生として放置したらしい(一八九五年ケンブリッジ板、カウエルの『仏本生譚』二巻二八〇頁)、仏寺にも勤行《ごんぎょう》修学の時を規すため、鶏を飼うを忌まなんだは、北院御室の『右記』に、寺の児童小鳥飼う事は大失《たいしつ》なくとも一切停止す、鶏と犬は免ず、内外典中その徳を多く説けり。鶏に五徳あり、あるいはその家の吉凶を告ぐ、また真言宗に白鶏尾を秘壇の中瓶に立つる事あり、殊に時刻を告ぐる事大事大切なりとあるので分る。鶏の五徳とは、『韓詩外伝』に、頭に冠を戴くは文なり。足に距《けづめ》を持つは武なり。敵前に敢《あ》えて闘うは勇なり。食を見て相呼ぶは仁なり。夜を守って時を失わぬは信なりと出づ。これについて可笑《おか》しきは、彬師という僧客と対するに猫が一疋その傍《かたわら》に離れざるを彬客に語った言葉で、人は鶏に五徳ありというがこの猫にも五徳あり。鼠を見るも捕えず仁なり。鼠に食を奪わるるも怒らずに譲り与うるは義なり。客至って饌《せん》を設くればすなわち出で来るは礼なり。物を蔵するに密なれども能く盗むは智なり。冬月|毎《つね》に竈《かまど》に入るは信なりと。客聞きて絶倒すと『淵鑑類函』猫の条に出づ。それについてまた可笑しきはボカチオの『イル・デカメロン』に、僧が主人に対してアリストテレスは賢人の七徳とかを述べたが、わが従僕また七徳ありとてその過失を指折り数え立てるところがある。英国の弁護士で『デカメロン』の諸話の起因と類譚を著わしたエー・コリングウッド・リー氏が出板《しゅっぱん》前に書を飛ばして、予が知っただけの事を洩《も》らしくれ編入したいからと言うて来たので、多少書き送った内に、この譚の類話として鶏と猫の五徳を書き送ったが、従僕の七徳として実はその七徳を嘲《あざけ》った譚は読んだ事なしというて来た。一生をこの一書に厮殺《しさつ》したリー氏ですらこの書の内にある事を知り及ばない。だから馬琴の口吻《こうふん》で書を読む事誠に難くもあるかなだ。而《しか》していわんやまたザラに世上に跋扈《ばっこ》する道で聞き塗《みち》に説く輩においてをやだ。それから人は冗談は言わぬもので、往年予、土宜法竜師に分らぬ事あればチト何でも聴きにこいとか言ったのを忘れぬと見え、四年前に仁和寺《にんなじ》御室から叮嚀な封状が届いたのでギョッとしたが、相手が出家ゆえ金の催促でもあるまいと妻子の手前|徐《おもむろ》に開封すると、茶の十徳という事あり、何々を指すか名目を聞かせくだされたいとの文言に大いに周章し、種々|血眼《ちまなこ》で探ったが見えず、『沙石集』等に茶の徳を数えた所はあれど十の数に足らず、何か世間にない書物の名を拵《こしら》えて啌《うそ》でも書いてやろうかと思うたが、いずれ先方も十分支度して掛かったはずと惟えばそうもならず。親の仇同前に心掛けて配慮する内、やっと近頃西鶴の『日本永代蔵《にっぽんえいたいぐら》』巻四の四章に「茶の十徳も一度に皆」てふ題目を立てたを見出した。その話は敦賀港の町|外《はず》れで、荷《にな》い茶屋を営業する小橋の利助といえる者、朝茶を売りて大問屋となり、出精するうち悪心起り、越中、越後に若い者を派遣し、人々の呑み棄てる茶殻を京の染屋に入れるとて買い集め、それを飲み茶に雑《まじ》えて人知れず売り、大利を得たが、天の咎《とが》めを免れず、乱心して自分の奸曲を国中に触れ廻り、死後その屍を天火に焼かれ、跡は化物屋敷になったという事で、譚中に茶の十徳の事は一つも見えぬ。惟うに茶人の著《き》る十徳という物あるに因って、茶を植うれば他の作物に十倍増して利益ある由を、この書の出来た貞享五年頃、またはその前に世に言い囃《はや》し、当時諺となって人口に膾炙《かいしゃ》したものであるまいか。故にこの茶の十徳というは鶏や猫の五徳と事異なり、十倍の利得るといったまでの事で、この徳あの徳と一々名目を列ねたものでなかろうと土宜師へ答え置いたが、どうも自分ながら胡麻《ごま》の匂いがする。識者の高教を仰ぐ。
 右に引いた『韓詩外伝』の文で分る通り、鶏の五徳は雄鶏に限った事で、牝鶏に至っては古来支那で面白からぬ噂あり。牝鶏の晨《しん》するを女が威強くなる兆《きざし》として太《いた》く忌んだが、近頃かの邦《くに》の女権なかなか盛んな様子故、牝鶏が時作っても怪しまれぬだろう。英国でも女に制せらるる骨なし男をヘン・ベックト、牝鶏に啄《つつ》かるるという。グベルナチスいわく、イタリア、ドイツおよびロシアに広く信ぜらるるは牝鶏が牡鶏同然に鳴く時は大凶兆たり。これを聞いた者自分の死を欲せずんば即座にこれを殺すべしと。ペルシャでは牡鶏よく悪鬼を殺すとて墓所にこれを放ち飼いにす。ただし牝鶏の晨するを忌む。論士サッダーこれを駁して牝鶏の晨するものは牡鶏同様魔を殺すの功あろうから殺すべからずと言うた。シシリーではかかる牝鶏は売りも餽《おく》りもせず、主婦が食うべしという由。熊楠案ずるにスエーデンで同心結(コンヌビァル・ノット)を結ぶ内、新婦が婿より前に進みまたわざとらしからぬように手巾を落すと婿が拾ってくれる。かくすると一生嬶旦那で暮し得と信ず(ロイドの『瑞典小農生活』八六頁)。それと同流の心得で、晨する牝鶏を食えば主婦が亭主を尻に敷き続け得と信じたのだ。本邦にも牝鶏の晨するを不吉とした。『碧山日録』に、長禄三年六月二十三日|癸卯《みずのとう》、天下飛語あり、諸州の兵|窃《ひそ》かに城中に屯《たむろ》す、けだし諸公|預《あらかじ》め禍《わざわい》の及ぶを懼るるなり。あるいは曰く、北野天満神の廟の牝鶏晨を報ずるなり。神巫《みこ》これを朝《ちょう》に告ぐというと見ゆ。この時女謁盛んで将軍家ばかりか大諸侯の家また女より大事起らんとしたからこんな評判も立ったのだ。大正八年三月の『飛騨史壇』、故三嶋正英の『伊豆七島風土細覧』に新島《にいじま》の乱塔場に新しく鶏を放ち飼った土俗を載せある。これは卵を食用にするためのよう読まるるが、あるいはもと右述ペルシア同前悪魔|除《よ》けにしたのかとも考う。『松屋筆記』五に浅草観音に鶏を納むるに日を経れば雌鶏必ず雄に変ず、仏力にてかくのごとしとあるが、霊境で交合したり雛を生み、ピーピー走り廻られては迷惑故、坊主が私《ひそ》かに取り替えたであろう。それについて思い出すは李卓吾の『開巻一笑』続二に、陳全遊は金陵の妓なり、詞章に高く多く題詠あり云々、一日隣奴何瓊仙なる者と同飲す、たまたま雄雌鶏相交わるを見、仙請うてこれを詠ぜしむ、その詞に曰く〈汝霊禽にして走獣にあらず、風流の事誰かあらざらん、ただ好く背地に情を偸む、なんぞ当場の呈醜を許さん、かくのごときは律に罪を問うを休《や》めよ、まさにみな笞杖徒流すべし、更に一等を加えて強論せば、殺し来りて我がために下酒とせん〉とは、さすがに詩の本場だけあってよく詠んだ。『五雑俎』に、景物悲歓何の常かこれあらん、ただ人のこれに処する如何というのみ、詩に曰く風雨|晦《くら》し、鶏鳴いてやまずと、もとこれ極めて凄涼《せいりょう》の物事なるを、一たび点破を経れば、すなわち佳境と作《な》ると。さればゲーテはいかな詰まらぬ事をも十分に文想を振うて至極面白く詠んだとショッペンハウエルは讃めたと記憶する。
『常山紀談』に、池田輝政、武士の重宝とすべきは領分の百姓と譜代の士と鶏と三品なり。そを如何と言うに、百姓は田畑を作りて我上下の諸卒を養う、これ一の重宝なり。譜代の士たとえ気に応ぜずして扶持を放すといえども、敵国にてかの者を扶持放たると思わずして間《かん》にも入るるかと思うて疑う故、敵国に逗留する事能わずしてついには我国へ帰りわが兵となる故これ二の宝なり。また目に見ゆる合図、耳に聞ゆる相図は敵の耳目に掛かる故|容易《たやす》く敵国にて成しがたし、鶏鳴は誰もその相図ぞと知らざる故に、すなわち敵国の鶏鳴にて一番鳥にて人衆を起し、二番鳥にて食い、三番鳥にて立つなどと相図を極めて敵もその相図を知らざるの徳あり、これを三の重宝と立てしなりと宣《のたも》うと見え、吉田久左衛門陣中に鶏を飼いしを、時を知るべき心掛け奇特なりとて、家康が感じた由『備前老人物語』に見える。時計始めて渡来した時これを鶏の時を報ずるに比べて明人《みんじん》が時鶏と書いたは、北斗の形した針が時を指し自ずから鳴いて人に知らす事鶏のごとくなる故と白石先生の『東雅』に出づ。慶安元年板『千句独吟之俳諧』には「枕上の時鶏に夢を醒《さま》されて」「南蛮人の月を見るさま」と時鶏の字を用い居る。
 古アテネで娼妓を牝鶏と綽名《あだな》した。これは婉転《えんてん》反側して男客を俟《ま》つの状に象《かたど》り、またカワセミと称えたは路傍に待ちいて客人を捉うるの手速きに拠ったのだ。それから昔尖塔の頂上に板を雄鶏に造って立て、僧徒にこの板が風に随うて動きやまぬごとく少しも懈《おこた》らぬよう訓《おし》えたとジュカンシュは言ったが、グラメー説には、塔頂に十字架に添えて鶏の形を設くるは、ゴット人が雄鶏の武勇にあやかるためこれを軍旗とした遺風という。今は塔上に限らず、民家の屋根にも風見の鉄板を立てるを、鶏の形をせざるになお天気鶏(ウェザー・コック)と呼ぶは右の訳である(ハズリット、二巻六二六頁、ウェブストルの大字書)、欧州で昔カワセミの嘴《くちばし》を括《くく》って全身を掛け置くと、その屍が風の方角を示すと信ぜられ、英国のサー・トマス・ブラウンが実験したところ一向不実と知れた(ブ氏の『俗説弁惑』三巻九章)。
 野生の鶏種々あるがまずは四種とする。英語で総称してジャングル・ファウル(藪鶏)と呼ぶ。第一赤藪鶏は疑いなく一切家鶏の原種で、前インドより後インドの森林と竹藪に棲み、フィリッピン島近きチモン島にもあり。形色すこぶるショウコクに類し、畑を刈った跡へ十羽から二十羽まで群を成して荒しに来る。鳴く声バンタムに似たれど長く引かず、正月より七月の間に乾草や落葉を掻き集めた上に八より十二卵を生むという。熊楠案ずるに、『和漢三才図会』に家鶏日々一卵ずつ生むをその都度取り去れば幾つともなく生み続けて数定まらず、もし取らずに置けば十二卵を生んでやむとあるに拠《よりどころ》あるごとし。次は灰色藪鶏、インドにのみあり、頸毛の茎膨大して角板となり、その尖端黄臘を点ぜるごとし。その声異様にて形容しがたし。藪中で家鶏と交わり卵を生めど、その雛長じても子を産まず。赤藪鶏と近く棲む所では間種を生ずれど、それもまた種を続けず。第三にセイロン特産のシンガリース藪鶏、また家鶏に似るが、胸赤く、冠黄で、縁赤く、頬と頷《あご》の垂嚢《すいのう》が紫赤し。その声清けれどきれぎれに「ジョージ・ジョイス」と呼ぶごとし。家鶏と雑種を生じやすいが種続かず。山の低い部分に住む。第四はジャワ等諸島に住むガルス・ヴァリウス、全く頷毛なく冠大にして切り込みなく、頷垂れただ一なるのみ、羽色多く緑で家鶏との間種は稀に種を伝う。[#地から2字上げ](大正十年十二月、『太陽』二七ノ一四)



底本:「十二支考(下)」岩波文庫、岩波書店
   1994(平成6)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「南方熊楠全集 第一・二巻」乾元社
   1951(昭和26)年
初出:1「太陽 二七ノ一」
   1921(大正10)年1月
   2「太陽 二七ノ二」
   1921(大正10)年2月
   3「太陽 二七ノ三」
   1921(大正10)年3月
   4「太陽 二七ノ五」
   1921(大正10)年5月
   5「太陽 二七ノ一四」
   1921(大正10)年12月
入力:小林繁雄
校正:門田裕志、仙酔ゑびす
2009年5月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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