、予が従来与えた書信をことごとく写真して番号を打ち携えいた。その言|寡《すく》なくて注意の深き、感歎のほかなし。今のわが邦人の多くはこれに反し、自分に何たる精誠も熱心もなきに、水の分量から薬の手加減まで解りもせぬ事を根問《ねど》いして、半信半疑で鼻唄半分取り懸るから到底物にならぬ。
予がこの菌を染料にと思い立ったは、フロリダで支那人の牛肉店に見世番を勤めていた時の事で、決して書籍で他《ひと》様の智慧《ちえ》を借りたのでないが、万事について、書籍を楯《たて》に取る日本の学者が、自分の卑劣根性より法螺《ほら》などと推量さるるも面白からぬから、その後知るに及んだ一八五七年版バークレイの『隠花植物学入門《イントロダクション・ツー・クリプトガミク・ボタニー》』三四五頁に、ポリサックムは黄色の染料を出しイタリアで多く用いらる。一八八三年四版グリフィスとヘンフレイの『顕微鏡学字彙《ゼ・ミクログラフィク・ジクショナリー》』六二三頁に、英国にただ一種|甚《いと》罕《まれ》に生ず、外国にはその一種を染料とすとあると述べ置く。ただし予が知るところ、邦産は三種にせよ三態にせよ、いずれも均《ひと》しく役に立つ。初夏から初冬まで海より遠からぬ丘陵また殊に沙浜《すなはま》に少なからず、注意せば随分多く集まる物と思う。黄土や無名異《むみょうい》に似て見えるから鉄を含んだ物と判る。鉄をいったついでに今一つ国益になる事を教えつかわす。
往年東牟婁郡の某々の村を通り、家々の様子を見ると何となく昔見た東国諸駅の妓家に似おった。因って聞き合すと、以前この二村の娘年頃になると皆特種の勤めを稼ぎ父兄を資《たす》け、遠近これを讃《たた》えて善くその勤めを成した娘を争い娶《めと》ったが、維新以後その俗|廃《すた》れ家のみ昔の構造のまま残るといった。古戦場を弔うような感想を生じてその一軒に入り、中食《ちゅうじき》を求め数多き一間に入って食いながら床間《とこのま》を見ると、鉄砂で黒く塗りいる。他の諸室を歴《へ》巡《めぐ》るに皆同様なり。それから事に託して他の一、二家に入って見るとやはりかくのごとし。この砂は何地の砂かと聞いたが、耄《ぼれ》叟《おやじ》や婦女子ばかりで何だか分らず、こんな地へ遠国より古くかかる物を持ち来るはずなければ、必ずこの地に多く鉄砂を産する事と考えた。その後勝浦から海伝いに浜の宮まで川口を横ぎり歩いて海藻を調べたところ、下駄の跡が潮に淘《ゆら》るる鉄砂で黒く二の字を画く処あり。浜の宮には鉄砂の中へ稲を種《う》えたよう見えた田もあった。因ってかつて見た妓家どもの壁は純《もっぱ》らこの辺の鉄砂で塗られたものと断じた。
予は鉱物学を廃して三十七年になり、件《くだん》の海辺へは十四年も往かぬから右のほかに一辞を添ゆる事がならぬが、『和歌山県誌』など近く成った物に、一切紀州に鉄砂ある由を記さない。して見ると予ほどこの事を知った者が只今多からぬと疑う。鉄は金銀と異なり、わずかな分量では利得にならぬと聞いたが、頃日《このごろ》米国禁鉄となってから、一粒の鉄砂も麁末《そまつ》にならぬような話を承る、ふとした事から多大の国益が拡がった例多ければ、妓家の黒壁が邦家の慶事を啓《ひら》かぬにも限らぬと存じ、本誌紙面を藉《か》りてその筋の注意を惹《ひ》き置く。
この類の事まだ夥しくあるが、今度はこれで打ち切りとして、もし私人がこの文を読むに起因して大儲けをしたら、お富も三十七まで仲居奉公に飽きてこの上娘が承知せぬというから、なるべく大金を餽《おく》って片付けやってくれ。また政府が予の発見発言の功を認むるの日が幸いにあったなら、勲章の何のと下さるに及ばず、海外多数の碩学《せきがく》名士が毎《いつ》も同情せらるる予の微力を以て老いの既に至れるを知らず、ややもすれば眠食を廃して苦心する研究に大|妨碍《ぼうがい》を加うる和歌山県の官公吏を戒飭《かいちょく》して、彼輩衣食のために無益の事を繁《しげ》く興し、あるいは奸民と結託し、あるいは謄記料を撤免してまでも、日本国光の一大要素たる古社神林を棄市|凌遅《りょうち》同然の惨刑に処し、その山を赭にしその海を蕩《とう》し、世界希覯の多種の貴重生物をして身を竄《かく》し胤を留むるに処なからしめて、良好の結果を得たりなど虚偽の報告を上《たてまつ》りて揚々たるを厳制されたしと啓《もう》す。もっとも海外に限らず海内《かいだい》にも多少の同情を寄せらるる人少なからぬが、その多くは官吏で飯の懸念から十分に加勢もしてくれず。かつて大阪府の薄給官吏が血書してこの意を述べ、空しく予の志を怜《あわ》れむと匿名書を贈られたが最上の出来じゃ。また甚だしきは当路に媚《こ》びたり、浅薄なる外来宣教師に佞《ねい》したり、予を悪口|嘲弄《ちょうろう》する奴もある。昔|織田右馬助《おだうまのすけ》人の賄《まいない》を再三取った時信長が「銭ぐつわはめられたるか右馬助、人畜生とこれを云《い》ふらむ」と詠み送った。銭勒《ぜにぐつわ》の利かぬような者は難いかな今の世に免れん事をと歎息し、智馬をして空しく無識の販馬商《うまうり》の鞍下に羸死《つかれし》せしめぬよう冀望《きぼう》を述べてこの章を終結する。
名称
馬、梵名アス、ヌアスワ、またヒヤ、ペルシア名アスプ、スウェーデンでハスト、露国でロシャド、ポーランドでコン、トルコでスック、ヘブリウでスス、アラブでヒサーン、スペインでカバヨ、イタリアとポルトガルでカヴァヨ、ビルマでソン、インドでゴラ(ヒンズ語)、グラム(テルグ語)、クドリ(タミル語)、オランダでパールト、ウェールスでセフル、かく種々の名は定めて種々の訳で付けられ、中には馬の鳴き声、足音を擬《まね》て名としたのもあるべきがちょっと分らぬ。支那で馬と書くは象形字と知れ切って居るが、その音は嘶声を擬《まね》たものと解くほかなかろう。『下学集』に胡馬《うま》の二字でウマなるを、日本で馬一字を胡馬《うま》というは無理に似たり、〈馬多く北胡に出《い》づ、故に胡馬というなり〉と説いたが、物茂卿が、梅《めい》をウメ馬《ま》をウマというは皆音なりというた方が至当で、ウは発音の便宜上加えられたんだろ。
故マクス・ミュラー説に、鸚鵡《おうむ》すら見るに随って雄鶏また雌鶏の声を擬し、自ら見るところの何物たるを人に報《しら》す。それと等しく蛮民は妙に動物の鳴音を擬《まね》る故、馬の嘶声を擬れば馬を名ざすに事足りたはずだが、それはほんの物真似で言語というに足らぬ。われわれアリヤ種の言語はそんな下等なものでなく、馬を名ざすにもその声を擬《まね》ず。アリヤ種の祖先が馬を名ざすに、そのもっとも著しい性質としてその足の疾き事を採用した。梵語アース(迅速)、ギリシア語のアコケー(尖頂《けんさき》)、ラテンのアクス(鍼《はり》)、アケル(迅速また鋭利また明察)、英語アキュート(鋭利)等から煎《せん》じ詰めて、これら諸語種の根源だったアリヤ語に鋭利また迅速を意味するアスてふ詞《ことば》あったと知る。そのアスがアスヴァ(走るものの義)、すなわち馬の梵名、リチュアニア語のアスズウア(牝馬)、ラテンのエクヴス、ギリシアのヒッコス、古サクソンのエツ(いずれも馬)等を生じたとある(一八八二年版『言語学講義《サイエンス・オブ・ランゲージ》』巻二)。ミュラーは独人で英国に帰化し、英人の勝《すぐ》れた分子は皆独人と血を分けた者に限り、英独人が世界でいっち豪《えら》いように説き、またしきりに古インドの文明を称揚して、インド人を英国に懐柔して大功あった。そのインド人が昨今ややもすれば英国を嫌い、英国の学者までもドイツ人を匈奴《きょうど》の裔《すえ》と罵《ののし》り、その身に特異の悪臭あり全く英人と別種なるよう触れ散らすを見ては、学説の転変猫の眼も呆《あき》れるべく、アリア種の馬の名が、一番高尚とかいう説も、礼物の高い御札で、手軽く受けられぬ。
精しい古語彙が眼前にないから確言は出来ぬが、独語にプファールデン(嘶《いなな》く)てふ動詞があったと憶《おも》う。果してしからばミュラーがアリヤ種で一番偉いように言った独語のプファールト、蘭語のパールト、いずれも支那の馬《マー》また恐らくはアラブのヒサーン同様、嘶声を採って馬の名としたのでなかろうか。わが邦の腰抜け学者輩が予がかかる言を吐くを聞いては、人もあろうに博言学の開山ミュラー先生を難ずると、それはそれはと大不敬罪でも犯したように譏《そし》るじゃろうが、孟子の曰く、大人に説くにすなわちこれを藐《かろん》じその魏々然たるを視《み》るなかれと、予は三十歳ならぬ内に、蘭国挙げて許した支那学の大親方グスタウ・シュレッケルと学論して黄色な水を吐かせ、手筆の屈伏状を取って今に日本の誇りと保存し居るほど故、ミュラーの幽霊ぐらい馬糞とも思わぬ。これほどの英気あらばこそ錦城館のお富に惚《ほ》れられるのだと自惚《うぬぼ》れ置く。それからダニール・ウィルソンいわく、新世界へ欧人移り入りて旧世界でかつて見ざる格別の異物を睹《み》た時、その鳴き声を擬《まね》て名を付けた例多し。アイ(獣の名)、カラカラ、ホイプールウィル、キタワケ(いずれも鳥の名)等のごとし。しかるに新世界にあり来ったインジヤンはこれと反対に、欧人将来の諸動物をその性質動作等に拠って名づけた。例せば馬のチェロキー名サウクイリ(小荷駄運び)、デラウェヤ名ナナヤンゲス(背負い運び獣)、チペワ名パイバイジコグンジ(一蹄獣)、またダコタ人は従前物を負う畜ただ犬のみあったから、馬をスンカワカン(霊犬すなわち不思議に荷を負う畜)と呼ぶがごとし(一八六二年版『有史前の人《プレヒストリック・マン》』一巻七二頁)。これ後世までもアリヤ種の言語かえって動物の声を擬《まね》て名とする事盛んに、いわゆる劣等種たる銅色人が初めて馬を見て名を付くるに、専らその性質に拠り決してその声を擬《まね》なんだ確証で、かかる反証が少なくとも二十年前に出でいたを知らぬ顔で、何がなアリヤ種を持ち上げんと勝手な言のみ吐いたミュラーは、時代|後《おく》れに今日までもわが邦一派の学者が尊敬するほど真面目な人物でなかったと知る。バートンはアラビヤに馬に関する名目多いと述べたが、支那人も古くから随分馬に注意したは、『爾雅』を始め字書類を見て判る。前足皆白い馬を※[#「馬+奚」、第4水準2−93−1]《けい》、後足皆白きを※[#「栩のつくり+句」、354−8]《く》、前右足白きは啓、前左足白きは※[#「足へん+奇」、354−8]《き》、後右足白きは驤《じょう》、後左足白きは※[#「馬/廾」、354−8]《しゅ》などなかなか小むつかしく分別命名しある。わが邦も毛色もて馬を呼ぶに雑多の称あり。古来苦辛してこれを漢名に当てたは『古今要覧稿』巻五一五から五二四までに見ゆ。とばかりでは面白うないから、何か珍説を申そう。
三年前、南洋の各地を視察した長谷部博士の説に、トルク島人闘う時|対手《あいて》やその近親の陰部に関し聴くに堪えぬ言を闘わし、マーシャル島人また仇敵の母の陰部を悪口する由(『人類学雑誌』三十巻七号二七八頁)。『根本説一切有部毘奈耶』に、仏の弟子|※[#「烏+おおざと」、第3水準1−92−75]陀夷《うだい》人相学に精《くわ》し、舎衛城内を托鉢して婆羅門居士の家に至り小婦を見、汝の姑は如何《いかん》と問うと、兎が矢に中《あた》ったように暴悪だと答う。※[#「烏+おおざと」、第3水準1−92−75]陀夷曰く姑の過ちでない、彼の両乳の間および隠密処に黒黶《くろぼくろ》と赤黶と旋毛《つむじ》、この三の暴悪相があるからだと教え食《じき》を受けて去った。その後またその家に至り姑に汝の※[#「女+息」、第4水準2−5−70]《よめ》は如何と問うと、仕事無精で瞋《いか》り通しだと答う。そこで前同様に教え食を受けて去った。他日他の居士の家に説法した時、その姑に※[#「女+息」、第4水準2−5−70]の事を尋ねると、生《うみ》の娘同様孝を尽くしくれると悦び語る、※[#「烏+おおざと」、第
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