膨《ふく》るるなど理窟を付けて喋《しゃべ》りたきは四海同風と見えて、古ギリシアにもフリギア王ミダスの譚を伝えた。アポロ大神琴を弾じ羊神パンは笛を吹いてミにいずれが勝れると問うに羊神の笛勝れりと答えた。アポロ怒ってミの耳を驢の耳にし、ミこれを慚《は》じて常に高帽で隠しその一僕のみ主人の髪を剪《はさ》む折その驢耳なるを知った。由ってその由人に洩らすまじと慎んでも怺《こら》え切れず。ついに地に穴掘って、モシモシミダス王の耳は驢馬同然ですと囁《ささや》き、その穴を埋めて心初めて落ち着いた。しかるに因果は恐ろしいもので、その穴跡より一本の蘆《あし》生え、秋風の吹くにつけてもあなめ/\と小町の髑髏《されこうべ》の眼穴に生えた芒《すすき》が呻《うな》った向うを張って、不断ミ王驢耳を持つ由囁き散らし、その事|一汎《いっぱん》に知れ渡った由。高木敏雄君また前年この譚の類話を求められた時、予が答えた二、三の話を挙ぐると、まず蒙古の譚に、ある王の耳金色で驢耳のごとく長きを世間へ知れぬように腐心し、毎夜一青年にその頭を梳《くしけず》らしめ終ってすなわち殺した。その番に中《あた》った賢い若者が王の理髪に上る時、母の乳と麦粉で作った餅を母に貰《もら》って持ち行き王に献《たてまつ》る。王試み食うと旨《うま》かったからこの青年に限って理髪が済んで殺さず。ただし王の耳については母にすら語るなからしめた。青年慎んで口を守れば守るほど言いたくなり、これを洩らさずば身が裂くるべく覚えた。母教えて広野に之《ゆ》きて木か土の割け目へ囁けと言った。青年野に出て栗鼠《りす》の穴に口当て、わが王は驢耳を持つと囁くを聞いた、その頃の動物は人言を解した故、人に話し、人伝えて王の耳に入り、王|瞋《いか》りて彼を殺さんとしたが、仔細を聞いて感悟し、彼を首相に任じた。青年首相となって一番に驢耳形の帽を創製して王の耳を隠したので、王も異様の耳を見らるる虞《おそれ》なく大いに安楽になったという。キルギズ人の口碑には、アレキサンダー王の頭に二の角あるを臣民知らず。それが知れたら王死なねばならぬ。由って理髪人を召すごとに事済んで直ちに殺した。王地上の楽を極めてなお満足せず使者二人を遣わして、不死の水を捜さしめた。一日王理髪人を召したが、今度だけは殺さず、角の事を洩らさぬよう戒め置くと、理髪人命の惜しさに暫く黙しいたが、耐《こら》えられなくなり、窃《ひそ》かに井中へ囁き込むと、魚が聞いて触れ散らし角の噂が拡まったので王死んでしまい、二使人不死の水を持ち帰っても及ばず、共にこれを飲んで今に死なず、一人は人に見《まみ》えずに地上を周遊して善人を助け、一人は純《もっぱ》ら牛を護るという(グベルナチス伯とサルキンの説)。
 上述の月氏国王が謀を馬に洩らして弑《しい》に遭ったり、フリギアや蒙古の王の理髪人が穴に秘密を洩らしたりしたについて想い起すは、アラビヤ人が屁《へ》を埋めた話で、これもその節高木君へ報じたが、その後これについて、政友会の重鎮岡崎邦輔氏が、大いに感服された珍談がある。人を傭《やと》うて書き立ててもらおうにも銭がないから、不躾《ぶしつけ》ながら自筆で自慢譚とする。昔アラビヤのアブ・ハサンてふ者カウカバン市で商いし大いに富んだが、妻を喪《うしの》うて新たに室女《きむすめ》を娶《めと》り大いに宴を張って多人を饗し、婦人連まず新婦に謁し次にアを喚《よ》ぶ。新婦の房に入らんとて恭《うやうや》しく座を起たんとし、一発高く屁を放《ひ》ってけり。衆客彼|慙《は》じて自殺せん事を恐れ、相顧みてわざと大声で雑談し以て聞かざる真似した。しかるにア、心羞ずる事甚だしく新婦の房へ入らず、厠《かわや》に行くふりして庭に飛び下り、馬に乗って泣きながら走り出で、インドに渡り王の近衛兵の指揮官まで昇り、面白|可笑《おか》しく十年を過した。その時たちまち故郷を懐《おも》うて死ぬべく覚えたので、王宮を脱走してアラビヤに帰り、名を変じ僧服し徒歩|艱苦《かんく》してカウカバン市に近づき還った。ここを去って久しくなるが、今も誰か己の事を記憶し居るかしらと惟《おも》うて、市の周辺を七昼夜潜み歩いて聞き行くうち、とある小家の戸口に坐った。家裏で小女の声して自分の年齢を問う様子。耳を聳《そばだ》て聞きいると、母答えて汝はちょうどアブ・ハサンが屁を放った晩に生まれたと言うを聞きて、さてはわが放屁はここの人々が齢を紀する年号同然になりおり永劫忘らるべきにあらずと、大いに落胆して永く他国に住《とど》まり終ったという。正確を以て聞えたニエビュールの『亜喇比亜紀行《ベシュライブンク・フォン・アラビエン》』にも屁を放って国外へ逐われた例を挙げおり、一七三五年版ローラン・ダーヴィユーの『文集』巻三にも、二商人伴れ行くうち一人放屁せしを他の一人|瞋《いか》って殺さんとす。放《ひ》りし者ことごとくその財物を捧げて助命さる。他の一人この事洩らすまじと誓いしを忘れ言い散らし、放りし者|居堪《いたたま》らず脱走す。三十年経て故郷に還る途上その近処の川辺に息《やす》む。たまたま水汲みに来た婦ども互いに齢を語るが耳に入る。一婦いわく、妾は某大官がコンスタンチノープルへ拘引された年生まれた。次のはいわく某大官|歿《ぼっ》せし年と。第三婦言う雪多く降った年と。第四婦ここにおいて妾は某生が屁放った年生まれたと明言するのが自分の名だったから、その人これじゃとてもわが臭名は消ゆる期なしと悟り、直ちに他国に遁《のが》れて三度と故郷を見なんだと載せ、また一アラビヤ人屁迫る事急なるより、天幕外遠隔の地へ駈け行き、小刀で地に穴掘り、その上に尻を据《す》え、尻と穴との間を土で詰め廻しとあるから、近年流行の醋酸《さくさん》採りの窯を築くほどの大工事じゃ。さていよいよ放《ひ》り込むや否や直ちにその穴を土で埋め、かくて声も香も他に知れざりしを確かめ、やっと安心して帰ったとあって、この書世に出た頃大いに疑われたが、ニエビュールがその真実たるを証言した。

     伝説二

 さきに『淮南子』の塞翁の馬の譚は支那特有のものらしいと述べ置いた。その後種々調べても支那外の国にかかる譚あるを見当てぬが、支那自身においては『淮南子』より三百年ほど前似たものが行われいた。それは『列子』の説符第八に、三代続いて仁義を行った宋人方の黒牛が白い犢《こうし》を生んだので、孔子に問うと吉祥と答えその犢もて神を祭らしめたが、ほどなくその人盲となった。その後その牛また白い犢を生み、孔子に問うと、相変らず吉祥と答えまた祭らしめると、一年してその人の子も盲となり、これでは孔子の予言も当てにならぬと思いいる内、楚軍宋を囲み宋人従軍して多く死す。しかるに彼の父子のみ揃《そろ》うて盲の故を以て徴兵を免れ、さて戦い済んで二人ながらたちまち眼が開いたから、前に不吉と惟《おも》うた事も孔子が言った通り吉祥と知れたとあって、林希逸は〈この章塞翁馬を得て馬を失うと意同じ〉と評した。人間万事塞翁の馬という代りに、宋人の牛といっても可なりだ。漢の王充の『論衡』六にもこの話出づ。これから屁の話の続きだ。
 ローラン・ダーヴィユーまた述べたは、かつてアラビヤのある港で、一水夫が灰一俵|※[#「てへん+建」、第3水準1−84−84]《かた》ぐるとて一つ取り外《はず》すと、聴衆一同無上の不浄に汚されたごとく争うて海に入るを睹《み》た。またアラビヤ人集まった処で一人ローランに仏人能く屁を怺《こら》えるの徳ありやと問うた。無理に怺えてはすこぶる身を害すれど、放《ひ》って人に聞かしむるを極めて無礼とす、しかしそれがため終身醜名を負うような事なしと答うると、斉《ひと》しく一同逃げ去った。問いを発した本人は暫く茫然自失の様子、さて一語を出さず突然起って奔りおわり爾後見た事なしと。ロ氏のこの談で察すると、当時仏人は音さえ立てずば放って悔いなんだらしい。いかさま屁の事は臭きより後にする道理で、予はこの方とんと不得手故詳しく調べ置かなんだが、ロ氏に後るるおよそ百年ジュフールの説に、古ローマ人は盛礼と祭典の集会においてのみ屁を制禁したが、その他の場所また殊に食時これを放るを少しも咎めず、ただしアプレウスの書に無花果《いちじく》の一種能く屁放らしむるを婦女避けて食わずとあれば、婦女はなるべく扣《ひか》え慎んだらしいとあって、古ローマ人は放屁に関して吾輩と全く別の考えを懐《いだ》いたのだと断じ居る。されば他事はともあれ、屁の慎みは今の欧人が昔よりも改進したのだ。予が学び知るところまた自ら経験せるところを以てすれば、屁とか※[#「口+穢のつくり」、第3水準1−15−21]《しゃくり》とかいうものはこれを恣《ほしいま》まにすれば所を嫌わず続出し、これを忍べば習い性となって決して暴《にわ》かに出て来るものでない。故アーネスト・ハートなどは、人と語る中ややもすれば句切り同然に放っていたが、それは廉将軍の三遺失に等しく、甚《ひど》く耄《ぼ》れたのだ。今日満足な欧人で音さえ立てずば放捨御免など主唱する者なく、上流また真面目な人はその話さえせぬ。却説《さて》一昨年岡崎邦輔君の紹介である人が予に尋ねられたは、何とかいう鉄道は鬼門に向いて敷設され居るとて一向乗客少ない。鬼門など全く開けた世に言うべき事でない理由を弁じて衆妄を排し、かの鉄道の繁栄する方法がありそうなものというような事だった。因って予岡崎君に返事した大要は、マックズーガル説に、人間は訳が判ったからって物を怖れぬに限らぬ。自分は動物園の鉄圏堅くてなかなか猛獣が出で来るべきにあらずと知悉すれど、虎がこっちへ飛び掛りて咆ゆるごとに怖ろしくてわが身の寒きを覚えるを制し得なんだ事ありとあったと記憶する。それと等しく鬼門の祟《たた》りなど凡衆にとって有無ともに確証を認めぬながら、君子は有るを慮《おもんぱか》り無しを慮らず、用心に越した事なしてふ了簡がほとんど天性となり居るところへ以て、蘇張の弁でその妄を説いたって容易に利く事でなかろう。かつそれ風を移し俗を易《か》えるは社会の上層から始め、下これに倣うてようやく事成る。しかるにわずか数年前横浜の外字新聞にわが国貴勝の隠れさせたまえる時刻に真仮の二様あったとて、かかる国民に何の史実何の誠意を期待し得べきと手酷く難詰しあったそうで、その訳文を京阪の諸紙で見た。陰陽道《おんようどう》で日や時の吉凶を詳しく穿議した古風を沿襲しての事と存ずるが、この世を去るに吉日も凶時もあるものかという外人の理窟ももっともだ。が上《かみ》つ方《かた》においては例の有るを慮り無しを慮らざる用心から、依然旧慣に循《したが》わるるのであろう。その可否のごときは吾輩賤人の議すべきでないが、社会の上層既にかかる因襲を廃せぬに、下層凡俗それ相応に鬼門の忌を墨守するを、吾輩何と雑言したりとて破り撤《す》てしめ得らりょうぞ。さてついでに申し置くは壮時随分諸邦を歩いた時の事と思《おぼ》し召せ。ある邦の元首大漸の公報に、その詳細を極めんとの用意が過ぎて、下気出る時の様子までも載せあった。昔は帝堯が己に譲位すべしと聞いて潁川《えいせん》に耳を洗うた変物あり、近くは屁を聞いて海に入り、屁を聞かせじと砂に賺《すか》し込む頑民あり、さまでになくとも高貴の方の下気など誰一人あるべき事と期待もせねば、聴きたがりもせず。それを公報に載せて職に尽くせしと誇るは、羊を攘《ぬす》んだ父を訴えた直躬者《ちょっきゅうしゃ》同然だ。かかる無用の事を聞かせて異種殊俗の民に侮慢の念を生ぜしめ、鼎《かなえ》の軽重を問わるるの緒を啓《ひら》いた例少なからず。かく言うものの、賺《すか》し屁の放《ひ》り元同然日本における屁の故事を詳《つまび》らかにせねど、天正十三年千葉新介が小姓に弑せられたは屁を咎めしに由り、風来《ふうらい》の書いた物に遊女が放屁を恥じて自殺せんとするを、通人ども堅く口外せぬと誓書を与えて止めたと見れば、大昔から日本人は古ローマ人のごとく屁を寛仮せず、海に入り砂に埋むるまでなくとも、むしろアラビヤ人流に厳しく忌んだらしい。これすなわ
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