これを敬愛称美するとあった。予かつて南ケンシントン美術館に傭《やと》われいし時、インドの美術品に貴婦が、遊逸談笑するに両|肱《ひじ》を挙げて、腋窩《えきか》を露《あら》わすところ多きを見て、インドの貴紳に向い、甚だ不体裁な事と語ると、その人わが見るところを以てすればこれほど端正な相好なしと至って真面目《まじめ》に答え、更に館に多く集めた日本の絵に、美女が少しく脛《はぎ》を露わせるを指ざし、非難の色を示した。されば太宰春台《だざいしゅんだい》が『通鑑綱目《つがんこうもく》』全篇を通じて朱子の気に叶《かの》うた人は一人もないといったごとく、第一儒者が道徳論の振り出しと定めた『春秋』や、『左伝』も、君父を弑《しい》したとか、兄妹密通したの、人の妻を奪うたのという事のみ多く、わが邦で賢母の模範のようにいう曾我の老母も、若い時京の人に相《あい》馴《な》れて京の小次郎を生んだとあるから私通でもしたらしく、袈裟御前《けさごぜん》が夫の身代りに死んだは潔《いさぎよ》けれど、死する事の一日後れてその身を盛遠《もりとお》に汚されたる事千載の遺恨との評がある。常磐《ときわ》が三子助命のために忍んで夫の仇に身
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