ち本邦固有の美風だから、吉凶にかかわって日時を転《かえ》るの旧慣を絶つとも、下気は泄出の様子までも公報する外国風を採るなどの事なきを望むと、かく答えた予の書牘《しょとく》を読んで、誠に万事西洋模倣の今日よいところへ気が付かれたと、昨春田辺へ来られた節|親《まのあた》り挨拶あり。それも決して座成的《ざなりてき》のものでないと見え、何処《どこ》とかへ代議士が集った席でも話出て感心しきりだったと、中村啓次郎氏から承った。三十年ほど前予米国にあって、同類の学生を催し飲酒度なく、これを非難せしとて岡崎氏等を悪口してやまなんだが、氏の寛懐なる、二十一年来この片田舎に魚蝦を友とし居る予を問われたが嬉《うれ》しさに、覚えずかく長く書いたのだ。その頃故エドウィン・アーノルドが東京に来寓し、種々筆した内に「初め冗談中頃義理よ、今じゃ互いの実と実」てふ都々逸《どどいつ》を賞めて訳出した。その鑑識に驚いて予が小沢という人に話し、小沢また岡崎氏に向って受け売りすると、恋愛の実境はそんな言では悉《つく》し得ない、すべて少年は縹緻《きりょう》を重んじ中年は意気を尚《たっと》ぶ、その半老以後に及んではその事疎にして情|転《うた》た熾《さか》んに、日暮れ道遠しの事多し、ただ身分《しんぶん》の健否を問うのみと言われた由。この語|洵《まこと》に神に通ずで、人間のみかは畜類について察するも、齢の加わるに随って心情の移り変るかくのごとき例甚だ多し。その移り変るを上進と見んか堕落と言わんかちょっと分りにくいが、邦俗|二十《はたち》の後家は立ちて、三十の後家は立たぬといい、若くて清貞の聞え高く老後汚名を流せし者諸国の史筆を絶たぬは、皆岡崎氏の説通りの訳に基づくらしく、在英中高名のある学者に語ると、日本にも偉い人がある、今日欧州で婦女の徳行を論ずる者も、大抵その通りの標準に拠って酌量を加えいるが、いまだ岡崎氏ごとく手短く定則的に確言した者あるを聞かぬと感心された。三十二、三でかく観察力に富みいた岡崎氏が、政治の代りに学問に懸り続けられたなら、一方ならずわが邦の学術を進めたはずだ。かの学者は著書すこぶる多いが居常至って多忙で、予が一々所拠を明らかにして告げた事も多くは予の言として記しある。大戦争始まってより音信ないが、もしその書中に右の岡崎氏の言を予の言のごとく書きあったなら、見る人予は単に氏の言を吹聴したに過ぎぬと知られよ。
屁が済んだから今度は馬の糞の話としよう。糞|成金《なりきん》になり得るかも知れぬからしっかり読むべし。『大清一統志』二二二に、湖南の金牛岡は昔赤牛江を渡り糞するを見ると金だったので、蹤《あと》跡《つ》け行くとここに至って見えず、その地を掘って金を求めた跡が現存すといい、二四〇巻には秦の恵王蜀を伐たんとて石の牛五頭を作り、毎朝金をその後に落し牛が金を便するという、蜀人悦んでこれを乞い迎え入れた、その時作った石牛道、すなわち剣閣道から伐ち入って蜀を滅ぼしたとある。田九郎というもの、三日に一度必ず金を糞ともにする馬とて兄をあざむき、五十金に売りし事『醒睡笑《せいすいしょう》』一に出づ。
欧州には畜類が金の糞した話が多い。例せばクレーンの『伊太利俚譚《イタリアン・ポピュラー・テールス》』に、貧しい児が叔父に小さき驢を貰う、その下に風呂敷さえ拡ぐれば、銭を便して満てる。それを率きて行き暮れて旅亭に宿り驢と同室に臥すを怪しみ亭主が覗くと、銭多く出す様子、因って一分一体|異《かわ》らぬ他の驢をかの児の眠った間に、金の糞する驢と掏《す》り替えた。翌朝出で立ちて、途中で始めて気付き、引き還して亭主を責めたが応ぜず。叔父を訪《おとの》うて泣き付くと、広げさえすれば飲食思いのままに備わる机懸けをくれる。それを持ってまた同じ旅亭に宿り、前のごとく掏り替えられ、叔父に泣き付くと、仏の顔も三度と呟《つぶや》きながら、今度は打てと命ずれば他《ひと》を打ち続け、止《や》めと命ずれば止む杖をくれる。それを携えて例の旅亭に宿る。亭主その杖美しく柄が金作りなるを見、夜その室に入って窃《ぬす》みに掛かるを待ち受けいたかの児小声で打て打てと呼ぶと、杖たちまち跳《おど》り出て烈《はげ》しく亭主を打ち、勢い余って鏡、椅子、硝子《ガラス》窓以下粉砕せざるなく、助けに駈け付けた人々も皆打たれたので、亭主盗み置いた小驢と机懸けを返してようやく免《ゆる》され、かの児は件《くだん》の三物をもって家に帰り母と安楽に富み暮した、目出たし目出たしとある。
『フォークロール・ジョーナル』巻四に、支那人の起原について蒙古人が伝えた珍譚を載す。いわく、貧士あり路上で二人が羊眼大の玉を争うを見、その玉を渡せ、われそれを持ちて走るに、まず追い著いた者玉の持ち主たるべしといい、玉を受け取りて直ちに嚥《の》み下し隠れ去った。それより他邦に之《ゆ》きて一老人の養子となる。この養子|唾《つばき》はくごとに金を吐く、老人その金を国王に呈し、王女を養子に妻《めあわ》さんと願う。王ともかく本人をとて召し見ると、かの男王の前で金を吐く、王女馬の腹帯もて彼を縛り塩水を呑ませ鞭《むち》うつと玉を吐くを、王女拾い嚥みおわる。男は老人方に還り、驢の鞍と※[#「革+巴」、344−9]《はなかわ》を造り往きて白樹下に坐す。彼貧なりし時この樹下に眠り、夢に不思議な呪言を感得しいた。かくと知らぬ王女は玉を嚥んで懐妊し、処女二十人伴れてこの樹下へ遊びに来り、かの男呪を唱えて王女を驢に化し、鞍と※[#「革+巴」、344−11]を付けて一月間|騎《の》り行《ある》くと、驢疲れて進む能わず。因って徒歩して一都城に到り、僧となる。跡に残った驢は※[#「戀」の「心」に代えて「子」、第4水準2−5−91]生《ふたご》の男児を生み、その子孫皆|※[#「戀」の「心」に代えて「子」、第4水準2−5−91]《ふたご》で金銀茶布を有し、毎《いつ》も富み、その後胤殖えて支那人となったと。かかる話は蒙古等の民が甚《いた》く鮓答《さとう》を尊ぶから生じたであろう。鮓答は胡語ジャダーの音訳で、今日もアルタイ地方に鮓答師《ヤダチ》てふ術士あり。能くこの石を用いて天気を制す。この石不断風強く吹く狭き山谷にあり。人能く一切の所有物を棄て始めて手に入れ得、故にこの石を使う者は孤寒素貧かつ無妻という(一九一四年版チャプリカの『西伯利原住人《アボリジナル・サイベリア》』二〇〇頁)。突厥《トルキ》や蒙古の軍にしばしば鮓答師《ヤダチ》が顕用された例は、ユールの『マルコ・ポロの書』一版一巻六一章に出《い》づ。胡元朝の遺民|陶宗儀《とうそうぎ》の『輟耕録』四に、往々蒙古人雨を祷《いの》るを見るに、支那の方士が旗剣符訣等を用うると異なり、ただ石子数枚を浄水に浸し呪を持《も》て石子を淘《ゆり》玩《まわ》すと、やや久しくして雨ふる、その石を鮓答といい、諸獣の腹にあれど、牛馬に生ずるのが最も妙だと見ゆ。日本で馬糞石など俗称し、稀に馬糞中に見出す物で予も数個持ち居る。『松屋筆記』に引ける『蓬※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]日録』に、〈およそ兵事を達するには、急に能く風雨を致し、囲を突きて走り、けだし赭丹《しゃたん》を有《も》って身に随《つ》く、赭丹は馬腹中に産するところの物、これを用いて念呪すなわち風雨を致す〉と載せた赭丹も、蒙古名シャダーの音訳だ。『兎園小説』に、死んだ馬が侠客の夢に現われてその屍の埋葬を頼み、礼として骸中の玉を与えた由、馬琴が筆しある。何に致せ天下分け目の大戦さえ鮓答で決せらると信ぜられ、一二〇二年ナイマン部等の大聯合軍が成吉思《ジンギス》およびアウン汗と戦う時、アウン汗の子、霧雪を興してこれを破ったもこの石子の神効に由るというほど故、これを手に入れんとて一切の所有物を棄てても十分引き合うべく、非常に高価な物だったらしい。鮓答また薬として近古まで高価だったは、タヴェルニエーの『印度紀行』巻二で判る。また畜類の糞は古来種々に用達《ようだ》てられた。十九世紀に最《いと》早くラッサに入りて高名したウクの説に、蒙古人好く畜の糞を類別して適宜応用を誤らず、羊糞を焼かば高熱を生ずる故|冶金《やきん》に用い、牛糞の火は熱急ならぬ故肉を炙《あぶ》るに使うと、前述驢様の長耳を持ったフリギア王ミダスは貪慾で自分の糞を金に変えたと伝えられ、ローマ帝ヴェスパシャヌスは公事に鉅万《きょまん》を費やすを惜しまなんだが、内帑《ないど》を殖やすに熱心してその馬の糞を売り、太子チッスの諫《いさ》めに逢って馬糞売って得た金は悪《あ》しく臭うか嗅《か》いで見よと言った。かく畜《けだもの》の糞から高値な鮓答を得もすれば、糞それ自身が随分金と替えられ得たから、それを大層に訛称《かしょう》して金を糞に出す驢牛等の譚も出来たのだ。アストレイの『西蔵《チベット》記』に、大|喇嘛《ラマ》の糞尿を信徒に世話しやりて多く利を得る喇嘛僧の事を載す、蒙古人その糞の粉を小袋に入れ頸に掛け、その尿《いばり》を食物に滴《おと》して用うれば万病を除くと信じ、天主僧ジャービョン西|韃靼《だったん》に使した時、大喇嘛の使者かようの粉一袋を清帝に献ぜんと申し出て拒まれた由。これらは無上に高値な糞であろう。わが邦でも古く陣中に馬糞を薪《たきぎ》にし、また馬糞汁もて手負いを療じた(『雑兵《ぞうひょう》物語』下)。したがって馬糞を金ほど重んじた場合もあったものか。羽黒山の社の前後に賽銭《さいせん》砂礫《されき》のごとく充満し、参詣人の草履《ぞうり》に著《つ》く故、下山に先だちことごとく払い落す。強慾な輩、そのまま家へ持ち帰れば皆馬糞に化《な》るという(『東洋口碑大全』七六二頁)。韓退之《かんたいし》がいわゆる、牛溲馬勃《ぎゅうそうばぼつ》、ともに収め並びに蓄《か》うで、良医が用うれば馬糞も大功を奏し、不心得な奴が持てば金銭も馬糞同然だ。退之の件《くだん》の語中の馬勃は牛の小便に対して馬の糞を指《さ》したんだが、『本草』に掲げた馬勃は馬糞に似た胆子菌リコベルドン、スクレロデルマ等諸属、邦俗チリタケ、ホコリタケなど呼ぶ物に当る(『本草図譜』三五巻末図見るべし)。第一図[#図省略]に示すはこれらに近縁あるポリサックム属の二種、いずれも田辺で採った。瞥見《ちょっとめ》にはこれも馬の糞|生写《いきうつ》しな菌である。今までおよそ二十種ばかり記載された事と思うが、予が知り及んだところ濠州に最《いと》多種あり、三十年ほど前欧州に四種、米国に二種、そのフロリダ州では予が初めて見出したらしく、今もその品を蔵し先年来訪されたスウィングル氏にも見せた。本邦では十八年前予英国より帰著の翌朝、泉州谷川で初めて見出し、爾後紀州諸郡殊に温かな海浜の砂中に多く、従来西人の記載に随えば少なくとも三種は日本にありと知ったが、自分永年の観察を以てすればこの三種は確乎たる別種でなく、どうもポリサックム・ピソカルピウムてふ一種の三態たるに過ぎぬごとし。因ってこの一つの名もて、白井博士に報じ、その近出に係る『訂正増補日本菌類目録』四八五頁に録された。さてこの菌は、米国植物興産局の当事者たるスウィングル氏(予と同時にフロリダにあって研究した人)も近年予に聞くまで気付かなんだらしいが、予は三十年前から気が付きおり、染料として効果著しきもので、貧民どもに教えて、見るに随って集め蓄えしめたら大いに生産の一助となる事と思う。ただし予も今に余暇ごとに研究を続けおり、これより外に一言も洩らさぬ故、例の三銭の切手一枚封じ越したり、カステラ一箱持って遥々《はるばる》錦城館のお富(この艶婦の事は、昨年四月一日の『日本及日本人』に出でおり艦長などがわざわざ面を見に来るとて当人鼻高し)を介して尋ね来りしたってだめだと述べ切って置く。欧米の人はかかる事をちょっと聞いたきり雀で、諄々《くどくど》枝葉の子細を問わず、力《つと》めて自ら研究してその説の真偽を明らめ、偽と知れたらすなわちやむ。もしいささかも採るべきありと見れば、他の工夫処方の如何《いかん》を顧みず、奮うて自家独見の発明に従事する。前日ス氏来訪された時
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