設け、憂え諫むる人をして表を匱に納《い》れしめ、それでも聴き採られざる時は憂訴の人、鐘を撞《つ》くべしと詔あり。その文を見ると、『管子』に見えた禹|建鼓《けんこ》を朝に立て、訊望に備えたを倣《なろ》うたらしい。久米博士の『日本古代史』八四一頁に、この鐘匱《しょうき》は新令実施が良民資産に直接の関係あるを以て、国司等の専断収賂あるを慮《おもんぱか》りこれを察知せんため一時権宜に設けられたるなり、古書の諫鼓、誹謗木など形式的の物と看做《みな》すは大なる誤解なりとあれど、古支那の諫鼓、撃鐘が冤を訴うるに実用あったは、当時支那に遊んで目撃した外人の留書《とめがき》で判る事上述のごとく、決して形式的でなかった。
概説
鶏、和名カケ、またクダカケ、これは百済鶏《くだらかけ》の略でもと百済より渡った故の名か。かかる類《たぐ》い高麗錦《こまにしき》、新羅斧《しらぎおの》など『万葉集』中いと多し(『北辺随筆』)、カケは催馬楽《さいばら》の酒殿の歌、にわとりはかけろと鳴きぬなりとあるカケロの略で(『円珠庵雑記』)、梵語でクックタ(牝鶏はクックチー)、マラガシーでコホ、新ジォールジァ等でココロユ、ヨーク公島でカレケ、バンクス島でココク(コドリングトンの『メラネシア語篇』四四頁、『ゼ・メラネシアンス』一八頁)等と均《ひと》しく、その鳴き声を名としたのだ。漢名|鶏《けい》というも鶏は稽《けい》なり、能く時を稽《かんが》うる故名づくと徐鉉《じょげん》は説いたが、グリンムの童話集に、鶏声ケケリキとあったり、ニフィオレ島等で鶏をキオ、マランタ島等でクアと呼んだりするから推《お》すと、やはりその声に因って鶏(キー)と称えたのだ。ミソル島で鶏の名カケプ(ワリスの『巫来《マレー》群島記』附録)、マラガシーでアコホ(一八九〇年板ドルーリーの『マダガスカル』三二二頁)など、わが国で鶏声をコケコというに通う。紀州東牟婁郡古座町辺で二十年ばかり前聞いた童謡に「コケロめんどり死ぬまで鳴くが、死んで鳴くのは法螺《ほら》の貝」。大蔵流本狂言『二人大名』に闘鶏の真似する声、コウ/\/\コキャコウ/\/\とある。これは闘う時声常に異なり劇しい故コキをコキャと変じたらしい。『犬子集』一四に「ととよかかよと朝夕にいう」「鶏や犬飼う事をのうにして」。只今は犬を呼ぶにかかといわぬが、鶏を呼ぶにトト/\というは寛永頃既にあったのだ。チドレヤガレラで鶏をトコ、アルチャゴおよびトボでトフィ(ワリス同前)、ファテ等でト、セサケ等でトア、エロマンガでツオ、ネンゴネでチテエと名づくるなど攷《かんが》え合すと、本邦のトトは雄鶏の雌を呼ぶ声に由ったものらしい、魚をトトというは異源らしい。『骨董集』上編上を見よ。
『下学集《かがくしゅう》』上、鶏一名|司晨《ししん》云々、日本にて木綿付鳥《ゆうつけどり》、あるいはいわく臼辺鳥《うすべどり》、これは臼の辺に付け纏《まつ》わって米を拾うからの名であろう。ユウツケ鳥は三説あり、『松屋《まつのや》筆記』七に鶏は申《さる》の時(午後四時)に夕を告げて塒《ねぐら》に籠《こも》るが故に、夕告鳥というにや云々。『敏行歌集』に「逢坂《おうさか》のゆふつけになく鳥の名は聞きとがめてぞ行き過ぎにける」、鳥も夕を告げて暮に向う頃なるに関守《せきもり》は聞き咎めもせず関の戸も閉ざさざれば人も行き過ぎぬとなり。集外三十六歌仙里見玄陳歌にも「遠方《おちかた》に夕告鳥の音すなり、いざその方《かた》に宿りとらまし」とあって、拙宅の鶏に午後四時に定《き》まって鳴くのがある。今一説はユウツケを木綿付と釈くので、仲実《なかざね》の『綺語抄』下にゆうつけ鳥、公の御禊《おはら》えに鶏にゆうを付けて逢坂に放つなりとある。鶏をはたた鳥ともいう(『円珠庵雑記』)は、虫にはたはたあるごとく、翼を叩いて出す音に因ったのだ。『万葉』七に「にはつとりかけのたりをのみたれ尾の、長き心も思はさるかも」。ニワツトリまたニワトリは庭に飼うからの名だ。その他ヤコエノトリ、ネザメドリ、アケツゲドリ、ナガナキドリ、トコヨノトリと種々に異名ある(『重訂本草啓蒙』四四)。「神代巻」や『古事記』に、天照大神《あまてらすおおみかみ》岩戸籠《いわとごも》りの時、八百万《やおよろず》の神、常世《とこよ》の長鳴鳥《ながなきどり》を聚《あつ》め互いに長鳴せしめたと見ゆ。本居宣長曰く、常世の長鳴鳥とは鶏をいう。常世は常夜《とこよ》で常世とは別なり。言の同じきままに通じて、字にはこだわらず書けるは古の常なり。ここに今かく常夜往時に集《つど》えて鳴かせし鳥たるを以て後に負わせし称なるを、その始めへ廻らしてかくのごとくいえるなりと。『淵鑑類函』四二五、『広志』曰く、〈并州の献ずるところ、呉中長鳴鶏を送る〉、また〈九真郡長鳴鶏を出す〉。『広益俗説弁』二五に『桂海虞衡志《けいかいぐこうし》』いわく、〈長鳴鶏は高大常鶏に過ぐ、鳴声甚だ長し、終日啼号絶えず〉とあるが、『礼記』に〈宋廟を祭るの礼、鶏は翰音《かんおん》という〉、註に〈翰は長なり、鶏肥ゆればすなわち鳴声長きなり〉とありて、すべて他の諸鳥より鳴声長く続き、長く続くほど尊ばれたから、古本で鶏をすべて長鳴鳥というたのだ。『類函』に『風俗通』を引いて〈鳴鶏朱々と曰う、俗にいう、相伝う鶏はもと朱氏の翁化してこれと為ると〉、注に〈読むこと祝々のごときは、禽畜を誘致して和順の意〉。これは日本で鶏を呼ぶにトト/\と唱うるごとく、漢時代には朱々と唱えて呼ぶに因って、朱氏翁が鶏になったとこじ付けたのだ。
これから鶏の東西諸邦の名を述べると、古英語で雄鶏をハナ、雌鶏をヘーンといったは、あたかも独語のハーンとヘンネ、蘭語のハーンとヘン、スウェーデン語のハネとヘンネに当る。ヘーンはヘンとなって残ったが、ハナは全く忘却され、現時英語で雄鶏をコック、鶏雛をチッケン、中世ラテンで雄鶏をコックス、仏語でコク、いずれもクックまたキックなる語基より出で、つまりその鳴き声に因った由(『大英百科全書』十一板十三巻二六五頁)。『続開巻一笑』四に、吃《ども》りに鶏の声を出さしむべく賭《かけ》して穀一把を見せ、これは何ぞと問うと、穀々と答えたとあれば支那も英仏同前だ。英名ファウルは独語フォーゲル、デンマーク語フューグルと等しくもと鳥の義だったが、今はシー・ファウル、ウォーターファウル(海鳥、水鳥)等の複名のほか、単にファウルといえば雌雄鶏を兼称する事となりいる(『大英百科全書』十巻七六〇頁)。わが邦でトリは鳥の総名だが、普通の家庭では鶏を指すに等し。ただし正確に鶏を指すにはコンモン・ファウル(尋常鳥)、またダングヒル・ファウル(掃溜《はきだめ》鳥)というて近属のピー・ファウル(孔雀)、ギニー・ファウル(ホロホロ鳥)等と別つ。仏語で雌雄鶏を併称してプール、雛はプーレ、これより出た英名パシルトリーは肉食採卵のため飼った鳥類の総称で鶏、七面鳥、鵝《が》、家鴨《あひる》、皆その内だ(同二二巻二一三頁)、伊語で雄鶏をガロ、雌鶏をガリナ、西語で雄ガヨ、雌ガイナ、露語で雄ペツーフ、雌クリツァなど欧州では雌雄別名が多い。東洋や南洋となると、マレイで雄鶏アヤム・ジャンタン、雌鶏アヤム・ベチナ、サモアで雄鶏モア・タンガタ、雌鶏モア・ファフィネなどはわがオンドリ、メンドリに似居るが、オニワトリ、メニワトリといわぬを見ると、英語のファウルと等しく、昔は鶏を本邦で単にトリといったものか。鳥の音《ね》といえば専ら鶏声を指し居る。鶏の名ヘブリウでウーフ、ヒンズスタンでムルギ、タシルでケリ、ジャワでピテク、モレラ等でマヌ、カジェリでテフイなど何に基づいたのか予に分らぬ。
英語に鶏から出た詞《ことば》が多い。例せば雄鶏が勝気充溢して闘いに掛かるごとく、十分に確信するをコック・シュア、妻に口入れされて閉口するを、雌鶏に制せらるる雄鶏に比べてヘンペックト。それからコケットリー、これは昔は男女ともに言ったが、今は専ら女のめかし歩くを指し、もと雄鶏が雌鶏にほれられたさに威張って闊歩《かっぽ》するに基づく。コケットといえば以前は女たらしの男をも呼んだが今は専ら男たらしの女を指す。それからコックス・コーム(鶏冠)はきざにしゃれる奴の蔑称《べっしょう》で雄鶏が冠を聳《そばだ》てて威張り歩くに象《かたど》ったものだ。また力み返って歩むを指す動詞にも雄鶏の名そのままコックというのがある。往年予西インド諸島で集めた介殻《かいがら》を調べくれたリンネ学会員ウィルフレッド・マーク・ウェッブ氏の『衣装の伝統』(一九一二年板)に、洒落者《しゃれもの》をコックス・コームと呼んだ訳を述べある。シャパロンてふ頭巾《ずきん》は十四世紀に始めて英国で用いられ、貴族男子や武士が冒《かぶ》ったが、十六世紀よりは中年の貴婦人が専ら用いた。だから英仏語ともに未通女《おとめ》の後見として、群聚や公会に趣く老婦をシャパロンと呼ぶ。『ニュウ・イングリシュ・ジクショナリー』に拠ると、近年英国では若い女の後見に添い行く紳士をもこの名で呼ぶ。第二図イに示す通り、以前頭巾の頂後を短く突出したが、追々それがロのごとく長い尾となって垂れ下りついに地に触るるに及んだ。その尾の縁に鰭《ひれ》を附けて誇る事となったが、更に支那人の喧嘩に豚尾を巻き固めたごとく、鰭を畳み頭の一側に立たせて長尾で頭巾に巻き付ける風になり(ハ)、後には手数を省くためニのような出来合《できあい》のシャパロンが出来た。件《くだん》の鰭を頭巾に巻き付けた体《てい》が馬鹿に鶏冠に似ているので、洒落《しゃれ》た風をする男をコックス・コームと称えたそうだ。
[#「第2図 シャパロンの進化」のキャプション付きの図(fig2540_02.png)入る]
[#「第3図 英国のコッケイド二種」のキャプション付きの図(fig2540_03.png)入る]
このシャパロンから出ただろうといわるるコッケイドという物がある。この名もコック(雄鶏)から出たらしく(『大英百科全書』十一板六巻六二二頁)、第三図イの通り鶏冠によく似たから付けた名と見ゆ。これは帽の一方の縁《へり》を高く反《そ》り立たしめる事、昔|流行《はやり》し帽の頂から緒でその縁を引っ張るため縁に穴あり、緒の端に付けたボタンを通して留めた、そのボタンと穴の周囲の環から化け出たというが通説だ(ウェッブ氏の書四四頁)。『大英百科全書』に、英仏その他で政党や軍士が古く形色各別のコッケイドを佩《お》びた事、並びに欧州諸邦の王家それぞれコッケイドの色を異にした例を多く挙げいる。二十九年前の秋、予始めて渡英し王宮辺を徘徊すると、貴族の馬車|絡繹《らくえき》たるその御者が、皆本邦神社の門側に立つ箭大臣《やだいじん》(『旧事紀』に豊磐間《とよいわまど》の命《みこと》、櫛磐間《くしいわまど》の命《みこと》二神をして殿門を守らしむとあり、今の箭大臣はこの二神なるべしと『広益俗説弁』にあれど、『旧事紀』は正書でないから虚説で、その実仏寺の二王門を守るに倣いて作ったのだ)や、百人一首で稚《おさ》な馴染《なじみ》の業平《なりひら》の冠に著けた鍋取《なべとり》によく似た物を黒革作りで高帽の一側に著けあり。中には金魚が落雁《らくがん》を食ったような美少年も多く、南方先生「大内の小さ小舎人《ことねり》ててにや/\」てふ古謡を臆《おも》い起し、寧楽《なら》・平安古宮廷の盛時を眼前に見る心地して、水ばなとともに散り掛かるプラタヌスの下に空腹ながら時ならぬ春を催しやした。かくてあるべきにあらざれば下宿へ還って『用捨箱《ようしゃばこ》』を繙《ひもと》くと「鍋取公家《なべとりくげ》というは卑しめていうにはあらず、老懸《おいかけ》を掛けたるをいえるなり、老懸を俗に鍋取また釜取《かまとり》ともいう」とある。釜取という名からまた先刻見た美少年どもを想い出したのも可笑《おか》しい。「さて今|厨《くりや》にて鍋取を用うる家たまたまあれども草鞋《わらじ》足半《あしなか》の形に作れり、古製は然《しか》らず。小さき扇の形したるが、かの老懸に似たる故に然《し
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