馬食事をやめて鞍《くら》に注目するを見て乗り試むるとすなわち急に十里|奔《はし》り、後を見れば収兵至った、かくて難を免れた酬いにその馬に揚武と加号した。東漢の主劉旻、戦敗の節乗って助かった馬を自在将軍と称え、三品の料を食わせ厩を金銀で飾った。その他|哥舒翰《かじょかん》がその馬|赤《せき》将軍の背に朝章《ちょうしょう》を加え、宋|徽宗《きそう》がその馬に竜驤《りゅうじょう》将軍を賜うたなど支那にすこぶる例多いが、本邦にも義経|五位尉《ごいのじょう》に成れた時かつて院より賜わった馬をも五位になす心で太夫黒と呼んだなど似た事だ。欧州にも、アレキサンダー王の愛馬ブケファルスは智勇超群で、平時は王の他の人をも乗せたが、盛装した時は王ならでは乗せず。テーベ攻めにこの馬傷ついたから王が他馬に乗ろうとすると承知せずに載せ続けたというほど故、その死後王これを祀りその墓の周りに町を立てブケファラと名づけた。ギリシアのオリンピヤの競争に捷《か》った三の牝馬は死後廟を立て葬られた。ローマ帝カリグラは愛馬インシタツスを神官とし邸第《ていたく》と僕隷《しもべ》を附け与えた。かかる例あれば梵授王の智馬の話も事実に拠ったものと見える。
さて智馬と同類ながら譚が大層誇大されたのが、仏経にしばしば出る馬宝の話だ。転輪聖王《てんりんじょうおう》世に出でて四天下を統一する時、七つの宝|自《おの》ずから現われその所有となる。七宝とはまず女宝とて、膚《はだえ》艶に辞《ことば》潔く妙相|奇挺《きてい》黒白短なく、肥痩所を得、才色双絶で志性金剛石ほど堅い上に、何でも夫の意の向うままになり、多く男子を産み、種姓劣らず、好んで善人を愛し、夫が余女と娯《たの》しむ時も妬まぬ、この五つの徳あり。また多言せず、邪見せず、夫の不在に心を動かさぬ、三つの大勝あり。さて夫が死ねば同時に死んでしまうそうだから、後家にして他人へかかる美婦を取らるる心配も入らぬ重宝千万の女だ。それから珠宝、輪宝、象宝、馬宝、主兵宝、長者宝という順序だが、女宝の講釈ほどありがたからぬから一々弁ぜず、馬宝だけの説明を為《な》さんに、これは諸経に紺青色の馬というが、『大薩遮尼乾子受記経』にのみ白馬として居る。日に閻浮提《えんぶだい》洲を三度|匝《めぐ》って疲れず王の念《おも》うままになって毎《いつ》もその意に称《かな》うという(『正法念処経』二、『法集経』一)。『修行本起経』に紺馬宝は珠の鬣《たてがみ》を具うとあるもこれだ。紺青色の馬はあり得べからぬようだが、これはもと欧亜諸国に広く行わるる白馬を尊ぶ風から出たらしい。白馬が尊ばるる理由は、多般だがその一を述べると、明の張芹の『備辺録』に、兵部尚書《ひょうぶしょうしょ》斉泰の白馬極めて駿《と》し、靖難《せいなん》の役この馬人の目に立つとて墨を塗って遁げたが、馬の汗で墨が脱《お》ちて露顕し捕われたとある通り、白馬は至って人眼を惹く。したがって軍中白馬を忌む。しかるにまた強いと定評ある輩がこれに乗ると、同じく敵の眼に付きやすくて戦わぬ内に退いてしまう。『英雄記』曰く、〈公孫※[#「王+贊」、第3水準1−88−37]《こうそんさん》辺警を聞くごとに、すなわち色を※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげし》くし気を作して、讎に赴くがごとし、かつて白馬に乗り、また白馬数十匹を揀《えら》び、騎射の士を選ぶ、号《な》づけて白馬義従と為《な》す、以て左右翼と為して、胡《こ》甚だこれを畏る〉。『常山紀談』に、勇士中村新兵衛、平生敵に識れ渡りいた猩々緋《しょうじょうひ》の羽織と唐冠の兜《かぶと》を人に与えて後《のち》戦いに臨み、敵多く殺したが、これまで彼の羽織と兜を見れば戦わずに遁げた敵勢が、中村を認めずこれを殺してしまった。敵を殺すの多きを以て勝つにあらず、威を輝かし気を奪い勢いを撓《たわ》ますの理を暁《さと》るべしと出《い》づ。この理に由って白馬は王者猛将の標識に誂《あつら》え向きの物ゆえ、いやしくも馬ある国には必ず白馬を尊ぶ。
『礼記《らいき》』に春を東郊に迎うるに青馬七疋を用いるの、孟春の月天子蒼竜(青い馬)に乗るなどとあり。わが朝またこれに倣《なろ》うて、正月七日二十一疋の白馬を引かれ、元の世祖は元日に一県ごとに八十一疋の白馬を上《たてまつ》らしめ、その総数十万疋を越えたという。白馬節会《あおうまのせちえ》の白馬を青馬と訓《よ》ますを古く不審《いぶか》しく思うた人少なからぬと見え、平兼盛《たいらのかねもり》が「ふる雪に色もかはらて曳《ひ》くものを、たれ青馬と名《なづ》け初《そめ》けん」と詠んだ。しかるにその雪や白粉も、光線の工合で青く見えるから白を青と混じ呼んだらしい(「白馬節会について」参照)。さて高山雪上に映る物の影は紫に見える故、支那で濃紫色を雪青と名づく(一九〇六年二月二十二日の『ネーチュール』三六〇頁)。光線の工合でインド北方の雪山など紺青色に見えるはしばしば聞くところで、青と等しく紺青色も白と縁薄からねば、白馬の白を一層荘厳にせんとて紺青色の馬を想作したのだろう。タヴェルニェーなどの紀行に見ゆるは、インド人はしばしば象犀や馬を色々彩って壮観とする由。支那で麒麟《きりん》は五彩を具うなどいうもこんな事から起ったらしく、かかる異色の畜類を見てその人為に出るを了《さと》らぬ人々は、必ず紺青色の馬も自然に存在すと信じたであろう。
仏典に載った馬譚を今一つ二つ挙げよう。『大荘厳経論』にいわく、ある国王多く好馬を養う。隣国王来り戦いしがその好馬多きを知り、とても勝てぬと諦め退去した。かの王|惟《おも》えらく、敵国既に退いた上は馬が何の役にも立たぬ、何か別に人の助けになる事をさせにゃならぬと。すなわち勅して諸馬群を分ちて人々に与え、常に磨《うす》挽《ひ》かしめた。その後多年経て隣国また来り侵す。すなわち馬どもを使うて戦わしむるに、馬は久しく磨挽きばかりに慣《な》れいたので、旋《めぐ》り舞い行きあえて前進せず。捶《う》てば打つほどいよいよ廻り歩き、戦争の間に合わなんだと。知れ切った道理を述べた詰まらぬ話のようだが、わが邦近来何かにつけて、こんな遣り方が少ないらしくないから、二千五百年前のイソップに生まれ還った気になり、馬譚を仮りて諷し置く。それからラウズ訳『仏本生譚《ジャータカ》』に、仏前生かつてビナレスの梵授王に輔相たり。王の性貪る。悍馬《かんば》を飼いて大栗と名づく。北国の商人五百馬を伴れ来る。従前馬商来れば輔相これに馬の価を問い答うるままに仕払って買い取るを常例とした。しかるに王この遣り方を悦ばず、他の官人をしてまず馬商に馬価を問わしめ、さて大栗を放ちてその馬を咬ましめ、創《きず》つき弱った跡で価を減ぜしめた。商主困り切って輔相に話すと、輔相問う、汝の国許に大栗ほどの悍馬ありやと。馬商ちょうどその通りの悪馬ありて強齶《あごつよ》と名づくと答う。そんなら次回来る時それを伴れて来いと教えた。その通りに伴れて来たのを窓より見て王大栗を放たしむると、馬商も強齶を放った。堅唾《かたず》を呑んで見て居ると、二馬相逢いて傾蓋《けいがい》旧のごとしという塩梅《あんばい》に至って仲よく、互いに全身を舐《ねぶ》り合った。王怪しんで輔相に尋ねると、同じ性の鳥は群団して飛び、この二馬は一和して住《とど》まる、これ両《ふたつ》ながら荒くて癖が悪く、毎《いつ》も絆《つな》を咬み切る、罪を同じゅうし過ちを斉《ひと》しゅうする者は必ず仲がよいと答え、王を諫《いさ》め商主と協議して適当の馬価を償わしめたとある。これも根っから面白からぬ話だが、これに関して、いささか面黒《おもくろ》い事なきにしもあらず。皆人が知る通り、誰かが『徒然草』の好い注解本を塙《はなわ》検校《けんぎょう》方へ持ち行きこの文は何に拠る、この句は何より出《い》づと、事細かに調べある様子を聞かすと、検校『徒然草』の作者自身はそれほど博く識って書いたでなかろうと笑った由。あたかも欧米に沙翁学《シェキスペリアナ》を事とする人多く、わずか三十七篇の沙翁の戯曲の一字一言をも忽《ゆるが》せにせず、飯を忘れ血を吐くまでその結構や由来を研究してやまず。雁《がん》が飛べば蝦蟆《がま》も飛びたがる。何の事とも分らぬなりに予も久しくこれに関して読み書きしおり、高名の人々から著述を送らるる事もあり。つらつら考うるに、かようの研究を幾ら続けたって三百年前に死んだ人が真実何と考え何に基づき何を欲してこの句かの語を筆したかは知るべからず。知り得るにしてからが何の益なし。だが古今東西情は兄弟なれば、かく博く雑多の事を取り入れて書いた物を、かくまで多くの学者が立ち替り入れ替り研究して出す物どもを読むは、取りも直さず古今東西の人情と世態の同異変遷を研究するに当るらしいので、相変らず遣り続け居る内には多少得るところなきにあらず。既に一昨年末アッケルマンてふ学者が『ロメオとジュリエ』の「一の火は他の火を滅す」なる語は、英国に火傷《やけど》した指を火を近づけて火毒を吸い出さしむる民俗あり、蝮に咬まれた処へその蝮の肉を傅《つ》けて治すような同感療法《ホメオパチー》じゃ。また「日は火を消す」てふ諺もある。沙翁はこれらに基づいて件《くだん》の語を捻《ひね》り出したものだろう。このほかにしかるべき本拠らしいものあらば告げられよと同好の士に広く問うたが、対《こた》うる者はなかったから予が答えたは、まず日月出でて※[#「火+(嚼−口)」、326−10]火《しゃっか》息《や》まずと支那でいうのが西洋の「日は火を消す」と全《まる》反対《あべこべ》で面白い。さて『桂林漫録』に日本武尊《やまとたけるのみこと》駿河の国で向火《むかいび》著けて夷《えびす》を滅ぼしたまいし事を記して、『花鳥余情』に火の付きたるに此方《こなた》よりまた火を付ければ向いの火は必ず消ゆるを向火という。そのごとく此方より腹を立て掛かれば人の腹は立ちやむものなりとあるを引き居る。今も熊野で山火事にわざと火を放って火を防ぐ法がある。予は沙翁がこれら日本の故事を聞き知ってかの語を作ったと思わぬが、同様の考案が万里を距《へだ》てた人の脳裏に各《おのお》の浮かみ出た証拠に聢《しか》と立つであろうと。かく言い送って後考うると、仏説の悍馬は悍馬を鎮めた話もやや似て居るを一緒に言いやらなんだが遺憾だ。
英語で蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]《とんぼ》を竜蠅《りょうばえ》(ドラゴン・フライ)と呼び、地方によりこの虫馬を螫《さ》すと信じてホールス・スチンガール(馬を螫すもの)と唱う。そは虻や蠅を吃《く》いに馬厩《うまや》に近づくを見て謬《あやま》り言うのだろう。さて竜蠅とは何の意味の名かしばしば学者連へ問い合せたが答えられず。『説郛』三一にある『戊辰雑抄』に、昔大竜大湖の※[#「さんずい+眉」、第3水準1−86−89]《ほとり》に蛻《かわぬ》ぎ、その鱗甲より虫出で頃刻《しばらく》して蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]の朱《あか》きに化《な》る、人これを取れば瘧《おこり》を病む、それより朱蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]を竜甲とも竜孫ともいい敢《あ》えて傷《そこな》わずと載せたを見て、支那でもこの物を竜に縁ありとするだけは解り、その形体|威《いか》めしくやや竜に似て居るから竜より生じたという事と想いいた。その後一九一五年版ガスターの『羅馬尼《ルーマニア》鳥獣譚』十四章を覧《み》るとこうあった。いわく、ルーマニア人は蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]を魔の馬という、また多分竜の馬ともいうであろう、一名|聖《セント》ジョージの馬ともいいこの菩薩は毒竜退治で名高い、この名の起りを尋ぬるに、往古上帝常に魔と争うたが、上帝は平和好き故出来るだけ魔を寛宥してその乞うままに物を与えた、しかるに魔|悛《あらた》めず物を乞い続けてやまず、上帝耐え兼ねて天人多く集め各々好馬を与えある朝早くこれに騎《の》りて魔と戦わしめた。聖ジョージは無類の美馬に乗って先陣したが、急にその馬退却し出し、他の諸馬これ
前へ
次へ
全22ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング