れを塞《ふさ》がしむ。今風雲雷雨壇をその上に建つ(『大清一統志』三二二)。誠に以て面妖な談《はなし》だが、鶏に縁ある日の中に三足の烏ありてふ旧説から訛出したであろう。こんな化物|揃《ぞろ》いの噺《はな》しは日本にもあって、一休和尚讃州旅行の節、松林中に古寺あって僧三日と住せず、化物出ると聞き、自ら望んで往き宿る。夜五|更《こう》になれば変化《へんげ》出て踊り狂う。一番の奴の唄に「東野のばずは糸しい事や、いつを楽とも思いもせいで、背骨は損し、足打ち折れて、ついには野辺の土となる/\」、次の奴は「西竹林のけい三ぞくは、ある甲斐もなきかたわに生まれ、人の情けを得《え》蒙《こうむ》らで、竹の林に独りぬる/\」、三番目の物は「南池の鯉魚は冷たい身やな、水を家とも食ともすれば、いつもぬれ/\にや/\しと/\」と唄う。一休一々その本性を暁《さと》り、明旦《みょうあさ》土人を呼び集め、東の野に馬の頭顱、西の藪中に三足の鶏、南の池に鯉あるべしとて探らせると果してあり。これを葬り読経《どきょう》して怪全く絶えたという(『一休諸国物語』四)。紀州で老人の伝うるは、何国と知れず住職を入れると一夜になくなる寺あり。ある時村へ穢《きたな》い貧僧来るをこの寺へ泊まらせる。平気で読経し居ると、丑《うし》三つ頃、表の戸を敲《たた》きデンデンコロリ様はお内にかという者あり。中より誰ぞと問う声に応じ、東山の馬骨と答え、今晩は至極好い肴《さかな》あるそうで結構でござると挨拶して通る。次は南水のきぎょ、西竹林の三けいちょうと名乗りて入り来り、三怪揃うて僧に飛び掛かるを、少しも動ぜず経を読んで引導を渡すと化物消え失せる。翌朝村人僧の教えのままに、馬頭と金魚、および三足鶏の屍を見出し、また寺の乾《いぬい》の隅《すみ》の柱上より槌《つち》の子を取り下ろす。この槌の子がもっとも悪い奴で、他の諸怪を呼んだのだ。槌の子を乾の隅に置くと怪をなすという。『曾呂利《そろり》物語』四には伊予の出石《いずし》の山寺で足利の僧が妖怪を鎮めたとし、主怪をえんひょう坊、客怪をこんかのこねん、けんやのばとう、そんけいが三足、ごんざんのきゅうぼくとす。円瓢坊は円い瓢箪《ひょうたん》、客怪は坤河《こんが》の鯰《なまず》、乾野の馬頭、辰巳《たつみ》の方の三足の蛙、艮山《ごんざん》の朽木とその名を解いて本性を知り、ことごとく棒で打ち砕いて妖怪を絶ち、かの僧その寺を中興すと載す。漢の焦延寿の『易林』に巽《そん》鶏と為すとあれば、そんけいは巽鶏《そんけい》だ、圭《けい》の字音に拠《よ》って蛙をケイと読み損じて、巽《たつみ》の方の三足の蛙と誤伝したのである。
 熊野地方の伝説に、那智の妖怪一ツタタラは毎《いつ》も寺僧を取り食う。刑部左衛門これを討つ時、この怪鐘を頭に冒り戦う故矢|中《あた》らず、わずかに一筋を余す。刑部左衛門最早矢尽きたりというて弓を抛り出すと、鐘を脱ぎ捨て飛び懸るを残る一筋で射殪《いたお》した。この妖怪|毎《いつ》も山茶《つばき》の木製の槌と、三足の鶏を使うたと。槌と鶏と怪を為《な》す事、上述デンデンコロリの話にもあり、山茶の木の槌は化ける、また家に置けば病人絶えずとて熊野に今も忌む所あり、拙妻の麁族《そぞく》請川《うけがわ》の須川甚助てふ豪家、昔八棟造りを建つるに、烟出《けむりだ》しの広さ八畳敷、これに和布《わかめ》、ヒジキ、乾魚《ひうお》などを貯え、凶歳に村民を救うた。その大厦《たいか》の天井裏で毎夜踊り廻る者あり。大工が天井張った時山茶の木の槌を忘れ遺《のこ》せしが化けたという。
 北欧の古雷神トールが巨鬼を平らぐるに用いた槌すなわち電は擲《なげう》つごとに持ち主の手に還った由で、人その形を模して守りとし、また石斧をトールの槌として辟邪《へきじゃ》の功ありとした(マレの『北方考古篇』五章。一九一一年板ブリンケンベルヒの『宗教民俗上の雷器』八六頁已下)。アフリカのヨルバ人は雷神サンゴは堅いアヤン木で棍棒を作り用ゆという(レオナードの『下ナイジャーおよびその民族』三〇三頁)。仏教の諸神大黒天、満善車王など槌を持ったが少なからず(『仏教図彙』)。定家卿の『建仁元年後鳥羽院熊野御幸記』に鹿瀬山を過ぎて暫く山中に休息小食す、この所にて上下木枝を伐り、分に随って槌を作り、榊《さかき》の枝に結い付け、内ノハタノ王子に持参(ツチ分罰童子云々)し各これを結い付く。これは罪人を槌で打ち罰した神らしい。『梅津長者物語』にも大黒天が打出《うちで》の小槌で賊を打ち懲らす話がある。古エトルリアの地獄神チャルンは巨槌で亡魂どもを打ち苦しむ(デンニス著『エトルリアの都市および墓場』二巻二〇六頁)、『※[#「こざとへん+亥」、208−2]余叢考』三五に鍾馗《しょうき》は終葵《しゅうき》の訛《なま》りで、斉人|椎《つち》を終葵と呼ぶ。古人椎を以て鬼を逐《お》うといえば、辟邪の力ある槌を鍾馗と崇めたのだ。その事毬杖とて正月に槌で毬《まり》を打てば年中凶事なしというに類す(『骨董集』上編下前)。『政事要略』七〇に、裸鬼が槌を以て病人に向うを氏神が追い却《しりぞ》けた事あり。『今昔物語』二十の七に、染殿《そめどの》后を犯した婬鬼赤褌を著けて腰に槌を差したと記す。予が大英博物館に寄付してその宗教部に常展し居る飛天夜叉の古画にも槌を持った鬼がある。つまり昔は槌を神も鬼もしばしば使う霊異な道具としたのだ。劉宋の張稗の孫女、特色あるを富人求めたが、自分の旧い家柄に恥じて与えず。富人怒ってその家に火を付け焼き殺した。稗の子、邦、旅より還って富人の所為と知れどその財を貪って咎めざるのみか、女を嫁しやった。一年後、邦、夢に稗|見《あら》われ、汝不孝極まると言いて桃の枝で刺し殺す。邦、因って血を嘔《は》いて死に、同日富人も稗を夢み病死した(『還冤記』)。桃はもと鬼が甚《いた》く怕《おそ》るるところだが、この張稗の鬼は桃を怖れず、桃枝もて人を殺す。ちょうど悪徒は入れ墨さるるを懼《おそ》るれど、追々は入墨を看板に使うて更に人を脅迫するようだ。そのごとく槌は初め鬼の怖るるところだったが、後には鬼かえって槌を以て人を打ち困らせたと見ゆ。『抱朴子』の至理の巻に、呉の賀将軍、山賊を討つ、賊中、禁術《きんじゅつ》の名人あって、官軍の刀剣抜けず、弓弩《きゅうど》皆還って自ら射る。賀将軍考えたは、金に刃あり、更に毒あるは禁ずべきも、刃も毒もなき物は禁術が利かぬと聞く。彼能くわが兵刃を禁ずれど必ず刃なき物を禁じ能わぬべしと、すなわち多く勁《つよ》い木の白棒を作り、精卒五千を選んで先発せしめ、万を以て計る多勢の賊を打ち殺したが、禁術は一向利かなんだとある。『書紀』七や『豊後国風土記』には景行帝|熊襲《くまそ》親征の時、五人の土蜘蛛《つちぐも》拒み参らせた。すなわち群臣に海石榴(ツバキ)の椎《つち》を作らせ、石窟を襲うてその党を誅し尽くした。爾後その椎を作った処を海石榴市《つばいち》というと記す。山茶《つばき》の木は粘き故当り烈しく、油を搾る長杵《ながきね》にするに折れず。犬殺しの棒は先を少し太くし、必ずこの木を用ゆ。雕工《ちょうこう》に聞くに山茶と枇杷《びわ》の木の槌で身を打てば、内腫を起し一生煩う誠に毒木だと。こんな訳で山茶の槌を使うを忌み、また刀剣同様危ぶみ怕れて、神や鬼の持ち物とし、さては山茶作りの槌や、床柱は化けると言い出したのだ。山茶の朽木夜光る故山茶を化物という(『嬉遊笑覧』十下)のも、またこの木を怪しとする一理由だ。予幼時和歌山に山茶屋敷てふ士族邸あり、大きな山茶多く茂れるが夜分門を閉づれど戸を締めず開け放しだった。然《しか》せぬと天狗の高笑いなど怪事多いと言った。那智の観音本像は山茶の木で作るという。伊勢の一の宮都波木大明神は猿田彦を祀《まつ》る(『三国地誌』二三)、村田|春海《はるみ》の『椿詣での記』に、その地山茶多しとあれば山茶を神としたものか。今井幸則氏説に、常陸《ひたち》筑波郡今鹿島は、昔領主戦場に向うに先だちこの所に山茶一枝を挿《さ》し、鹿島神宮と見立て祈願すると勝利を得たからその地を明神として祀り今鹿島と号すと(『郷土研究』四巻一号五五頁)。鹿島には山茶を神木とするにや。『和泉《いずみ》国神明帳』には従五位下伯太椿社を出す。山茶の木を神として祀ったらしい。
 祭礼の笠鉾《かさぼこ》などに鶏が太鼓に留まった像を出し諫鼓《かんこ》鳥と称す。『塵添※[#「土へん+蓋」、第3水準1−15−65]嚢鈔』九に「カンコ苔《こけ》深しなんど申すは何事ぞ、諫鼓をば諫《いさ》めの鼓と読む。喩《たと》えば唐の堯帝政を正しくせんがために、悪《あ》しき政あればこの鼓を撃ちて諫め申せと定め置かれしなり。中略、何たる卑民の訴えも不達という事なかりしなり」、『連珠合璧』下、鼓とあれば諫め、苔深し。『鬻子《いくし》』に禹《う》の天下を治むるや五声を以て聴く。門に鐘鼓|鐸磬《たくけい》を懸け、以て四方の士を待つ。銘に曰く、寡人に教うるに事を以てする者は鐸を振え、云々。道を以てする者は鼓《こ》を撃てと。『淵鑑類函』五二に〈堯誹謗の木を設け、舜招諫の鼓を懸く〉とあれど出処を示さず。熊楠色々と捜すと『呂覧』自知篇に〈堯欲諫の鼓あり、舜誹謗の木あり〉と出たが一番古い。余り善政行き届いて諫鼓の必用なく、苔深く蒸したと太平の状を述べたとまでは察するが、もっとも古くこの成語を何に載せたかを知らぬ。白居易作、敢諫鼓の賦あり。『包公寄案』には屈鼓とした。冤屈を訴うる義だ。『類聚名物考』二八五に土御門《つちみかど》大臣「君が代は諫めの鼓鳥|狎《な》れて、風さへ枝を鳴らさゞりけり」、三二〇に「今の世に禁庭八月の燈籠の作り物等に鼓上に鶏あるを出す、諫鼓苔深くして鳥驚かずの意より出《い》づと、云々、此方《こなた》の上世は専ら唐制を移されたれば、恐らくは金鶏の作り物にやあるべき」とありて、封演の『聞見記』を引き、唐朝大赦ある時、闕下《けっか》に黄金の首ある鶏を高橦《こうとう》の下に立て、宮城門の左に鼓を置き、囚徒至るを見てこれを打ち、赦を宣《のたま》えおわりて金鶏を除く、この事魏晋|已前《いぜん》聞えず、後魏または呂光より始まるという。北斉赦あるごとに金鶏を閭門に立てる事三日でやむ。万人競うて金鶏柱下の土を少しく取り佩《お》ぶれば、日々利ありというに数日間ついに坑を成した。星占書に天鶏星動けば必ず赦ありと見えるからの事だと述べ、また万歳元年|嵩山《すうざん》に封じた時、大※[#「木+解」、第3水準1−86−22]樹杪に金鶏を置いた由を記す。しかし支那に諫鼓また屈鼓が実在した証は外国人の紀行に存す。例せば一六七六年マドリッド板、ナヴァレッテの『支那帝国誌』一二頁にいわく、すべて支那の裁判所はその高下に随って大小の太鼓を備え、訟あるごとにこれを打つ、南京《ナンキン》の法庁にある者、殊に大きく象皮一枚を張り、大なる棒を高く荒縄で釣《つ》るしてこれを打つと。レーノー仏訳、九世紀のアラビア人、ソリマンの『支那記』四一頁にいわく、支那には市ごとに知事の頭の上に鐘を釣るしてダラー(銅鑼?)と名づく、それに付けた緒《お》は街まで引っ張り置き、誰でもこれを引いて鳴らすを得、その緒長きは一パラサンに達すとある。これはペルシャの尺度で三英マイル半から四英マイル、時代に依って変る。ちょっと緒に触れば鐘が鳴り出すようにしあって、不正の裁判を受けた者、この緒を動かし鐘を知事の頭上で鳴らすと、知事|躬《みずか》らその冤訴を聴き公平の処分をする。かかる鐘を諸地方皆備えいると。レーノー注に、十二世紀のアラビア人エドリシの『世界探究記』に拠れば、昔|北京《ペキン》の帝の宮殿近く太鼓の間あり。諸官兵士日夜これを警衛す、裁判不服の者と裁判を得ざる者、その太鼓を鳴らせば法官|躊躇《ちゅうちょ》せずその愁訴を聴き公平に判決す。この制今は行われずと。ユールの『カタイおよびその行路』巻一序論一〇六頁に、シャムの先王この制を立てしもその役務の小姓ら尽力して廃止したとある。日本にも『書紀』二五、大化改新の際朝廷に鐘を懸け、匱《はこ》を
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