レイストシーン期に、北米に棲んだ馬数種ありて南米まで拡がった。その遺骨が、今日アルゼンチナ等の曠野《こうや》を駈け廻る野馬によく似居るので、この野馬は南米固有のものと説く人もあるが、実は西大陸にあった馬属は過去世全滅し、今ある所は、欧州人が新世界発見後持ち渡った馬が遁《のが》れて野生となった後胤だ。インドに化石を出すエクウス・シワレンシスが、アラビヤ馬の元祖で、欧州に化石を出すエクウス・ステノニスが、北欧およびアジアの小馬の遠祖だろうという。ただし、普通の馬と別ちがたい遺骨が、欧州とアジアのプレイストシーン層より出るを見れば、現存種の馬が始めて世に出たは、よほど古い事と見える。
 さて現存の馬属の諸種を数えると、第一に馬、これに南北種の別ありて、アラブやサラブレッドが南種で、その色主に赤褐で、しばしば額に白星あり、眼※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]《めあな》の前少しく窪む、北種はその色主に帯黄|黯褐《あんかつ》で、眼の辺に窪みなし。北欧の諸|小馬《ポニー》、蒙古の野小馬等がこれじゃ。次にアジアの野驢、これは耳大にも小にも過ぎず、尾は長い方、背条黯褐で、頭より尾に通り※[#「髟/宗」、第4水準2−93−22]《たてがみ》あり。これに二種あり。蒙古のチゲタイと、その亜種チベットのキャングは大にして赤く、西北インド、ペルシア、シリア、アラビヤ等に出るオナッガは、黄赭また鼠色がかりいる。いずれも二十から四十疋まで群れて、沙漠や高原を疾く走る。オナッガは人を見れば驚き走り、安全な場に立ち留まり、振り返って追者を眺め、人近づけばまた走り、幾度となくここまで御出《おいで》を弄す。古カルデア人、いまだ馬を用いるを知らなんだ時、これを捕えて戦車を牽《ひ》かしめた(第三図[#図省略])。『本草綱目』に、〈野驢は女直《じょちょく》遼東に出《い》づ、驢に似て色|駁《ぶち》、※[#「髟/宗」、第4水準2−93−22]尾長〉といったはチゲタイで、〈野馬は馬に似て小、今甘州粛州および遼東山中にもまたこれあり、その皮を取りて裘《かわごろも》と為《な》す、その肉を食い、いわく家馬肉のごとし、ただし地に落ちて沙に沾《ぬ》れず〉とあるは、いわゆる蒙古の野小馬《ワイルド・ポニー》一名プルシャワルスキ馬だろうが、昔は今より住む所が広かったらしい。支那最古の書てふ『山海経』に、〈旄馬《ぼうば》その状《かたち》馬のごとし、四節毛あり〉、『事物|紺珠《かんじゅ》』に〈旄馬足四節ばかり、毛垂る、南海外に出づ〉。今強いてかかる物を求むれば、キャングは極寒の高地、海抜一万四千フィートまで棲む故、旄牛《ヤク》と等しく厚い茸毛《じょうもう》を被るから、正《まさ》しく旄馬と呼んで差しつかえぬ。
 次に花驢《しまうま》にゼブラとドーとクワッガとグレヴィス・ゼブラの四種あったが、ゼブラは絶えなんとしおり、クワッガは絶え果て、ドーも本種は絶えて、変種だけ残る。これら皆アフリカ産で、虎様の条ありて美し、『山海経』に、〈※[#「木+丑」、第3水準1−85−51]陽《ちゅうよう》の山、獣あり、その状馬のごとくして白首、その文《もん》虎のごとくして赤尾、その音|謡《うた》うがごとし、その名|鹿蜀《ろくしょく》という〉と出で、その図すこぶる花驢に類す。呉任臣の注に、〈『駢雅《べんが》』曰く鹿蜀虎文馬なり云々、崇禎《すうてい》時、鹿蜀|※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]南《びんなん》に見る、崇徳呉爾□詩を作りこれを紀す〉と。熊楠|按《あん》ずるに、チゲタイ穉《わか》い時、虎条あること花驢に同じければ、拠って以て鹿蜀を作り出したものか。『駢雅』など後世の書に出たは、多少アフリカの花驢を見聞して書いたのだろう。
 支那に限らず日本にも花驢が渡った事ある。かつて一七四六年版、アストレイの『新編航海紀行全書《ア・ニュウ・ゼネラル・コレクション・オブ・ヴォエージス・エンド・トラヴェルス》』三の三七八頁にナエンドルフいわく、アビシニアの大使、花驢一疋をバダヴィア総督に贈り、総督これを日本皇師に贈ると、帝返礼として銀一万両と夜着三十領を商会に賜うた。合算して十六万クラウンに当る。何と仰天だろうとあるを読んで、そんな事をもしや邦書に載せあるかと蚤取眼《のみとりまなこ》で数年捜すと、近頃やっと『古今要覧稿』五〇九に、『本朝食鑑』を引いて、この事を記しあるを発見した。『食鑑』は予蔵本あれど、田辺にないから『要覧稿』に引いたまま写そう。いわく、〈近代|阿蘭陀《オランダ》の献る遍体黒白虎斑の馬あり、馬職に命じてこれを牧養せしむ、馬職これに乗りこれに載す、ともに尋常の馬に及ばず、ただ美色と称《い》うのみ、あるいは曰く騾《ら》の族なり云々〉と。『食鑑』は元禄八年人見元徳撰す。因って花驢は、少なくとも今より二百年前本邦へ渡った事ありと知る。花驢は馬とも驢とも付かず、この二畜の間子《あいのこ》たる騾に酷《よく》似れば、騾の族と推察したは無理ならぬ。『食鑑』とアストレイを合せ攷《かんが》うるに、その時渡ったはドー(今絶ゆ)の変種、グランツ・ゼブラという種と見える。
 馬属の最後に列《つら》なるが驢で、耳が長い故、和名ウサギウマといい、『清異録』に長耳公てふ異名を出す。その諸国での名を少し挙げると、英語でアッスまたドンキイ、ラテンでアシヌス、露語でオショール、独語でエセル、ヘブリウでチャモール(牡)アトン(牝)、アラブでカマール、トルコでヒマール、梵語でラーサブハ等だ。このもの頭大に体大きな割合に脚甚だ痩せ短いから、迅く行く能わず。その蹄の縁極めて鋭く、中底に窪みあり、滑りやすき地を行き、嶮岨《けんそ》な山腹を登るに任《た》ゆ。これを概するに、荷を負う畜《けだもの》にもそれぞれ向々《むきむき》があって、馬は平原に宜《よろ》しく、象は藪林に適し、砂漠に駱駝、山岡に驢がもっともよく役に立つ。驢は荷を負うて最《いと》粗《あら》い途《みち》を行くに、辛抱強くて疲れた気色を見せず。ニービュールが、アラビアで見た体大きくて、悍《かん》の善い驢は、旅行用に馬よりも優《まさ》れば、したがって価も高い由。何方《いずかた》でも、通俗驢を愚鈍の標識のようにいえど、いわゆるその愚は及ぶべからずで、わざと痴《たわ》けた風をして見せ、人を笑わすような滑稽智に富む由、ウッドは言った。メッカでは驢を愛育飼養するにもっとも力めたので、その驢甚だ賢くなり、よくその主の語を聞き分ける故、主もまた自分の食を廃しても驢に食を与うという。プリニウスの説に、驢は寒を恐る、故にポンツスに産せず、また他の畜《けだもの》通り、春分を以て交わらしめず、夏至において交わらしむと。バートン言う、この説|理《ことわり》あり、驢は寒地で衰う、ただしアフガニスタンやバーバリーのごとく、夏長く乾き暑くさえあれば、冬いかに寒い地でも衰えずと。
 想うに、『史記』匈奴列伝に唐虞より、以上《かんつがた》山戎《さんじゅう》等ありて北蛮におり、畜牧に随って転移す、その畜の多きところは馬牛羊、その奇畜はすなわち駱駝と驢と騾と※[#「馬+夬」、第4水準2−92−81]※[#「馬+是」、第4水準2−92−94]《けってい》と※[#「馬+淘のつくり」、第4水準2−92−90]※[#「馬+余」、第4水準2−92−89]《とうと》と騨※[#「馬+奚」、第4水準2−93−1]《てんけい》ととある。奇畜とは、上代支那人が希有の物と見たのをいうので、ここにいえる騾は牡驢《おのろ》と牝馬《めうま》の間子《あいのこ》、※[#「馬+夬」、第4水準2−92−81]※[#「馬+是」、第4水準2−92−94]は牡馬と牝驢の間子で、いずれも只今騾(英語でミュール)で通用するが、詳細に英語を用うると、騾がミュールで、※[#「馬+夬」、第4水準2−92−81]※[#「馬+是」、第4水準2−92−94]がヒンニーに当る。ヒンニーの語源は、ギリシアのヒンノスとラテンのヒンヌスで、多分馬の嘶《いなな》きをニヒヒンなどいう邦語と同様のものだろう。それから英国の田舎で、たとえば錦城館のお富が南方君を呼ぶ時、わがヒンニーという。それは※[#「馬+夬」、第4水準2−92−81]※[#「馬+是」、第4水準2−92−94]を意味せず、蜂蜜(ハニー)より転訛したのだ。さて※[#「馬+淘のつくり」、第4水準2−92−90]※[#「馬+余」、第4水準2−92−89]と騨※[#「馬+奚」、第4水準2−93−1]は確かに知らねど、いずれも野馬と註あれば、上述のチゲタイやキャングや野小馬《ワイルド・ポニー》の連中だろう。この『史記』の文を見ると、驢は支那よりもまず北狄《ほくてき》間に最《いと》古く入ったので、かかる寒地によく繁殖したは、その時々野馬や野驢の諸種と混合して、土地相応の良種を生じたに依るだろう。学者の唱うるところ、家驢の原種は、今もアフリカに野生し、家驢と差《ちが》い前髪なし。それに背と肩に条あるヌビア産と、背と脚に条ある、ソマリ産の二流ある由。
 上述のごとく現存の馬の種類が、馬とチゲタイとオナッガとグレヴィス・ゼブラとドー(本種亡び変種残る)とゼブラと驢と七つで、その上多少の変種もある。ただしこの諸種各々別ながら甚だ相近く、野生の時は知らず、飼い馴らしまたは囚え置くと異種交わって間子《あいのこ》を生む例少なからず。馬と驢は体の構造最も異に距たりいるが、容易に交わりて騾を生む。『漢書』に、亀茲《きゅうじ》王が漢に朝し、帰国後衣望服度宮室を、漢の風に改めたが、本物通りに出来ず。外国胡人皆|嘲《あざけ》って驢々《ろろ》にあらず、馬々《ばば》にあらず、亀茲王のごときは騾という物じゃといったと見ゆ。その通り騾は頭厚く短く、耳長く脚細く、※[#「髟/宗」、第4水準2−93−22]《たてがみ》短く蹄狭く小さく、尾の本に毛なきなど、父の驢そのままだが、身の大きさや頸尻毛歯の様子は、母の馬そっくりで、声は父にも母にも似ず、足蹈みの確かなると辛抱強きは、驢の性を享《う》け、身心堅壮で勇気あるは馬の質を伝う。故に荷を負うの巧馬に勝《まさ》る。古ギリシアまた殊にローマ人、これを車に牽かせ荷を負わすに用いたが、近世大いに輜重《しちょう》の方に使わる。ただし馬の父が驢の母に生ませた騾、すなわち※[#「馬+夬」、第4水準2−92−81]※[#「馬+是」、第4水準2−92−94]は余り宜しからず。プリニウス説に、愚鈍で教ゆべからずとぞ。プまたいわく、牡馬に由って孕み、次に牡驢と交われば牡馬の種消ゆ、しかるにまず牡驢に由って孕み、次に牡馬と交わるも驢の種消えずと。何に致せ騾はある点において父にも母にも優り、国と仕事に由っては馬よりも驢よりも欲しがらるるが、騾種は二代と続かず、必ずその都度驢と馬を交わらせて作るを要す。
 昔仏その従弟調達が阿闍世《あじゃせ》王より日々五百釜の供養を受け、全盛するを見、諸比丘を戒めた偈《げ》に、芭蕉は実《みの》って死し、竹も蘆も実って死し、騾は孕んで死し、士は貧を以て自ら喪うと言った。注に騾もし姙めば、母子ともに死すとある(『大明三蔵法数』一九)。『爾雅翼』に、騾の股《また》に瑣骨《さこつ》ありて離れ開かず、故に子を産む能わず。『史記』の注に、※[#「馬+夬」、第4水準2−92−81]※[#「馬+是」、第4水準2−92−94]は、その母の腹を刳《さ》いて生まる。『敬斎古今|※[#「(「黄」の正字、※[#第3水準1−94−81])+主」、368−3]《とう》』三に、騾は必ずしも驢種馬子でなく、自ら騾の一種があるので、生まるる時必ず母の腹を剖《さ》かねばならぬとあるなど、騾の牝が子を産まぬについて、種々虚構した説だ。
『人類学雑誌』に、パプア人やヤミ蕃人が、以前出産の際母の腹を剖いて子を取り出したが、後に他所の女の山羊が、腹を剖かずに安全するを見て、その法を廃したと見えた。遥か昔、北狄間にもそんな風があった痕跡として、騾の腹を剖いて子を取ると言ったのでないか。『池北偶談』二六に、〈釈典に三必死あり、いわく人の老病、竹の結実、騾
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