の懐胎、しかるに康熙《こうき》某年、旗下人の家に、騾ありて子を生みついに恙《つつが》なし〉。騾の牝が他の馬種と合いて、子を産んだ事は時に聞くも、少なくともこの数千年間、無数の騾を畜《こ》うた内、牝牡《ひんぼ》の騾の間に子生んだ例あるやは極めて疑わし、故に馬属の諸種は現時|相《あい》雑《まじ》わって子あれども、その子同士で繁殖し行き得ぬ世態にあると、『大英百科全書』から受け売りかくのごとし。
性質
同書にまたいわく、欧州では、有史前新石器時代に野馬多く、その遺骨|夥《おびただ》しく、当時の人の遺物とともに残れるを見ると、当時の人は専ら野馬猟を事とし、その肉を食用したので、野馬の遺骨を観《み》、当時の人が骨や馴鹿《トナカイ》角に彫り付けた野馬の図から推して、その野馬は小柄で身重く、※[#「髟/宗」、第4水準2−93−22]《たてがみ》と尾|粗《あら》くて、近時全滅した南ロシアのタルパンてふ野馬や、現存蒙古の野小馬《ワイルド・ポニー》に酷《よく》似いたと知る。而《しか》して有史前の欧人はその野馬を養《か》いもした。さて今日に至っては、馬は人手で諸方へ行き渡り、地球上人の住み得る所ほとんど皆馬あり。飼養と媾合《こうごう》と選種の次第で、雑多の別態異種を生ぜしめた。またアメリカと濠州には、最初欧人が伴《つ》れ来った馬が脱《ぬ》け出て野生となり、大群をなして未墾の曠野を横行し居ると。
日本の馬の事、貝原篤信の『大和本草』巻十六にいわく、『旧事記』に保食神《うけもちのかみ》の目に、馬牛の化《な》れる事をいえり、『日本紀』神代巻に、駮駒《ぶちこま》をいえり、これ神代より馬あり、二条良基の『嵯峨野物語』に、馬は昔唐国より渡りし時、耳の獣という、すべて稀なりしかば、帝王の御気色よき大臣公卿のほかは乗る事なし、されば良家と書いては、馬人《うまびと》と訓《よ》むといえり、篤信いわく、馬は神代よりありて、後代に唐より良馬渡りしにやと。『後漢書』東夷列伝に、〈倭《わ》韓の東南大海中にあり云々、その地おおむね会稽《かいけい》東冶《とうや》の東にあり、朱崖|※[#「にんべん+擔のつくり」、第3水準1−14−44]耳《たんじ》と相近く、故にその法俗多く同じ云々、土気温暖、冬夏|菜茹《さいじょ》を生じ牛馬虎豹羊|鵲《じゃく》なし〉。いかにも日本古来虎豹なく、羊は後世入ったが、今に多く殖えず、鵲《かささぎ》は両肥両筑に多いと聞けど昔もそうだったか知らぬ。
篤信が引いた『旧事記』は怪しい物となし措《お》くも、保食神の頂より牛馬|化《な》り出《で》しと神代巻一書に見え、天斑馬《あまのぶちこま》の事と、日子遅神《ひこじのかみ》、片手を馬鞍に掛けて出雲より倭国に上った事とを『古事記』に載すれば(『古今要覧稿』五〇九)、〈牛馬なし〉と書いた『後漢書』は、まるで信《うけ》られぬようだが、この他に史実に合った事ども多く載せ居る故、一概に疑う事もならず、地理の詳細ちょっと分りにくいが、朱崖※[#「にんべん+擔のつくり」、第3水準1−14−44]耳という小地に近く、土気温暖、冬夏菜茹を生ずる日本の一部分、もしくは倭人の領地に、牛馬がなかったと断ずべしだ。日本上古の遺物に、牛馬飼養の証左ある由は、八木、中沢二君の『日本考古学』等に出づ。同じ『後漢書』東夷列伝に、辰韓《しんかん》は秦人(支那人)が馬韓《ばかん》より地を割《さ》き受けて立てた国で、〈牛馬に乗駕す〉と特書せるを見ると、当時韓地にも牛馬を用いぬ所があったので、千年ほど前出来た『寰宇記《かんうき》』に、琉球に羊と驢と馬なく、〈騎乗を知らず〉といえるもその頃そうであったのだ。
かつて出羽の飛島《とびしま》へ仙台の人渡れるに、八十余の婆語りしに、世には馬という獣ありと聞けり、生前一度馬を見て死にたしと(『艮斎間話《ごんさいかんわ》』上)。二十余年前まで但馬《たじま》因幡《いなば》地方で馬極めて稀なり、五歳ばかりの児に馬を知るやと問うと、顔を長く四疋《よつあし》と尾あり人を乗せると答う。大きさを尋ぬると両手を二、三寸に拡げ示し、その大なるものは下に車ありと答う。絵と玩具のほか、見た事ないからだと(『理学界』一月号、脇山氏説)。紀州でも、日高郡奥などに馬なき地多かった。また大和に、去年まで馬見た事ない村あったと、それ八月八日の『大毎』紙で読んだ。昨今すらこの通り、いわんや上世飼養の法も知らず、何たる要用もなく、殊には斎忌《タブー》の制煩多で、種々の動植を嫌う風盛んだった時に、牛馬のない地方が、わが邦に少なくなかったと攷《かんが》える。想うにわが邦神代の馬は、「種類」の条で述べた、北方の馬種を大陸より伝えたのを、後世良馬を支那より輸入した事、貝原氏の説通りだろう。
『大英百科全書』またいわく、馬属の諸種外形の著しく相異なるごとく、心性もまた大いに差《ちが》う。諸種を解剖してその脳を比較すると大抵相似居るのに、かくまで心意気が懸隔するも不思議だ。驢の忍耐強き、馬の悍強き、騾の頑牢なる、共に古より聞えた。七、八種もある馬属中馬と驢のみ測るべからざる昔より人に豢《か》われてその用を足した事これ厚きに、その他の諸種は更に懐《なつ》かず、野生して今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《およ》んだも奇態だ。ただしこれら諸種の心性、本来人に豢われるに適せずしてしかるか、将《は》た人が馬と驢を飼い擾《なら》すに、幾久しく辛抱強く力を尽くしたが、他の諸種には尽力が足りなくって、かくのごときかは一疑問だ。けだし今日の馬と驢が、既に出来るだけの諸役に立っており、新たに他の種を仕付けて使わねばならぬような、格段の役目がない故、新種を飼い擾すに十分力が出ぬのじゃろう。すなわち馬と驢が、数千代の永い間仕付けられて、ますます有用の度を加え居るところへ、一朝|山出《やまだし》のゼブラやドーをいかほど急いで仕込んだって、競走の見込み絶無ならずやとはすこぶる名言で、獣畜の上のみでなく、人間教育の上にも、大いに参考になるようだ。
アストレイの書(上に引く)三巻三一〇頁に、ポルトガル王が、ゼブラ四疋に車を牽かせたと記《しる》し、往年英人ゼブラに乗り課《おお》せた者あると聞いた。古カルデア人が、オナッガに戦車を牽かせ、韃靼人は、キャングを飼い擾《なら》す事あり(マスペロ『|開化の暁《ゼ・ドーン・オヴ・シヴィリゼーション》』英訳七六九頁、ウッド『博物画譜《イラストレーテッド・ナチュラル・ヒストリー》』巻一)。『史記』の匈奴列伝に、匈奴の先祖が、馬と驢のほかに、多少の野生種を馴養《じゅんよう》した記事あるは上に引いた。して見ると、馬と驢のほかにも、随分物になる種もあるに、馬と驢で事足る上はとて、別段力をその馴養に竭《つく》さなんだので、その上野驢や花驢《しまうま》の諸種は、専らその肉を食いその皮を剥がんため、斟酌なく狩り殺さるるから、人さえ見れば疾走し去るのだ。中阿や南阿の土人が、象と花驢|甚《いと》多かった時、これを馴らし使う試験を累《かさ》ねず、空しくこれを狩り殺したは、その社会の発達を太《いた》く妨げた事と惟《おも》う。
『大英百科全書』またいわく、時として家馬の蹄《ひづめ》の側に、蹄ある小趾を生ずる事あり。稀にはまた三、四趾を駢《なら》び生ずるあり。学者馬の祖先の足に三、四趾あった当時の旧態に復《かえ》って、かくのごとしと説くが通例だが、篤《とく》と調べるとそうでなく、かかる多趾の馬の足は、ヒッパリオンやアンキテリウムなど、過去世の馬の多趾な足に似ず、全く手足が一本多過ぎたり指が六本あったりの人と同じく、畸形不具者に過ぎずと。『甲子夜話』続編七六、両国橋見せ物に六足馬|絵《えが》ける看板を掛く、予人をして視せしむるに、足六なるにあらず、図のごとく真に六脚あるにあらず、前蹄に添いて、わずかに足末を生ぜるまでなり、羽州三春に産せりという(第四図[#図省略])とあるが、その図を見れば、いかにも人の六指に対して六足ともいうべき畸形らしく、第二図と比べば、馬の祖先の多趾なると様子が異なるを知らん。
それから、同書巻十一に、津軽辺で三歳の駒、左の耳に長《たけ》一寸九分くらいの角生え、曲り、黒く堅し、ただし本の方は和らかくして、また右の方にも生え立ちし角見え申し候と見ゆ。『梅村載筆』に、義堂の詩三句ながら同字を蹈む事日本で始めなり、その詩は、〈馬頭角を生ずるはまた難きにあらず、山上に舟を遣るもまた難からず、難きはこれ難中の難一あり、夕陽門外人を待つこと難し〉。この起句は、文部省刊行俚謡集、伊賀阿山郡の木遣歌《きやりうた》に、牛の上歯に駒の角、師走|筍《たけのこ》寒茄《かんなすび》、山の上なる蛤やとある通り、馬の角をないに極《きま》った物としたので、支那でも燕太子丹、秦に人質だった時、燕に帰らんと請うと、秦王烏の頭が白くなり、馬に角生えたら許そうといった、そこで丹、天を仰いで歎くと烏たちまち頭白く馬角を生じたので、燕へ帰るを得たそうじゃ。
『和漢三才図会』六八に、立山の畜生が原は、昔奥州の藤義丞なる者、ここでしきりに眠り馬に変じ、あまつさえ角を生ぜるを、今に本社の宝物とすと。『観瀾集』に、〈大石家馬角一枚を蔵す、伝えていわく上総介《かずさのすけ》小幡信定《おばたのぶさだ》(武田家の勇士)乗れる馬生ずるところ云々〉。『広益俗説弁』二十に、俗説にいわく、馬角は宝なりという、今按ずるに、『史記』文帝十二年、〈馬あり角呉に生ず〉、漢『京房易伝』いわく、〈臣上を易《あなど》りて政順わず、その妖馬角を生ず〉、『呂氏春秋』いわく、〈人君道を失い馬角を生ずるあり〉、これを以て見れば、宝とすべき物にはあらずと出《い》づ。『物異志』曰く、〈漢の文の時、呉に馬あり角を生ず、右角三寸左角二寸〉。これらを対照して、馬の角はややもすれば左右不等長だと知る。今も稀にあると見えて、数年前ドイツ辺に、馬角を生じた記事を、『ネーチュール』で読んだがその詳細を知らぬ。英語でホールンド・ホールス(角馬)と呼ぶは、またニュウともいい、羚羊の一属で二種あり、南阿と東阿に産したが、一種は多分|既《はや》絶えたであろう。牛と馬と羚羊を混じた姿で、尾と※[#「髟/宗」、第4水準2−93−22]《たてがみ》は殊に馬に近い。手負《てお》うた角馬に近づくはすこぶる危険な由、一九一四年版パッターソンの『ゼ・マン・イータース・オヴ・ツァヴォ』に述べある。
それから古ローマのネロ帝は荒淫傑出だったが、かつて揃《そろ》いも揃って半男女《ふたなり》の馬ばかり選《え》り集めてその車を牽かしめ、異観に誇った(プリニウスの『博物志《ヒストリア・ナチュラリス》』十一巻百九章)。以前ローマ人は、半男女を不祥とし、生まれ次第海に投げ込んだが、後西暦一世紀には、半男女を、尤物《ゆうぶつ》の頂上として求め愛した。男女両相の最美な所を合成して作り上げた半男女神《ヘルマフロジツス》の像にその頃の名作多く(一七七二年版ド・ポウの『亜米利人の研究《ルシェルシュ・フィロソフィク・シュル・レサメリカン》』一〇二頁)、ローマ帝国を、始終して性欲上の望みを満たさんため、最高価で購《あがな》われたは、美女でも※[#「女+交」、第4水準2−5−49]童《わかしゅ》でもなくて、実に艶容無双の半男女だったと記憶する。ネロ帝はその生母を愛して後これを弑《しい》し、臣下の妻を奪って后としたが、その后死んで追懐やまず、美少年スポルス亡后に似たればとて、これを宮し女装せしめて后と立て、民衆の眼前に、これと抱擁|親嘴《しんし》して羨《うらや》ませ楽しんだというほどの変り物で、その后が取りも直さず半男女同然故、それ相応に半男女の馬に車を牽かせたものか。天野信景《あまのさだかげ》の『塩尻』巻五三に、人男女の二根を具するあり、獣もかかる物ありやという人|侍《はべ》る、予が采地愛知郡本地村民の家に、二根ある馬ありて、時々物を駄して来る、見るに尤《いと》うるさく覚え侍るといえるは、その見ネロに勝る事遠しだ。
プリニウスいわく、サルマタエ人、長旅せ
前へ
次へ
全22ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング