か》いいしなり。左に模《うつ》しし画にてその製《つく》り様を見たもうべし(第四図イ)、『鹿苑院殿御元服記《ろくおんいんどのごげんぷくき》』永和元年三月の条、〈御車新造、東寺より御輿、御力者十三人、牛飼五人、雑色《ぞうしき》九人、車副《くるまぞい》釜取以下〉とあるは、老懸を附けし者の供奉《ぐぶ》の事を記ししにて釜取といいしは最《いと》古し。また『太平記抄』慶長十五年作二十四巻、巻纓《けんえい》の老懸の註に、老懸とは下々《しもじも》の者の鍋取というような物ぞと見え、寛永十九年の或記に浅黄《あさぎ》の指貫《さしぬき》、鍋取を冠り、弓を持ち矢を負うとあり。貞室の『かたこと直し』慶安三年印本に※[#「糸+委」、第3水準1−90−11]《おいかけ》を鍋とりという事いかがと制したれど、その師|貞徳《ていとく》の句にも見え近くは『仮名字例』(延宝四年印本)に「おいかけ、※[#「糸+委」、第3水準1−90−11]、冠具。俗ナベトリというとあり、今は老懸を知らざる者なく、厨の鍋受は見ざる人多かるべし」、『油かす』寛永二十年編云々「公家《くげ》と武家とはふたかしらなり」「なべとりをかぶとの脇に飾りつけ」前句に二頭《ふたかしら》とあれば、かぶり物を二つ取り合せ、武家冑、老懸公家と附けたるなり。『俳諧二番鶏』元禄十五年印本了我撰、前「下妻と八重に打ち合ふ春の風、一林」付「一枚さしたる櫛は鍋取、了我」、柳翁いわくこれも櫛を老懸に見立てし句なり。『空林風葉』天和三年刻自悦撰、節分「鍋取飛んでほうろく豆踊る今宵《こよい》の天、流辺」、上に録したる句は老懸をいいしにはあらず。この(すなわち第四図イ)鍋取の形を蝶鳥の翼に見立てし吟なり」とあった。
[#「第4図」のキャプション付きの図(fig2540_04.png)入る]
『和名類聚鈔《わみょうるいじゅしょう》』に、〈※[#「糸+委」、第3水準1−90−11]、和名冠ノオ、老人|髻《もとどり》落つるを※[#「糸+委」、第3水準1−90−11]を以て繋ぐ〉とあり。『康煕字典』を見ると、冠の緒をも緒を係る飾りをも※[#「糸+委」、第3水準1−90−11]《すい》といったらしく、その飾りは蝉《せみ》の形や旄牛《ぼうぎゅう》の尾を立てたらしい。されば上出『仮名字例』等に※[#「糸+委」、第3水準1−90−11]を老懸に充《あ》てたは当りいる、これをオイカケというは緒を懸ける義で、老懸は当て字、それを強解するとて、髻落ちた老人は、※[#「糸+委」、第3水準1−90−11]で繋ぎ留めるなどいうたのであろう。鎌倉時代に土御門通方卿《つちみかどみちかたきょう》が筆した『餝《かざり》抄』に、老懸古今厚薄異なるなり、古は外薄きなり、今は甚だ厚し云々と見ゆれば、仕立てに色々流行が異なったのだ。わが邦で弓矢を帯ぶる輩これを著けたは、昔英国で「コッケイドを立てる」とは兵士になったてふ意味だったと偶合する。鍋取また釜取は鍋釜の下に敷く物で、その古い形が老懸に似たので老懸を鍋取と俗称したは、『用捨箱』の説通りだ。さて老懸を櫛に、鍋取の形を蝶鳥の翼に見立てたのも、英国のコッケイド(第三図イ)の上に拡がり立てたファン(扇)と呼ばるる部分が、翼にも、櫛にも似いるに似ている。『用捨箱』の書かれた頃は、草鞋形の鍋取がたまたま用いられたそうだが、現に拙宅に伝え用いいる物は正円で、第三図ロに示す英国のコッケイドに似ている。かように似ているだらけによく似ているが、わが邦の老懸は支那の※[#「糸+委」、第3水準1−90−11]から転化して冠とともにわが邦で発達したので、もと冠の緒を掛けるための設備、欧州のコッケイドは、老懸が冠の両傍に備わると違い、帽の一方のみに立てられ、その原型らしい物が、わずかに十五世紀にラブレーの書に初めて見え、まさか日本に模したのではあるまじければ、日本国より欧州に倣うたでもない。老懸も鍋取も、帽の一方の縁を起すために穿った穴と、それを通して帽頂に繋ぎ留めた緒の端のボタンとより出来上ったコッケイドとは全く同形異源だ。世間事物の外形は千変万化も大抵限りあれば、酷似せるものが箇々別源から出来上るも不思議ならず。その源由を察せずに、似た物は必ず同根同趣と判断するは大間違いじゃ。孟子とルッソー、大塩とクロムウェルを同視したり、甚だしきは、米国学者が、貝原益軒は共和政治を主張したと言ったとて感心しいる人もある故、一言し置く。
『日本紀』に日本武尊東夷を平らげて碓日坂《うすひさか》に到り、前日自身に代って水死した弟橘媛《おとたちばなひめ》を追懐して東南を望み、吾嬬《あずま》はや、と三たび嘆じた。それから東国をアズマと呼ぶとある。鳥が鳴くアズマのアズマだけ分って、鳥が分らぬ。宮崎道三郎博士かつて『東洋学芸雑誌』に書かれたは、朝鮮語で晨《あさ》をアチム、例推するに本邦で上世、晨すなわち日の出る事をアズマと呼び、東は日の出る方故、東国を朝早く鳴く鶏に併《あわ》せて鳥が鳴く吾妻と称えただろうと、洵《まこと》に正説で、ドイツでも朝も東も通じてモルゲンと名づくる。前述の通り、『淮南子』に〈鶏まさに旦《あした》ならんを知り、鶴夜半を知る〉とあり、呉の陸※[#「王+饑のつくり」、第3水準1−88−28]は、鶴は鶏鳴く時また鳴くといった。烏が朝暮に定まって鳴くは周知された事、したがって伊勢・熱田等に鶏を神物とすると同時に、熊野を始め烏を神使とした社が多い。古エジプトには狗頭猴が旦暮に噪《さわ》ぎ叫ぶよりこれを日神の象徴とした。予は不案内だが、親友小鳥好きの人の話に、駒鳥は夜の九時になると必ずチーンと一声鳴き、爾後静まり返って朝まで音もせぬ由。当否は論ぜず、この事あるに由って古人が支那書の知更雀を駒鳥と訓《よ》ませたと見える。東牟婁郡第一の高山、大塔の峰で年久しく働く人々に聞いたは、かの山難所で時計など持ち行く者なく、鶏飼うべき所もないが、ちょうど一番鶏の鳴く頃ゴキトウゴキトウと鳴く鳥あり。暁に近づくとニエニエと鳴く鳥あり。昨夜はゴキトウの鳴くまで飲んだとか、ニエの声で起きたとか、あらまし時計代りに語り用ゆと。時計の運搬のならぬ処までも酒は行き渡り居るらしい。支那の三十六禽に雉と烏を鶏に属したは、鶏、烏と斉《ひと》しく雉も朝夕を報ずるものにや。『開元天宝遺事』に商山の隠士高太素、一時ごとに一猿ありて庭前に詣《いた》り鞠躬《きっきゅう》して啼《な》く、目《なづ》けて報時猿と為《な》すと、時計の役を欠かさず勤めた重宝な猿松だ。『洞冥記』に影娥池の北に鳴琴の院あり、伺夜鶏あり、鼓節に随って鳴く、夜より暁に至る、一更ごとに一声を為《な》し、五更に五声を為す、また五時鶏というとある。時計同様に正しく鳴く鶏だ。『輟耕録』二四にかつて松江鍾山の浄行菴に至って、一の雄鶏を籠にして殿の東簷《とうえん》に置くを見てその故を請い問う。寺僧いわく、これを畜《こ》うて以て晨《しん》を司《つかさど》らしむ。けだし十余年なり、時刻|爽《たが》わずと、余|窃《ひそ》かに記す。張公文潜の『明道雑志』にいわく、鶏|能《よ》く晨を司る事経伝に見《あら》われて以て至論と為す、しかれどもいまだ必ずしも然らざるなり。あるいは天寒く鶏|懶《ものう》ければまさに旦ならんとするに至っていまだ鳴かず。あるいは夜月出る時、隣鶏ことごとく鳴く、大抵有情の物自ずから常ある能わずしてあるいは変ずるなり。もししからばすなわち張公が言非なるか、因って挙似して以てその所以《ゆえん》を詢《と》う、僧いう晨を司る鶏は必ず童を以てす。もし天真を壊《やぶ》らば豈《あに》能く常あらんや、けだし張公特にいまだこの理を知らざる故のみと記す。雄鶏を雌と隔離して一生交会せしめなんだら果して正しく時を報ずるものにや。暇多い人の実験を俟《ま》つ。『世説新語《せせつしんご》補』四に賀太傅呉郡の大守と為《な》りて初め門を出でず、呉中の諸強族これを軽んじ、すなわち府門に題していわく、会稽《かいけい》の鶏は啼く能わずと。賀聞きてことさらに出で行き、門に至りて反顧し、筆を求めてこれを足して曰く、啼くべからず、啼かばすなわち呉児を殺さんと。ここにおいて諸屯邸に至り、諸強族が官兵を役使しまた逋亡《ほぼう》を蔵せるを検校し、ことごとく事を以て言上し、罪さるる者甚だ多し、陸杭時に江陵の都督たり、ことさらに孫皓に下請し、しかる後《のち》釈くを得たりとある。昔細川幽斎、丹後の白杉という所へ鷹狩に出た時、何者か道の傍《かたわら》の田の畔《くろ》に竹枝を立て書いた物を掛け置いた。見れば百姓の所為らしい落書だった。その文句に「一[#「一」に白丸傍点]めいわく仕《つかまつ》るはに[#「に」に白丸傍点]がにがしき御仕置《おしおき》にて、さん[#「さん」に白丸傍点]ざんし[#「し」に白丸傍点]ほうけご[#「ご」に白丸傍点]んご道断なり。六[#「六」に白丸傍点]月の日てりには七[#「七」に白丸傍点]貧乏をかかげはち[#「はち」に白丸傍点]をひかくふせい、く[#「く」に白丸傍点]にに堪忍なるように十[#「十」に白丸傍点]分にこれなくとも仰せ付けられ下さるべく候」と書き付けてあり、幽斎大いに笑い、閑雪という側坊主を召してその紙の奥に書かせたは、「十[#「十」に白丸傍点]分の世の中にく[#「く」に白丸傍点]せ事を申す百姓かな、八[#「八」に白丸傍点]幡聞かまじきとは思えども、七[#「七」に白丸傍点]生よりこの方《かた》六[#「六」に白丸傍点]になきは地下《じげ》の習い、ご[#「ご」に白丸傍点]くもんに懸るかし[#「し」に白丸傍点]ばりて腹をいんと思えども、さん[#「さん」に白丸傍点]りんに隠れぬれば、に[#「に」に白丸傍点]くき仕方を引き替えて一[#「一」に白丸傍点]国一命|免《ゆる》すものなり」と。かく書かせて元の所へ置かせられた(改定史籍集覧本『丹州三家物語』七三頁)、三国|鼎争《ていそう》の最中や戦国わずかに一統された際の人間は、百姓までも荒々しいと同時に気骨あり、こんな落書をしたので、それを直様《すぐさま》自ら返辞した大守もえらい。昨今の大臣や地方官も何卒《なにとぞ》せめて、この半分も稜《かど》ありて、自ら国民の非難を反駁し、理由さえ正しくば遠慮なしに打ち懲らされたい事じゃ。件《くだん》の賀太守を会稽の鶏に比べたは、その頃会稽に鳴かぬ鶏が有名であったらしい。予サンフランシスコへ着いて下宿の傍に鶏を多く畜《か》う家の鶏が、毎夜規律なく啼き通すに呆《あき》れたが、その後《のち》スペイン人オヴィエドの『西印度誌』六を繙《ひもと》くと似た事を記しあった。いわく、スペインおよび欧州の多くの部分では鶏が夜央《よなか》と日出に鳴き、ある鶏は一夜に三度、すなわち二時また三時と真夜中と曙光が見える四分の一時前とに鳴く。しかるに西インド辺では日没後一時、また二時して鳴き夜明け前一、二時また鳴くが夜中に鳴かぬ、ある鶏は夜の初更《しょこう》に鳴くきりでその他一度も鳴かぬ。故に一夜に二回また一回鳴き、夜中には鳴く事なし、さて、西インドの最も多くの鶏は日出の一時半か二時前に唱うと。それから北アフリカや西伊仏国の猫は二月初半に喚き歩いて妻を呼ぶが、西インドへ輸入するとたちまち風変りとなって鳴き噪《さわ》がず、その代りにいつ盛るという定めもなく年中唖でやり通しで、林中に食物多き故、野生となって大いに蕃殖《はんしょく》す。鶏が時を違え猫がやり通しにし散らすも気候の影響だろうと論じ居る。自分不案内の事ながら自分や知人どもが知り得た所に拠ると、どうも日本の鶏が雑種多くなるに伴《つ》れて鳴く時が一定せぬようになったと惟《おも》う。その理由を研究して多少明らめ得た所があれど今は述べず、読者諸君にも研究を勧め置く。南米のある地方へ鶏を移した時、どうも蕃殖せなんだが、この頃は蕃殖すると聞く。そのごとく外国種の鶏も追々土著しおわるに従って鳴く時も一定するはずかとも考える。
 時計のない世に鶏を殊に尊んだは、諸社にこれを放ち飼いにし、あるいは神鳥としてその肉を食わなんだで知れる。インドでも鶏肉を忌むが、多く堂の側に半野
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