3水準1−92−75]それは彼の徳でない、両乳の間と隠密処に善き相があるに因ると教え、その後またその※[#「女+息」、第4水準2−5−70]に姑の事を問うと、実の母のごとく愛しくれると答うるを聞き、それは姑に善い相がある故と告げて去った。ほど経て姑と※[#「女+息」、第4水準2−5−70]と浴して躯《からだ》を相《あい》摺《す》り拭《ぬぐ》うとて窃《ひそ》かに観《み》るに、※[#「烏+おおざと」、第3水準1−92−75]陀夷が言った通りの相あり。その後姑と※[#「女+息」、第4水準2−5−70]と喧嘩《けんか》に際し、姑まず※[#「女+息」、第4水準2−5−70]に向いこの姦婦《かんぷ》めと罵ると、誓言してそんな覚えなしと言い張る。姑すかさず、もし覚えなくんば他人が汝の隠処に黶等あるを知ろうはずなしという。※[#「女+息」、第4水準2−5−70]またそんならそっちも姦通したに相違ないとてその陰相を語る、二人とも変な事と気付いて懺謝し、誰が汝に相を告げたかと相問うと、いずれも※[#「烏+おおざと」、第3水準1−92−75]陀夷から聞いたと答え、大徳何に因ってことさらに我らを悩ませるぞと憤る。そこへ老いた比丘《びく》が托鉢に来たので、※[#「烏+おおざと」、第3水準1−92−75]陀夷はどんな人と問うと、大臣の家に生まれたが出家したと答う。姑彼持戒の出家なら女人の陰相などを知るはずなしというと、人相学に通じて知るという、姑そんな事を知ったからって皆人に告ぐべけんやと打ち返したので、老比丘閉口して寺に帰って仏に白《もう》すと、わが弟子ども今後俗家で女のために説法すべからずと戒めたが、それでは実納《みいり》が少ないから男子ある側で女人に説法すべしと改めたとある。インドなど、人が多く衣を重ね着ぬ熱地では、かかる事を学び知る便宜が遥かに他より多かるべく、したがってそっちの研究はよほど進みいただろう。それと同時にかかる相好《そうごう》を覚え置いて人を罵るに用いた輩も多かったと見え、『四分律』三に人の秘相を問いまた罵るを制しあり。『十誦律』四七、比丘尼に具足戒を授くるに先だち、あらゆる事どもを問うて真実に答えしむ。〈我今汝に問う、汝これ人なりやいなや、これ女なりやいなや、これ非人にあらざるや、畜生にあらざるや、これ不能女人にあらざるや、女根上に毛ありや〉と、これかかる者を完全な人間と見ず、受戒を聴《ゆる》さぬ定めだったのだ。この辺でもかかる女を不吉とし、殊に農家は不毛を忌む故、そんな者を娶《めと》れば隣家までも収穫を損ずとて甚だ嫌う。これらは真に一笑に堪えた迷信と看過してやまんが、今日までも西洋の医家に頑説多い。
例せば、面首を以て愛重された男子はことごとく柔弱萎縮しおわると説く者甚だ多きも、ハンニバル、シーザル等かつて若契《じゃっけい》を経た偉人泰西に多く、「蘭丸をいっち惜しがる本能寺」、「佐吉めは出征をしたと和尚いい」、わが邦にも美童の末大名を馳《は》せた者少なからず。それにかかわらず安陵竜陽みな凶終するよう論ずるは、性慾顛倒の不男《ぶおとこ》や、靨《えくぼ》を売って活計する色子野郎ばかりに眼を曝《さら》した僻論《へきろん》じゃ。この事は英国の詩人シモンズの『|近世道義学の一問題《ア・プロブレム・イン・モダーン・エシックス》』(一八九六年)、明治四十二年『大阪毎日』の連載した蕪城生の「不識庵と幾山」によく論じあった。それと等しく婦人の不毛は必ず子なしと説く者西洋に少なからぬが、これも事実と差《ちが》う場合がある。予今時のいわゆる人種改良とか善胎学とか唱うる目的は至って結構だが、その基礎とさるる材料が甚だ危殆《あやふや》なるに呆れ、年来潜心その蒐集を事とし、不毛一件ごときも一大問題としていかな瑣聞をも蔑せず。しかる内近村に久しく行商を営み、諸方の俗伝に精しき老人この件に関して秘説を持つと聞いて少しも躇《ためら》わず。人の命は雨の晴れ間を待つものかと走り行きて尋ぬると、老人|新羅《しんら》三郎が笙曲を授くるような顔して、ニッとも笑わず語り出でしは、旧伝に絶えてなきを饅頭《まんじゅう》と名づく、これかえって太《いた》く凶ならず、わずかにあるをカワラケと呼び、極めて不吉とす、馬に河原毛《かわらげ》ありそれから移した称だと。当時は特に留意せなんだが、ほどなく老人死した後考うるに、駱《らく》和名川原毛黒い髦《たてがみ》の白馬だというから、不毛に当らず。川原は砂礫《されき》多く草少なき故、老人の説通りわずかに春草ある処を馬の川原毛から名を移して称うるのかと思えど、死人に質《ただ》し得ず。
『逸著聞集』など多くは土器《かわらけ》と書いたが、その義も解らず。ようやく頃日《このごろ》『皇大神宮参詣順路図会』を繙《ひもと》くと、二見浦《ふたみのうら》の東|神前《みさき》の東北海中に七島あり阿波良岐《あはらき》島という、また毛无《けなし》島とてまるで巌で草木なき島あり、合せて八島|相《あい》聯《つら》なる、『内宮年中行事記』に、六月十五日|贄海《にえうみ》神事の時舟子の唄う歌の中に「阿波良岐や、島は七島と申せども、毛无《けなし》かてては八島なりけり」と載す。『続々群書類従』一に収めた、『内宮氏経日次記』には「阿婆羅気《あばらけ》や、島は七島と申せども、毛無からには八島なりエイヤ/\」に作る。これだけでは不安心だが、アバラケは亭を阿婆良也《あばらや》と訓《よ》むごとく荒れ寥《すさ》んだ義で毛なしと近く、ほとんど相通ずる意味の詞であろう。かくて不毛をアバラケ、それよりカハラケと転《うつ》して呼ぶに及んだでなかろうか。『日次記』に右の歌宝徳三年頃すでにあったよう見えれば、愚考が万一|中《あた》ると、不毛をかく唱うるは足利義政の世既にあった事となるはずだが、大分怪しいて。
支那の名馬は、周|穆王《ぼくおう》の八駿、その名は赤驥、盗驪、白義、踰輪、山子、渠黄、華※[#「馬+(「堊」の「王」に代えて「田」)」、358−5]、緑耳で、漢文帝の九逸は、浮雲、赤電、絶群、逸驃、紫燕、緑※[#「虫+璃のつくり」、第3水準1−91−62]、竜子、※[#「馬+隣のつくり」、第3水準1−94−19]駒、絶塵だ、前者は毛色、後者は動作を主に名の因とした。その他項羽の騅《すい》、呂布《りょふ》の赤兎、張飛の玉追、遠※[#「豈+頁」、第3水準1−94−1]の飛燕、梁武帝の照殿玉獅子等、なお多かるべし。本邦には「垂仁《すいにん》紀」に足往《あゆき》てふ名の犬見ゆるに、名馬に特号あるを見ず。遥か後に藤原広嗣が宰府で一声に七度嘶くを聞き尋ね、高直《たかね》で買い取った馬は初め四の杭《くい》に登り立ち、数日後には四足を縮めて一の杭に立ち、よく主人を乗せ走りて毎日午前は筑紫午後は都で勤務せしめ、時の間に千五百里通うたという(『松浦廟宮本縁起』と『古今著聞集』第三十)。それほどの駿馬だにただ竜馬の噂《うわさ》されしのみで、別段その号は伝わらず。惟《おも》うに小児が飼犬を単に白とか赤とか呼ぶごとく、その頃まで天斑駒《あまのぶちごま》、甲斐《かい》の黒駒など生処と毛色もて呼ぶに過ぎなかったろう。その後とても信州井上より後白河院へ奉りし馬を井上黒、武州河越より平知盛《たいらのとももり》に進ぜしを河越黒、余りに黒い故|磨墨《するすみ》、馬をも人をも吃《く》いければ生※[#「口+妾」、第4水準2−4−1]《いけずき》など、多く毛色産地気質等に拠って名づけたので、津国の浪速《なにわ》の事か法ならぬ。同じのり物ながら妓女と同名の馬ありし例も知らぬ。ただし『遊女記』に小馬てふ妓名を出す。
インドで顕著なは※[#「牛+建」、第3水準1−87−71]陟馬《カンタテム》王で悉達《しった》太子これに乗って宮を脱れ出た。前生かつて天帝釈だった由(『六度集経』八)。欧州で馬に名づくる事よほど古く、ジケアてふ牝馬アリストテレスに録され、アレキサンダー王の乗馬ブケファルスについては伝説の項に述べた。古ローマおよびその領地の上流の家では厩の間ごとに住みいる馬の名を掲げその札今に残るあり、女郎部屋の源氏名札も同じく残る。このついでに言う、英船長サリスの『平戸日記』慶長十八年(一六一三)の条に、六月二十一日平戸王女優数輩を従え英船に入った由記し、彼らは島より島へ渡りて演芸し外題の異なるに従い衣裳を替える。趣向は専ら軍《いくさ》と恋なり、みな一主人に隷《したが》ってその営利のために働く、もし主人過分に贏《もう》けて訟《うった》えらるれば死刑に逢う。最も有勢の貴人も旅中宿屋に彼を招き価を定めて女優を召し酌をさせ、またこれを御するを恥じず。妓輩の主人生時は貴人と伍《ご》を成すが、一旦命|終《しゅう》すれば最卑民中にすら住《とど》まるを許されず、口に藁作りの※[#「革+橿のつくり」、第3水準1−93−81]《たづな》を食《は》ませ、死んだ時のままの衣服で町中引きずり、野中の掃溜《はきだめ》へ捨て鶏犬の啄《つつ》き※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《くら》うに任すと書いた、眼前の見聞を留めたもの故事実と見える。妓家の主人をクツワと呼ぶはこんなところから起ったでもあろう。
種類
前項の一部の補正をする。その末段に藤原広嗣の駿馬が無名だったよう記した。しかるにその後、『異制庭訓往来』和漢の名馬を列《つら》ねた中に、本朝|厩戸王子《うまやどのおうじ》甲斐黒駒、太宰大弐《だざいのだいに》弘継《ひろつぐ》土竜とあるを見出した。これが本拠ある事なら、広嗣の土竜がまず本朝で産地や毛色に由らぬ馬の名の最も早く見えたものであろう。それからまた、紀州に鉄砂あるを、従来記したものないよう書いたが、それは和歌山県の分だけでの事で、『紀伊続風土記』九三に、砂鉄|牟婁《むろ》郡(三重県)尾鷲《おわせ》郷に産す盆石に添えて観美なりと出づ。
動物の分類は何たる定説なく、学者各※[#二の字点、1−2−22]その見を異にする故、どれが一番正しいという事がならぬ。がしばらく八年前出た『大英百科全書』に採用せるところに拠ると、哺乳動物、これは支那でいわゆる獣に人類を加えたものに当る。それに三群を分つ。第一単孔群は濠州辺にのみ産し、第二有嚢群は濠州とその近島と西大陸にのみ産す。第三有胎盤群に、食虫(※[#「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1−94−84]鼠《もぐら》等)、手翅(蝙蝠《こうもり》)、皮翅(インド諸島の飛狐猴《コルゴ》属)、貧歯(※[#「魚+凌のつくり」、第4水準2−93−53]鯉《りょうり》等)、齧歯《げっし》(兎鼠)、チロドンチア(現存せず)、啖肉《たんにく》(猫犬等)、鯨鯢《げいげい》、シレニア(琉球のザンノイオ等)、有蹄《ゆうてい》、それからプリマテス(第一の義で猴《さる》と人)、以上十一類あり。その第十なる有蹄獣に重ねて、挺鼻(象等)、ヒラコイデア(岩兎《ヒラクス》の属)、バリポダ、トクソドンチア、アムブリポダ、リトプテルナ、アンキロポダ、コンジラルトラ(いずれも絶滅す)、奇趾《きし》、双趾の十類を分つ。このうち双趾類というは、足の趾《ゆび》が双足の中線の両方に相対して双《なら》びあるので、豹駝《ジラフ》、鹿、牛、羊、駱駝、豚、河馬《かば》等これに属す。奇趾類とはその足趾の内、人間の中指に相応するやつが左右整等で、その他のどの趾よりも大きいので、ここにチタノテレス(全滅)、馬類、獏《ばく》類、犀《さい》類の四部あり。馬類は過去世に多くの属類ありて、東西半球に棲んだが、馬の一属を除き、ことごとく死に絶えおわった。第二図[#図省略]ヒラコテリウムは、欧州と北米に、遺骨の化石を留むる下エオシーン期の馬で、前足に四、後足に三の趾ある事、大いに現存馬属諸種の足の端に、趾一つのみあると差《ちが》う。この物は、狐より大きくなかったらしく、諸有蹄獣の元祖と見做《みな》さるる、フェナコズスを去る事遠からずというから、まずは馬類中のもっとも原始的なものであろう。
現存する馬と同属ながら、過去世に栄えた現世化石となりおわったもの数あり。プ
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