邪鬼《じゃく》だというと、これは足の構造に基づくはもちろんながら、山羊、綿羊共に決して一汎《いっぱん》にいわるるほど柔順でなく卞彬《べんぴん》は羊性淫にして很《もと》るといった。很は〈従い聴かざるなり、また難を行うなり〉とある、それを一疋ずつ扱わで一群として扱う事の易《やす》きは誠に楊朱の言のごとし。予欧州にあった日、大高名の学者と伴《つ》れて停車場へ急ぐ途中種々の事を問い試むるにその返答は実に詰まらぬものばかりだった。われも人も肩を軋《きし》って後れじと専念する際にはいかな碩儒《せきじゅ》も自分特有の勘弁も何も出ないのだ。されば人間も羊同然箇人としてよりは群集としての方が扱いやすいかも知れぬ。
『孔子|家語《けご》』や『説苑』に季桓子《きかんし》井を穿《うが》ちて土缶《つちつぼ》を得、中に羊あり、土中から狗《いぬ》を得たといって孔子に問うと、孔子はさすが博識で、われ聞くところでは狗ではなくて羊だろう、木の怪は※[#「(止+(首/儿)+巳)/夂」、第4水準2−5−28]罔両《きもうりょう》、水の怪は龍罔象、土の怪は※[#「羚」の「令」に代えて「賁」、16−5]羊《ふんよう》というからき
前へ
次へ
全27ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング