に倣うて各退却してその後の馬を衝いた。爾時《そのとき》上帝高声で聖ジョージに、汝の馬は魔に魅された早く下りよと告げ、聖《セント》しかる上はこの馬魔の所有物たれと言いて放ちやると、三歩行くや否やたちまち虫と化《な》って飛び去った、それからこの虫を魔の馬と名づく、蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]の事だというと。ガスターこれを註していわく、このような伝説が西欧と英国にもあったに相違ない、そうなくては、竜の蠅てふ英語は何の訳か分らぬ、想うにこの神魔軍の物語に、以前は神軍より聖ジョージ、魔軍より毒竜進み出で大立廻りを演じ、両軍鳴りを鎮めて見物し竜ついに負けたてふ一節があって、その竜が蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]と化《な》ったとか、聖ジョージの馬は翼あって飛び得たとかあったのが、いずれも忘れ落されしまったものかと。熊楠|惟《おも》うに、ルーマニア人も支那人と同じく蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]の形を竜に似た者と見しより右様の咄《はなし》も出来たので、林子平が日本橋下の水が英海峡の水と通うと言ったごとく、従来誰も解せなんだ蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]の英国名の起原が東欧の俗譚を調べて甫《はじ》めて釈《わか》り、支那の俚伝がその傍証に立つ、これだから一国一地方の事ばかり究むるだけではその一国一地方の事を明らめ得ぬ。
昔オランダ国で何度修めても砂防工事の成らぬ所あり。その頃わが邦へ渡ったかの国人が、奥羽地方で合歓木《ねむのき》をかかる難地へ植えて砂防を完成すると聞き、帰国の上官へ告げて試むると果して竣功したという。この事業上の談同然に学問上にも西洋人に解らぬ事で、わが邦で解りやすいのが多くある。三十年ほど前フレザーが『金椏篇《ゴルズン・バウ》』を著わして、その内に未開国民が、ある年期に達した女子を定時幽閉する習俗あるは、全く月経を斎忌《タブー》するに因ると説いたのを、当時学者も俗人も非常の発見らしく讃《ほ》め立てたが、実はわが邦人には見慣れ聞き慣れた事で、何の珍しくもない事だった。さほど知れ切った事でも黙っていては顕われず、空しく欧米人をして発見発見と鼻を高からしめ、その後に瞠若《どうじゃく》たりでは詰まらぬ。こう言うとお手前拝見と来るに極まって居るから、我身に当った一例を演《の》べんに、沙翁の戯曲『マッチ・アズー・アバウト・ナッシング』のビートリース女の話中に出る『百笑談《ハンドレット・メリー・テールス》』てふは逸書で世に現われなんだところが、一八一四年頃牧師コインビャーがふと買い入れた書籍の表紙をかの書の古紙で作りあるを見出し、解き復《もど》して見ると損じ亡《うしな》われた頁も少なくなかったが、幸いにも一部ならで数部の同書を潰《つぶ》し用いいたので、かれこれ対照してなるべく遺憾なくその文を収拾整復し得て大いに考古学者どもに裨益した。その『百笑談』の末段は、妻の腹に羊を画いた人の事とあって、その譚は、昔ロンドンの画工若き艶妻を持つ。用有りて旅するに予《かね》て妻の心を疑うた故、その腹に一疋の羊を画き己が帰るまで消え失せぬよう注意せよといって出た。一年ほどして夫帰り羊の画を検して大いに驚き、予は角なき羊を画いたのに今この羊に二角生え居る。必定予の留守に不貞を行うたのだと詰《なじ》り懸ると、妻夫に向い短かくとまであって、上述ごとく一度潰し使われた本故、下文が欠けて居る。三十年ほど前読んだ、ラ・フォンテーンに、「荷鞍」と題した詩ありて、確か亭主が妻の身に驢を画いて出で帰り来って改めると、わが画いたのと異《ちが》ってその驢が荷鞍を負い居る。妻は一向気付かずに、何と妾の貞操はその驢が確かな証拠に立つでしょうというと、いかにも大立ちだ、悪魔が騎った証拠に鞍を負うて立つといったと詠みあったと憶える。十六世紀に成った『上達方《ル・モヤン・ド・パーヴニル》』第七章にもほぼ同様の譚を出し、これ婦女に会うと驢に鞍置くと称うる事の元なりと見ゆ。英国の弁護士で、笑談学《ファセチオロジー》の大家たるリー氏先年『百笑談』の類話を纂《あつ》めたのを見ると、この型の話は伊、仏、独、英の諸邦にあれどいずれも十六世紀前に記されず。しかるにそれより三世紀早く既に東洋にあったは、『沙石集』を読んで知れる。その七巻に、遠州池田の庄官の妻甚だ妬む者、磨粉《みがきこ》に塩を合わせ夫に塗り、夫が娼に通うを験証せる由を述べ、次にある男他行に臨み妻に臥したる牛を描きしに、夫還りて改むれば起れる牛なり、怒って妻を詰《なじ》ると、哀れやめたまえ、臥せる牛は一生臥せるかといいければ、さもあらんとて許しつとあって、男の心は女より浅く大様《おおよう》だと論じある。それより五百年ばかり後支那で出来た『笑林広記』に、類話二つを出し、一は蓮花を画き置くと、不在中に痕なく消え失せたり、夫大いに怒ると妻落ち着き払って、汝は不適当な物を画いた、蓮の下の蓮根は食える物ゆえ来る人ごとに掘り取り、蓮根枯れれば花が散るはずでないかとあり。今一つは、夫他行の際、左の番卒を画き置きしに、帰り来れば番卒右にあり、怒って妻を責むれば、永々の留守ゆえ左右の立番を振り替えたのだと弁じたとある。紀州で今も行わるる話には、夫が画いたは勒《くつわ》附きの馬だったが、帰って見るに勒なし、妻を責むると馬も豆食う時勒を去らにゃならぬと遣り込められたという。この型の諸譚、一源より出たか数ヶ処別々に生じたか知らぬが、記録に存する最も古きは日本の物と見る。右は東京の蘭国公使館書記官ステッセル博士の請に任せ、一九一〇年発行『フラーゲン・エン・メデデーリンゲン』へ出した拙稿の大意である。
本邦で馬に関する伝説の最《いと》広く分布しいる一つは白米城《はくまいじょう》の話であろう。『郷土研究』巻四と『日本及日本人』去る春季拡大号へ出した拙文に大概説き置いたから、なるべく重出を省いて約《つづま》やかに述べよう。建武中、飛騨の牛丸摂津守の居城敵兵に水の手を切られ苦しんだ時、白米で馬を洗い水多きように見せて敵を欺き囲《かこい》を解いて去らしめた。また応永二十二年、北畠満雅|阿射賀《あさか》城に拠りしを足利方の大将土岐持益囲んで水の手を留めた節も、満雅計りて白米を馬に掛けて沢山な水で洗うと見せ敵を欺き果《おお》せた。因って右の二城とも白米城と俗称す(『斐太後風土記』十一、『三国地誌』三九)。而《しか》してこの通りの口碑を持つ古城跡が諸国に多くある。土佐の寺石正路君に教えられて『常山紀談』を見ると、柴田勝家居城の水の手を佐々木勢に断たれた時、佐々木平井甚助を城に入れてその容易を観せしめた。平井勝家に会うて手水《ちょうず》を請うに、缸《かめ》に水満ちて小姓二人|舁《かつ》ぎ出し、平井洗手済んで残れる水を小姓庭へ棄てたので平井還って城内水多しと告げ、一同疑惑するところへ勝家撃ち出で勝軍《かちいくさ》したと記す。城守には水が一番大切故、ない水をあるように見せる詐略は大いに研究されたるべくしたがって望遠鏡等なき世には白米で馬洗うて騙された実例も多かったろう。上に挙げた二雑誌の拙文には書かなんだが、『大清一統志《だいしんいっとうし》』九七に、山東省の米山は相伝う斉|桓公《かんこう》ここに土を積んで虚糧《うそのかて》と為《な》し、敵を紿《あざむ》いたとあるを見て似た話と思い居る内、同書三〇六に雲南の尋甸州の西なる米花洗馬山は、往時土人拠り守るを攻めた漢兵が城内水なしと知った。土人すなわち米花《こめのこ》もて馬を洗う。漢兵さては水ありと疑うて敢えて逼《せま》らなんだと書けるを見出し、支那にも白米城の話があると確知し得た。これに似た事は、一夜中に紙を貼《は》り詰めて営の白壁の速成を粧い、敵を驚かす謀計で、秀吉公は、美濃攻めにも小田原陣にもそうした由。しかるに『岐蘇考』に天正十二年山村良勝|妻籠《つまご》に城守りした時、郷民徳川勢に通じて水の手を塞《ふさ》ぎけるに、良勝白米もて馬を洗わせ、一夜中に紙で城壁を貼りて敵を欺いたと見るは一時に妙計二つを用い中《あ》てたのだ。支那でも宋の滕元発《とうげんぱつ》、一夕に席屋二千五百間を立てた話ありて、紙を白壁と見せたに酷似す。真田信仍が天王寺口で歩兵の槍で以て伊達《だて》の騎馬で鉄砲に勝ちたるを未曾有《みぞう》の事と持て囃すが、似た事もあって、南チリへ侵入したスペイン最上の将士を撃退して、二百年間独立を全うしたアウカインジアンは、同じく短兵もて西人の騎馬鉄砲に克《か》ちしを敵も歌に作って称讃した。これら似た話があるから、皆嘘また一つの他は嘘というように説く人もあるが、食い逃げの妙計、娼妓の手管、銀行員の遣《つか》い込みから、勲八の手柄談、何度新紙で読んでも大抵似た事ばかりで、例の多いがかえってその事実たるを証明する。
支那の馬譚で最も名高きは、『淮南子』に出た人間万事かくの通りてふ塞翁《さいおう》の馬物語であろう。これは支那特有と見えて、インドを初め諸他の国々に同似の譚あるを聞かぬ。また前年高木敏雄君から次の話が日本のほかにもありやと尋ねられ、四年間調べたが似たものもないようだから多分本邦特有でがなあろう。天文中書いたてふ『奇異雑談』に出た話で大略は、一婦人従者と旅するに駄賃馬《だちんうま》に乗る。馬の口附《くちつき》来る事遅きを詰《なじ》れば馬に任せて往かれよという故、馬の往くままに進行すると、川の面六、七間なるに大木を両《ふた》つに割って橋とす。その木の本広さ三就ばかり末は至って細し。この橋高さ一丈余、下は岩石多く聳《そび》えて流水深く、徒《かち》で渡るも眩《めま》うべし。馬この橋上を進むこと一間余にして留まる時、従者橋の細きを見て驚き、後《おく》れ来る口附を招きて、馬に任せて行けといったからこの災難が起ったと怒りの余り斬らんとす。他の従者これを留め、この里に住む八十余の翁に就いて謀《はかりごと》を問う。さればとて新しき青草を竿《さお》の先に縛り付け、馬の後足の間より足に触れぬよう前足の間へ挿し入れば、馬知りて草を食《は》む。一口食いて草を後へ二、三寸引き置かば馬もそれだけ後へ踏み戻してまた一口食む。また二、三寸引きて草を置くとまた踏み戻して食む。その草尽くる時その竿を収め、今一つの竿に草を附けてやらばまた踏み戻して食む。幾度もこうしてついに土上に戻る馬の口を取りて引き返し、衆《みな》大いに悦び老人を賞賜したてふ事じゃ。予の現住地田辺町と同郡中ながら、予など二日歩いてわずかに達し得る和深《わぶか》村大字里川辺の里伝に、河童《かしゃんぼ》しばしば馬を岩崖等の上に追い往き、ちょうど右の談のような難儀に逢わせるという。
話変って『付法蔵因縁伝』にいわく、月氏国智臣|摩啅羅《またら》その王|※[#「よんがしら/(厂+(炎+りっとう))」、第4水準2−84−80]昵※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]《けいじった》に、大王臣の教え通りせば四海を統一すべき間、何卒言を密にして臣の謀を洩らさぬようと願い、王承諾した。すなわちその謀を用いて三海皆臣属しければ王馬に乗りて遊び行く路上馬が足を折り挫《くじ》いた。王たちまち智臣の教えを忘れその馬に向い、我三海を征服せるも北海のみいまだ降らず、それを従えたら汝に乗らぬはず、それに先だって足を挫くとは不心得の至りと言った。それが群臣の耳に入ったので、多年兵を動かして人臣辛苦|息《や》まざるにこの上北海を攻むるようではとても続かぬ故王を除くべしと同意し、瘧《おこり》を病むに乗じ蒲団蒸《ふとんむし》にして弑《しい》した。かかる暴君一生に九億人殺した者も、かつて馬鳴《めみょう》菩薩の説法を聴いた縁に依って、大海中千頭の魚となり、不断首を截《き》られるとまた首が生え須臾の間に頸が大海に満つその苦しみ言うべからず。しかるに※[#「牛+建」、第3水準1−87−71]椎《こんつい》の音聞える間は首斬れず苦痛少しく息むと告げたので、寺で木魚を打ち出したポコポコだそうな。誠に口は禍《わざわい》の本《もと》嗜《たしな》んで見ても情なや、もの言わねば腹|
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