勝利を獲、帰ってその事を群鶏に話した由(一八九四年スミツザース再板、バートンの『千一夜譚』巻十二の百頁已下)、昨今しばしば開催さるる平和会議とか何々会議とかの内には、こんなおどかし合いも少なからぬべしと参考までに訳出し置く。
 ジェームス・ロング師の『トリプラ編年史』解説にいわく、この国の第九十八代の王、キサンガファーに十八子あり、そのいずれに位を伝うべきかと思案して一計を得、闘鶏係りの官人をして、闘鶏の食を断たしめ置き、王と諸王子と会食する時、相図に従って一斉に三十鶏を放たしめた。十分餓えいた鶏ども、争うて食堂に入って膳を荒した。インドの風として鶏を不吉の物とし、少しでも鶏に触れられた食物を不浄として太《いた》く忌むのだ。しかるに王の末子ラトナファーのみ少しも騒がず、あり合せた飯を執って投げるを、拾うて鶏が少しもその膳を穢《けが》さず、因って末子が一番智慧ありと知れた。王|※[#「歹+且」、第3水準1−86−38]《そ》して後、諸兄これを遠ざけ外遊せしめたが、ガウルに趨《おもむ》き回教徒の兵を仮り来て兵を起し、諸兄を殺し(一二七九年頃)、マンクの尊号を得、世襲子孫に伝えたと。
 孔雀は鶏の近類故このついでに孔雀の話を一つ申そう。一八八三年サイゴンで出たエーモニエーの『柬埔※[#「寨」の「木」に代えて「禾」、176−10]《カンボジア》人風俗信念記』に次の話がある。ある若者、その師より戒められたは、妻を娶《めと》るは若い娘か後家に限り、年取った娘や、嫁入り戻りの女を娶るなかれと。その若者仔細あって師の言に背《そむ》き、この四種の女を一度に娶った後、師の言の中《あた》れるや否やを験するため、謀って王の最愛の孔雀を盗み、諸妻に示した後|匿《かく》し置き、さて、鶏雛を殺してかの孔雀を殺したと詐《いつわ》り、諸妻に食わせた。若い娘と後家はこの事を秘したが、年取った娘と、嫁入り戻りの妻は大秘密と印した状を各母に送ってこの事を告げたので、明日たちまち市中に知れ、ついに王宮に聞えた。王怒ってその若者、および四妻を捕え刑せんとした。若者すなわちその謀を王に白《もう》し、匿し置いた孔雀を還したので、王感じ入って不貞の両妻を誅した。爾来《じらい》夫の隠し事を密告し、また夫を殺す不貞の婦女をスレイ・カンゴク・メアス(金の孔雀女)と呼ぶと。若い娘と後家が貞なる訳は後に解こう。
 ウィリヤム・ホーンの『ゼ・イヤー・ブック』の三月三十一日の条にいわく、一八〇九年三月三十日、大地|震《ふる》うてビークン丘とビーチェン崖と打ち合い、英国バス市丸潰れとなる由を、天使が一老婆に告げたという評判で、市民不安の念に駆られ、外来の客陸続ここを引き揚げたが、その事起るべきに定まった当日、正午になっても一向起らず、大騒ぎせし輩、今更軽々しく妖言を信じたを羞《は》じ入った。この噂の起りはこうだ。ビークン丘とビーチェン崖の近所に住める二人の有名な養鶏家あって、酒店で出会い、手飼いの鶏の強き自慢を争うた後、当日がグード・フライデイ
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