十二支考
馬に関する民俗と伝説
南方熊楠

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)隙《ひま》行く駒《こま》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)初唄|唱《うた》う芸妓や、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「敬/手」、第3水準1−84−92]《ささ》げ

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)あなめ/\と
−−

     伝説一

 隙《ひま》行く駒《こま》の足早くて午《うま》の歳を迎うる今日明日となった。誠や十二支に配られた動物輩いずれ優劣あるべきでないが、附き添うた伝説の多寡に著しい逕庭《ちがい》あり。たとえば羊は今まで日本に多からぬもの故和製の羊譚はほとんど聞かず。猴《さる》の話は東洋に少なからねど、欧州に産せぬから彼方の古伝が乏しい。これに反し馬はアジアと欧州の原産、その弟ともいうべき驢はアフリカが本元で、それから世界中大抵の処へ弘まったに因って、その話は算うるに勝《た》えぬほどあるが、馬を題に作った初唄|唱《うた》う芸妓や、春駒を舞わせて来る物貰《ものもら》い同然、全国新聞雑誌の新年号が馬の話で読者を飽かすはず故、あり触れた和漢の故事を述べてまたその話かと言わるるを虞《おそ》れ、唐訳の律蔵より尤《いと》も目出たい智馬《ちば》の譚を約説して祝辞に代え、それから意馬《いば》の奔《はし》るに任せ、意《おも》い付き次第に雑言するとしよう。智馬の譚は現存パーリ文の『仏本生譚《ジャータカ》』にも見えるが、唐訳律中のほど面白からぬようだ。
『根本説一切有部毘奈耶』にいわく、昔北方の販馬商客《うまうり》五百馬を駆って中天竺へ往く途上、一の牝馬が智馬の種を姙《はら》んだ。その日より他馬皆鳴かぬから病み付いた事と思いおった。さていよいよ駒を生んでより馬ども耳を垂れて嚏《くさめ》噫《おくび》にも声せず、商主かの牝馬飛んだものを生んでわが群馬を煩わすと悪《にく》む事大方ならず、毎《いつ》もこれに乗り好《よ》き食物を与えず。南に行きて中国境の一村に至ると夏雨の時節となった。雨を冒して旅すれば馬を害すればとて、その間滞留する内、村の人々各の手作りの奇物を彼に贈ったので、雨候過ぎて出立しようという時見送りに来た村人に、前日くれた品に応じてそれぞれ物を与えた。これは熊楠も旅行中しばしば経験ある事で、入りもせぬ物を多く持ち来てくれるは至って親切なようだが、その実盗人の昼寝で宛込《あてこみ》があるので、誠に返礼の心配が尋常でない。ところがその村に瓦師あり、先に瓦器《かわらけ》を商主に贈った。今彼去らんとすと聞き、その婦これに告《い》いて、君も見送りに往って礼物を貰うがよい、上げたのはわずかの物だが先方は憶え居るだろといった。瓦師そこで泥を円めて吉祥印を作り、持ち行きて商主に訣《わか》れると、何故|遅《おそ》く来たか、荷物は皆|去《い》ってしまった、気は心というから、何か上げたいものと考えた末、かの新たに生まれた駒こそ災難の本なれ、これがよいと気付きこれでも将《も》ち去《い》かんかと問うた。瓦師どう仕《つかまつ》りまして、それを私方へ将《つ》れ往《ゆ》いたら瓦器が残らず踏み砕かれましょうと辞《いな》む。爾時《そのとき》かの駒|跪《ひざまず》いて瓦師の双足を舐《ねぶ》ったので可愛くなり受け取って牽《ひ》き帰ると、自分の商売に敵するものを貰うて来たとてその妻小言を吐く事|夥《おびただ》し。それを聞いて駒また妻の双足を舐り跪くと妻も可愛く思う。駒は起《た》ちてあるいは固まりあるいはいまだ固まらぬ諸多の瓦器の間を行き旋《めぐ》るに一つも損ぜず。珍しく気の付いた駒と妻が感じ居る。この時瓦師土を取りに出ると駒随い行き、その土を袋に満ててしまうを見て背を低くす。袋を載せると負うて宅へ還《かえ》る。因ってこれを留め糠《ぬか》に胡麻滓《ごまかす》を和《ま》ぜて飼い置いた。
 その頃|婆羅尼斯《はらにし》の梵授王一の智馬を有したので他国|賓服《ひんぷく》した。しかるにその馬死んだと聞き他国より使来り、王今我国へ税を払え、払わずば城より外出を許さぬ、外出したら縛って将《つ》れ行くという。王聞きて税を払わず外出せなんだ。時に販馬商人北方より馬多く伴《つ》れ来た。王大臣に告《い》うたは、我智馬の力に由って勝ち来ったに、馬死んでより他に侮られ外出さえ出来ぬ、何所《どこ》かに智馬がないか捜して来いと。大臣|相馬人《うまみ》を伴れ、捜せど見当らず。かれこれする内かの牝馬を見て、相馬人これこそ智馬を生んだはずだといった。大臣馬主に問うて、その牝馬が産んだ駒は瓦師方にありと知り、人を使して車牛と換えんというも応ぜず、使は空《むな》しく還る。智馬は畜類だが知識人に過ぎ、能く臨機応変しまた人と語る。今使去るを見て瓦師に告《い》えらく、我を終身こんな貧家に留め、糠滓を食わせ、土を負わすべからず、わが本分は灌頂位《かんじょうい》を受けて百枚の金蓋《きんがい》その身を覆《おお》う刹利《せつり》大王をこそ負うべけれ、我食時には、雕物《ほりもの》した盆に蜜と粳米《うるしね》を和《ま》ぜて入れたのを食うべきだ、明日また使が来たらこう言いなさい、瓦師は物を識《し》らぬと侮って、智馬と知りながら知らぬ真似《まね》して凡馬の値で買うとは黠《ずる》い、誠《まこと》欲しいなら一億金出すか、僕の右足で牽き来り得る限り袋に金を入れてくれるかと言うべしと教えた。翌日大臣相馬人を伴れて掛合《かけあい》に来ると、瓦師馬の教えのままに答えたから評定すると、諸臣一同この瓦師は大力あるらしいから足で牽かせたら莫大《ばくだい》の金を取るだろう、いっそ一億金と定めるがよいと決議し王に白《もう》し、王それだけの金を遣わして馬を得、厩《うまや》に入れて麦と草を与えると食わず。王さては病馬かと言うと、掌馬人《うまかい》かの馬決して病まずと答え、厩へ往きて馬に対《むか》い、汝は瓦師方にありて碌に食料をくれず骨と皮ばかりに痩《や》せて困苦労働したるに、今国王第一の御馬に昇進しながら何を憂えて物を食わぬかと問うた。馬答うらく、我足|迅《はや》く心|驍勇《ぎょうゆう》で衆人に超《こ》えた智策あるは汝能く知る、しかるに愚人ら古法通りに我を待遇せぬ故活きいるつもりでないと。掌馬人これを聞いて王に勧め、古法通り智馬を遇せしめた。その法式は王城より三駅の間の道路を平らに治め、幡《はた》と蓋《かさ》で美々しく飾り、王|親《みずか》ら四種の兵隊を随えて智馬を迎え、赤銅の板を地に畳み上げて安置し、太子自ら千枝の金の蓋を※[#「敬/手」、第3水準1−84−92]《ささ》げその上を覆い、王の長女金と宝玉で飾った払子《ほっす》で蚊や蠅を追い去り、国大夫人蜜を米に塗り金盤に盛り自ら※[#「敬/手」、第3水準1−84−92]げ持ちて食わせ、第一の大臣は一番貧乏|鬮《くじ》で親ら金の箕《み》を執りて智馬の糞を受けるのだ。王それでは馬を王以上に崇《あが》めるので大いにわが威を堕《おと》すと惟《おも》うたが、智馬が自分方におらぬとさっぱり自分の威がなくなるから詮方《せんかた》なく、なるほどこれまでの致し方は重々悪かった、過ぎた事は何ともならぬ、これから古法通りにしましょうと詫《わ》び入りて、厩に赤銅板を布《し》き太子に蓋、王の長女に払子、大夫人に食物を奉ぜしめると、大臣も不承不承慎んで馬の糞を金箕で承《う》ける役を勤めたとあらば、定めて垂れ流しでもあるまじく、蜀江《しょっこう》の錦ででも拭《ぬぐ》うたであろう。かく尊ばれて智馬満足し始めて食事した。
 さて王が苑に遊ぼうと思い智馬を召すと、すなわち背を偃《ひく》くす。王これは背に病があるのかと問うに、御者答えて王の乗りやすいように背を偃くし居るという。王それに乗って河辺に至れば馬進まず。水を怖るるのかと問うに、尾が水を払うて王に懸るを恐ると答えた。即《やが》てその尾を結び金嚢《きんのう》に盛り、水を渉《わた》って苑に至り遊ぶ事多日。予《かね》てこの王を侮り外出したら縛りに往くと言い来った四遠の諸国、王が城を出で苑に住《とど》まると聞き大兵を興し捉えに来る。王城へ還らんとする中途に、蓮花咲き満ちた大池ありて廻り遠い。しかるを智馬身軽く蓮花を踏んで真直ぐにそろそろ行きながら早く城に入り得たので敵は逃げ散ってしまった。王大いに喜び諸臣に告《い》えらく、もし能く灌頂刹帝大王の命を救う者あらば何を酬《むく》うべきやと。諸臣さようの者には半国を与うべしと白《もう》す。ところが畜生に、国を遣っても仕方がないから智馬を施主として大いに施行し、七日の間人民どもの欲しい物を好みの任《まま》に与うべしと勅諚《ちょくじょう》で無遮《むしゃ》大会《だいえ》を催した。販馬商主これを見て、何の訳で大会を作《な》すやと問う。諸人答えて曰く、爾々《しかじか》の地である人が一の駒を瓦師に遣った、それが希代の智馬と知れて王一億金もて瓦師より買い取ると、今度果して王の命を活かし、その謝恩のための大会じゃと。商主聞きおわって、どうやら自分が瓦師に遣った駒の事らしく思い、王の厩へ往きて見れば果してしかり。智馬商主に向い、貴公が遥々《はるばる》将《つ》れて来た馬五百疋がいかほどに売れたか、我は一身を一億金に売って瓦師に報じたという。さては大変な馬成金に成り損《そこ》なったと落胆の余り気絶する。その面へ水を灑《そそ》いでやっと蘇《よみがえ》り、何と悔いても跡の祭と諦め、これというもわれ尊公を智馬と知らず悪《にく》み虐げた報いですと、馬の足を捧げ申謝して去った。その商主は侍縛迦《じばか》太子、智馬は周利槃特《すりばんたか》の前身だったから、現世にもこの太子が周利槃特を侮り後《のち》懺謝するのだと、仏が説かれたそうじゃ。
 梵授王が智馬を有する間は隣国皆服従し、智馬死すると聞いてたちまち叛《そむ》き去ったとは信《うけ》られがたいようだが、前達《せんだっ》て『太陽』へ出した「戦争に使われた動物」てふ[#「てふ」に「〔という〕」の注記]拙文中にも説いた通り、昔は何地《いずく》の人も迷信重畳しおり、したがって戦術軍略の多分は敵味方の迷信の利用法で占められ、祥瑞の卜占のという事兵書筆を絶えず。されば何がな非凡異常の物を伴れ行かば敵に勝つを得たので、近時とても那翁《ナポレオン》三世が鷲《わし》を馴らして将士の心を攬《と》ったり、米国南北戦争の際ウィスコンシンの第八聯隊が鷲を伴れ往きて奮闘し、勝利事果てその鷲をその州賓として養い、フィラデルフィアの建国百年祝賀大博覧会へも出して誇り、長命で終った遺体を保存して今も一種の敬意を表し居る。まして馬には時として人に優った特性あるのもあれば、弱腰な将士の百千人にずっと勝《すぐ》れた軍功を建つるもあり。それに昔は人|毎《つね》に必ず畜生に勝《まさ》るてふ法権上の理解もなかった(ラカッサニュの『動物罪過論《ド・ラ・クリミナリテー・シェー・レー・ザニモー》』三五頁)。したがって人間勝りの殊勲ある馬を人以上に好遇し、甚だしきは敵味方ともこれを神と視《み》て、恐れ崇めたのだ。
 馬に人勝りの特性ある事は後文に述べるとして、ここには少々馬を凡人以上に尊重した例を挙げんに、宋の姚興その馬を青獅子と名づけ、時に同飲してわれ汝と同力報国せんと語る。後《のち》金兵来寇するに及び、所部四百騎もて十余戦せるも、大将王権はまず遁《のが》れ、武将|戴皐《たいこう》は来り援《すく》わず、興ついに馬とともに討死《うちじに》せるを朝廷憫んで廟を建てた。それへ絶句を題する者あり、いわく、〈赤心国に許すは平時よりす、敵を見て躯を捐《す》ててさらに疑わず、権は忌み皐は庸にして皆遁走し、同時に難に死すは只青獅のみ〉と。いかにも感慨無量で折角飲んだ酒も醒《さ》めて来るが、暫くするとまた飲みたくなりゃこそ酒屋が渡世が出来る理窟故ますます感心する。晋の司馬休、敵に殺さるべきを一向気付かず、その
次へ
全22ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング