んと思わば、出立前一日その馬に断食せしめまた水を少なく飲ます、しかすると一日に百五十マイル走り続け得と。滝川一益北条勢と戦い負けた時炎天ゆえ馬渇せしに、河水を飲ませて乗りしに走り僵《たお》れ、飲ませなんだ馬は命を全うしたというに似ている。して見ると我輩も飲まぬ方がよいかしらん。『神異経』に、〈大宛《だいえん》宛丘の良馬日に千里を行き、日中に至りて血を汗す〉とはいかがわしいが、チュクチー人など、シャーマーン(方士)となる修業至ってむつかしく、時として苦しみの余り、衄《はなぢ》や血の汗を出すという(チャプリカの『西伯利原住人《アボリジナル・サイベリア》』一七九―一八〇頁)。あるいはいわく、衄を塗りて血汗に擬するのだと。『本草綱目』に、馬|杜衡《かんあおい》を食えば善く走り、稲を食えば足重し、鼠糞食えば腹脹る、※[#「歹+僵のつくり」、第3水準1−86−40]蚕《きょうさん》と烏梅《うばい》で牙を拭《ぬぐ》わば食わず、桑葉を得ば解す、鼠狼《いたち》の皮を槽に置かば食わず、豬槽《ぶたぶね》を以て馬を飼い、石灰で馬槽を泥《ぬ》れば堕胎す、猴を厩に繋げば、馬の疲れを避くとある。しかるにトルコでは、家豬《ぶた》の汚い臭いが馬を健にすという由(一五八一年版ブスベキウスの『土耳其《トルコ》行記』)。
馬の食物にも、種々流儀の異なったのがある。タヴェルニエーの『印度紀行』に、ウンチミッタ辺で毎朝蝋のごとき粗製の黒砂糖と麦粉と牛酪《バター》を練り合せて泥丸となし、馬に嚥《の》ましめ、その後口を洗い歯を潔《きよ》めやると見え、サウシの『随得手録《コンモンプレース・ブック》』二には、麪麭《パン》で馬を飼った数例を挙ぐ。『馬鳴《めみょう》菩薩伝』にいわく、昔北天竺の小月氏国王、中天竺を伐ちて三億金を求む。中天王わが国に一億金すらなしというと、小月氏王いわく、汝が国内に、仏が持った鉢と、弁才|勝《すぐ》れた比丘とあり、この二大宝を二億金の代りに我に寄《よこ》せと、中天王惜しんで与えそうもなきを見、かの比丘説法して、世教は多難なる故、王は一国のみを化す、これに引き替え、仏道は四海に弘通《ぐずう》すべく、我は四海の法王たるべき身分だから何処《どこ》へ往ったからって親疎の別を存せずというを聴いて王感服し、鉢と比丘を渡ししもうた。それを伴れて使が小月氏国へ還ると、国の諸臣議すらく、仏鉢は直《まこと》に貴く王これを崇《あが》むるはもっともだが、かの木菟入《ずくにゅう》こそ怪《け》しからぬ、あんなありふれた坊主を一億金代りに受け取ったは大勘違いでなかろうかと。王はもとよりかの比丘が無類の偉人で、弁才能く人間外の物をすら感ぜしむるを知ったから、諸群惑をいかにもして悟らせようと考えて、七疋の馬を五日間餓えしめ、六日目にあまねく内外の沙門と異学の徒を集め、かの比丘を請《しょう》じて説法せしめると、一同開悟せぬはなかった。さて説法所の前に七つの馬を繋ぎ、馬は浮流草を嗜《この》めばとて浮流草を与えしも、馬ただ涙を垂れて法を聴くのみ、少しも草を食う意なき様子、天下すなわちその不世出の比丘たるを知り、馬がその恩を解したから馬鳴《めみょう》菩薩と号《な》づけ、北天竺に仏法を弘めたと。浮流草は詳らかならぬが水流に浮かみ、特に馬が嗜み食う藻などであろう。ホンダワラ一名神馬草、神功《じんぐう》皇后征韓の船中|秣《まぐさ》に事欠き、この海藻を採って馬に飼うた故名づくと(『下学集』下)。『能登名跡志』またこの藻もて義経が馬に飼うたてふ、俚伝を載す。
タヴェルニエーの『波斯《ペルシア》紀行』に、バルサラに草乏しきより、魚の頭と波頭棗《デート》の核を牛に飼うといい、マルコ・ポロの書には、アラビヤのユシェル国は世界中もっとも乾いた地で草木少しも生ぜず、しかるに三、四、五月の間、莫大に捕《と》れる至って小さい魚あり、これを乾し蓄えて年中|畜《けだもの》の食とすと見ゆ。それから推すと神馬草の伝説も啌《うそ》でなかろう。マルコ・ポロまたいわく、マーバールでは肉と煮米《にこめ》を炊《かし》いで食すから、馬が皆絶える、またいかな好《よ》い馬を将《も》ち来るも産まるる子は詰まらぬものばかり、さてこの地本来馬を産せず、アラビヤ辺の商人、毎年数千の馬をこの国へ輸入し法外に贏《もう》ける、しかるに一年|経《た》つ間に、多くは死んで百疋も残らず、これこの国人馬を養う方を知らず、外商これを奇貨とし、馬医この国に入るを禁ずるによると。これら外商はインドへ馬を輸《おく》って莫大に贏けたが、旨《うま》い事ばかりはないもので、随分危ない目にも逢った。例せばタナの王は海賊と棒組《ぼうぐみ》で、インド往きの船に多少の馬を積まぬはないから、馬さえ己に献ずれば他の積み荷は一切汝らに遣ると、結構な仰せに、海賊ども雀躍《こおどり》して外船を侵掠した。
ギリシアのジオメデス王、その馬に人肉を飼ったが、ヘラクレス奮闘して王を殺し、その尸《しかばね》を馬に啖《く》わしむると温柔《おとな》しくなったという。わが邦にも『小栗判官《おぐりはんがん》』の戯曲《じょうるり》(『新群書類従』五)に、横山家の悍馬《かんば》鬼鹿毛《おにかげ》は、毎《いつ》も人を秣《まぐさ》とし食うたとある。前年『早稲田文学』に、坪内博士舞の本や、古戯曲の百合若《ゆりわか》の譚《ものがたり》は、南蛮僧などが、古ギリシアのウリッセスの譚を将来したのを、日本の事のように作り替えたてふ論を出されたと聞いたが、いまだに手に入らぬからその論を拝読せぬ。しかし自分で調べ見ると、どうも博士の見は中《あた》りいると信ずる。
さてそのついでに調べると、小栗の譚は日本の史実を本としたものの、西暦二世紀に、チミジア国(今のアルゼリア)の人アプレイウスが書いた、『金驢篇《デ・アシノアウレオ》』の処々を摸《うつ》し入れた跡が少なくない。例せば、サイケがクピッドに別れて昼夜尋ね廻るに基づいて、照天姫《てるてひめ》が判官を尋ぬる事を作り、ヴィナスがサイケに七種の穀物を混ぜるを、短時間に選別《えりわけ》しむるに倣って、万屋《よろずや》の長が、姫に七所の釜の火を断えず焚《た》かせ、遠方より七桶の水を汲ませ、七種の買物を調えしむと筆し、上述ジオメデスの人食馬を人秣食う鬼鹿毛とし、壮士トレポレムス賊と偽って賊※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]《ぞくか》に入り、そこに囚われいる情女カリテを娼妓に売れと勧むると、照天娼家に事《つか》うると、またトが毒酒で群賊を眠らすのと、さて女を驢に載せて脱れ遂ぐるのとが、偶然また反対ながら、横山が小栗の郎従を酔殺すのと、判官鬼鹿毛に乗って遁げおおせるのとに近似しいる。もっとも小栗の話の大要は、『鎌倉大草紙』に載せた事実に本《もと》づき、むやみに改むる訳にも往かぬところから、『金驢篇』の模倣はほんのそこここに止まる。それから俗に小栗の碁盤の曲乗りなど伝うるに似た事は、前項でインドの智馬が蓮花を蹈んで行《ある》いたのと、広嗣の駿馬が四足を合せて、一の杭《くい》の頂に立ったのとだ。躑躅《つつじ》と同科のアセミまたアセボを『万葉集』に馬酔木《あせみ》と書き、馬その葉を食えば酔死すという。「取つなげ玉田横野の放れ駒、つゝじの下に馬酔木花さく」と俊頼《としより》は詠んだ(『塵添※[#「土へん+蓋」、第3水準1−15−65]嚢抄《じんてんあいのうしょう》』九、『夫木集抄』三)。紀州で、その葉の煎汁で蘿蔔《だいこん》の害虫を除く。これと同じくアンドロメヤ属に隷《つ》く、小木ラタンカットは北インドに産し、その若葉と種子は牛や羊を毒すといえば、日本の馬酔木もしっかり研究せば、敵の軍馬を鏖殺《おうさつ》すべき薬科を見出すかも知れぬ。その時や例の錦城館のお富の身請《みうけ》をソーレターノーム。
ミッチェル教授説に、馬や驢や花驢《しまうま》は十五|乃至《ないし》三十歳生活するが、往々五十に達する確かな例あるがごとしと。スコッファーン説に、スコットランドの古諺《こげん》に、犬の命三つ合せて馬の命、それを三つ合せて人の命、それから鹿、鷲、槲樹《かしわ》と、三倍ずつで進み増すとあるそうで、馬と鹿の間に人があるも面白い。
プリニウスの『博物志《ヒストリア・ナチュラリス》』巻八章六六にいわく、馬は十一月孕み、十二月に産む(『淵鑑類函』に『春秋考異郵』を引いて、〈月精馬と為り、月数十二、故に馬十二月にして生む〉というは、東西月の算えようが差《ちが》うのだ)。春分を以て交わる、牝《め》牡《お》とも二歳で能《よ》く交われど、二歳以上で交わる方強い駒を産む、牡は三十三歳まで生殖力あり、かつて四十まで種馬役を勤めた馬あったが、老いては人に助けられて前体を起した。けだし馬ほど生殖力の限られた動物|罕《まれ》なり、故に時を定めてのみ遊牝せしむ云々。熊楠いわく、米国インジアンまたこの類で、他の諸民族に比し、交会の数甚だ少なしとしばしば聞く。プリニウスいわく、馬は年に十五度も遊牝しあたわずと。熊楠いう、十五度は多過ぎる、前に春分を以て交わるといったでないか、日本でもその通りと見え、内田邦彦氏の『南総俚俗』に、世の始めに諸動物神前に集まり性交について聞く、神、誰は年に一期、彼は年に二期と定むると、皆|畏《かしこ》みて去った。次に馬神前に進む、神、汝は年にただ一期と言いもあえず馬怒りて神の面を蹴る、次に人、神前に出ると、神、馬に蹴られてうるさく思い、汝ら思うままに行えと言って奥に隠れた、爾来人間のみは、時を選ばず無定数に行うとある。
プまたいわく、牝馬は四十歳まで年々駒を産み得るも、※[#「髟/宗」、第4水準2−93−22]《たてがみ》を苅らば性慾|滅《き》ゆ。その子を産むに当っては直立す。新産の駒その生母を失えば同群中新たに産せし牝馬その世話をする(熊楠いわく、猫もこれと同じきはロメーンズも言い、予|親《みずか》ら幾度も見た)。駒生まれて三日間土に口を触るる能わず、悍の強いほど、水を飲むに鼻を深く浸す。シジア人は牡よりも牝馬を軍用した、そは能く尿しながら進行するからだと。またいわく、アゼンスに八十まで生きた騾あり、かつて堂を建つる時この老騾を免役したが、自ら進んでその工事を助けたから城民大いに悦び、議定してどの家の穀を食うとも追い払う事なからしめたと。『朝野僉載《ちょうやせんさい》』に、徳州刺史張訥之の馬、色白くて練《ねりぎぬ》のごとし、年八十に余りて極めて肥健に、脚|迅《はや》く確かだったとある。日本にも、源範頼《みなもとののりより》肥後の菊池の軍功を感じ、虎月毛を賜う、世々持ち伝え永禄年中まで存せり、その頃大友|義鎮《よししげ》、武威九州に冠たり、菊池これと婚を結び、累世の宝物を出し贈る、この馬その一に居る、義鎮受けて筑後の坂東寺村に置き、田を給し人を附けて養う、後|久留米秀包《くるめひでかね》、その辺を領し食田を増給せしに、文禄中五百歳で死す、郡民千余人葬いの行粧して、野に出で弔いし(『南海通記』二十一)、まずは馬中の神仙じゃ。
馬の話をするととかく女の事を憶い出す。女にも寿かつ美な者もありて、『左伝』に見えた鄭|穆公《ぼくこう》の女《むすめ》夏姫は陳太夫御叔が妻たり、六十余歳にして、晋の叔向に再嫁して子を生めり。『列女伝』に、〈夏姫内に技術を挟《さしはさ》む、けだし老いてまた壮《さか》んなる者なり、三たび王后となり、七たび夫人となり、公※[#「危」の「卩」に代えて「矢」、第4水準2−82−22]《こうこう》これを争い、迷惑失意せざるはなし、あるいはいわくおよそ九たび寡婦とならば、これに当る者すなわち死すと、左氏載するところ、これに当る者すでに八人〉と見えしごとく、数の夫に会いて百歳に及ぶまでなお非行を為《な》しける者なり、これ閨中に術あるに因ってなり。宇文士及が『粧台記』の序にも、〈春秋の初め、晋楚の諺あり、曰く夏姫道を得て鶏皮三たび少《わか》し〉と見えしも、老いて後鶏皮のごとく、肌膚の剛《こわ》くなるは常の習いなるに、夏姫は術を得て、三度まで若返りたるという事なり(『類聚名物考』一
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