七一)。仏典に名高い得叉尸羅《たくしゃしら》城の青蓮尼、十七世紀に久しく艶名を馳《は》せた、仏国のニノン・ド・ランクローなど、似た事だが話が頗長《すこなが》と来るから惜しい物だがやめて置く。
十七世紀末の雑誌『アセニアン・マーキュリー』は、予が年久しく寄稿する『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』の前身といえる。ある人それへ投書して、馬飼いは馬の良種を選み、種々注意して思うままにこれを改良す、何と人間もその通り改良の出来ぬものだろうかと問うた。それに対した答文の大要は、かかる遣り方は天賦の自由を奪い、体躯の完成のみこれ望んで、精神の勇猛と貴さを失うを顧みぬものじゃという事だった。これを見ると人種改良の善胎学のという事今日に始まったのでなく、古来人間が馬の改良に鋭意したを見聞するほどのものは、必ず多少人間も改良は成りそうなものと気付いたはずだ。
さて西暦八五一年(唐宣宗大中五年)アラビヤ人筆、『印度および支那航記』(レノー仏訳、一二〇頁)支那の習俗大いにアラビヤと異なるを録していわく、支那人同姓と婚せず、いわく他姓と婚すれば生まるる子双親に優ると。かかる説は古く既に『左伝』にあったと記憶す。かく同姓婚を忌んだ余勢は、延《ひ》いて大いに、神鬼霊怪の物が婦女に孕ませた子は、非凡の器となるてふ考えを助勢し、それまた余勢で馬までも霊物と交われば、最良種を生ずると想像するに及んだらしい。『大唐西域記』一に、〈屈支国東境城北天祠の前に大竜池あり、諸竜形を易《か》え牝馬と交合し、ついに竜駒を生む、※[#「りっしんべん+龍」、383−2]※[#「りっしんべん+(「戸」の正字/犬)」、383−2]にして馭し難く、竜駒の子はじめてすなわち駕に馴る、この国多く善馬出る所以なり、諸先志に聞きて曰く、近き代に王あり号《な》づけて金花という、政教明察、竜馭乗に感ず、王|終《つい》に没せんとするに、鞭その耳に触れ、因ってすなわち潜隠し、以て今に至る、城中井なし、池水を取り汲むに、竜変じて人と為る、諸婦と会して子を生む、驍勇走りて奔馬に及ぶ、かくのごとく漸く染《なず》む、人皆竜種云々〉。アラビヤの旧伝に、インドの大王人を海島に遣わし、王の牝馬を継《つな》ぎ置かしむると、海より牡馬出てこれと交わり、終ってこれを殺さんとす。その時王の使|喚《おめ》いて彼を海へ追い込み、牝馬を伴れ帰って介抱すれば、海馬生まると(一八一四年版ラングレー仏訳『シンドバード航海記』一二頁)。『水経注』に※[#「さんずい+眞」、第3水準1−87−1]池《てんち》中神馬あり、家馬これと交われば、日に五百里行く駿駒を生むと。『大清一統志』に、江南金竜池、深さ測られず、唐初その中から一馬出で、朝は郊坡《つつみ》を奔り騰《のぼ》り、夜は池中へ入る、尉遅敬徳これを捕えたと(巻八十)。三五〇巻に、
〈『魏書《ぎしょ》』いわく、青海周囲千余里、海内小山あり、毎冬氷合の後、良牧馬を以てこの山に置き、来春に至りこれを収む、馬皆孕むあり、生まるるところの駒、名号竜種と為す、必ず駿異多し、吐谷渾かつて波斯《ペルシヤ》馬を得、放ちて海に入れ、因って※[#「馬+聰のつくり」、第4水準2−93−3]駒を生み、能く日に千里を行く、世に伝う青海※[#「馬+聰のつくり」、第4水準2−93−3]はこれなり〉、『隋書』煬帝《ようだい》紀、〈大業五年、馬牧を青海渚中に置き、以て竜種を求め、効なくしてやむ〉。五九巻に、〈陝西《せんせい》竜泉、相伝う毎春夜牝馬を放ち、この泉水を飲ましめ自ずから能く懐孕《かいよう》す、駒生まれて毛なく、起つ能わず、氈を以てこれを裹《つつ》めば数日内に毛生ず、三歳に至らざるに、大宛馬《だいえんば》とほぼ同じ〉。また三二二巻に、広西の竜馬|窩《か》旧伝に、烟霧中怪しき物ありて、馬を逐《お》い走る事飛ぶがごとし、後駒を生むに善く走ると。
これらをすべて攷《かんが》うると、最初牧馬と野馬と判然分立せざる時、もしくは牧馬がしばしば逃れて野生に復《かえ》った時、湖中の島や遠く水を隔たった地などに自活しいたが、時に水を渡って牧馬に通い、生まるるところの駒が著しく良かったのを、海※[#「馬+聰のつくり」、第4水準2−93−3]、海馬、竜駒などいったのだろう。野馬は人を厭う故に容易に人に見られず。形を見せぬ物が牧馬を孕ます故、竜てふ霊怪な物の子としたので、竜の居そうな所に野馬が棲んだのだ。古く八尺以上の馬を竜と呼んだも、かようの辺《あたり》から起ったらしい。熊野で、他所と懸絶した地点の小家の牝猫が、近所に一疋も牡なきに孕むを、これは交会の結果でなく、箒《ほうき》で撫《な》でれば牡なしに子を儲《もう》けるなど信じいる人を見た。実は人に取ってこそ他所と懸絶なれ、偶を求む牝猫は其式《それしき》の崖や渓を何《にゃん》とも思わず一心に走り廻って、牡猫の情を受け返るを、知らぬは亭主ばかりなりで、猫を木の股から生まるるごとく想いいたのだ。そのごとく、馬が交会せずに孕み生むを見て、始めは人に見えぬよう竜と交わると信じたが、追々は竜の精を含める水さえ呑《の》めば孕むと想い、甚だしきは女護島《にょごがしま》の伝説同様、ある馬は風に孕まさるといった。
プリニウスいわく、ルシタニア(ポルトガル)のオリシポ城(今のリスボン)近所の牝馬、西風吹く時西に向えば孕み、生むところの駒は、極めて疾《と》く走れど三歳以上活きず。その隣邦ガリシアとアスツア(今スペインの内)には、チェルドネなる馬種あり、他の諸馬に異なりて、同じ側の二脚を揃えて動かし、やすやすと歩む。世に四を履《ふ》むてふ馬の歩きぶりは、これに倣うて教え込んだのだと。熊楠いわく、駱駝、駝羊《ラマ》、豹駝《ジラフ》、獅子は、同じ側の二脚を同時に進めるが、その他の諸獣いずれも前後左右の脚、交互前後して行く。人も走りまた歩む時手を振るに、右手と左足と遠ざかる時、左手と右足と近づき、右手左足近づく時、左手と右足と遠ざかる。馬またこの通りなるに、生まれ付いて駱駝流に行《ある》く馬があったとは眉唾物《まゆつばもの》だろう。しかし教えさえすればさように歩かしむるを得。シリア人は、ラファン体に歩く馬を賞美し、右の前足と右の後足と、而《しか》して左の前足と左の後足を相《あい》繋《つな》いで、稽古せしむ。もっともその技に長ぜる馬は、いかほど姿醜く素情悪くともすこぶる高値に売れる。人を騎せてこの風の足蹈みで疾走するに、その手に持てる盃中の水こぼれず。ダマスクスを出でて八、九時間でベイルートに著《つ》く。この距離七十二マイル、その間数千フィートの峻坂を二度上下せにゃならぬとは、驚き入るのほかなし。
『甲陽軍鑑』一六に、馬に薬を与うるに、上戸《じょうご》の馬には酒、下戸《げこ》の馬には水で飼うべし、馬の上戸は旋毛《つむじ》下り、下戸は旋毛上るとあり。馬すら酒好きながある。人を以てこれに如《し》かざるべけんやだ。プリニウスいわく、騾が人を※[#「足へん+易」、第4水準2−89−38]《け》るを止めんとならばしばしば酒を飲ませよと。誠に妙法で、騾よりも吾輩《われら》にもっともよく利く。かつてアイルランド人に聞いたは、かの国で最も強く臭う烟草《タバコ》の烟《けむり》を、驢の鼻へ吹き込むと、眼を細うし気が遠くなった顔付して、静まりおり、極めて好物らしいと。バスク人の俗信に、驢を撲《う》ち倒しその耳に口を接して大いに叫び、その声終らぬうち大きな石でその耳を塞《ふさ》ぐと、驢深く催眠術に掛かったごとく一時ばかり熟睡して動かずと。
心理
性質の項に書いた秦王が燕の太子丹に烏の頭が白くなり馬に角が生えたら帰国を許そうと言う話に似たのが西暦紀元前三世紀頃ユダヤ人ベン・シラが輯《あつ》めたちゅう動物譚中に出《い》づ、いわく上帝万物を創造し終ると驢が馬と騾に向い、他の動物皆休み時あるに、われらのみこれなく不断働かにゃならぬとは不公平極まる、因って多少の休み時を賜えと祷《いの》ろうと言って祷ったが上帝許さず。汝の尿が水力機を動かすほどの川となり汝の糞が馥郁《ふくいく》と芳香を発する時節が来たら汝始めて休み得べしと言った。爾来驢|毎《つね》に他の驢の尿した上へ自分の尿を垂れ加え糞するごとに必ずこれを嗅《か》ぐと。かつて一八〇四年ミナルノ版『伊太利古文学全集《クラスシチ・イタリヤ》』に収めある十五、六世紀の物に、人が大便したら必ずそれを顧み視るは何故ぞてふ論あるを読んだが書名も委細も記憶せぬ。古今東西人|毎《つね》にかかる癖ありや否やを知らねど、牛が道中で他の牛の小便に逢わば必ず嗅いで後鼻息吹き、猫犬が自分の糞尿を尋ねて垂れ加え、また諺に紀州人の伴《つれ》小便などもいわば天禀《てんぴん》人にも獣畜類似の癖あるのが本当か。就《つ》いて想い出すはベロアル・ド・ヴェルヴィルの『上達方《ル・モヤン・ド・パーヴニル》』三十九章にアルサスのある地の婦女威儀を重んずる余り七日に一度しか小便せず、火曜日の朝ごとに各の身分に応じ隊伍を編み泉水に赴《おもむ》き各その定めの場について夥しく快げにかつ徐《しず》かにその膀胱《ぼうこう》を空《あ》くる。その尿|聚《あつま》って末ついに川をなし流れ絶えず、英独フランドル諸国人その水を汲み去り最優等の麦酒《ビール》を作るを、妻どもこれは小便を飲む理屈だとて嫌うとある。随分思い切った法螺《ほら》話のようだが、わが邦でも昔摂津で美酒出来る処の川上に賤民牛馬皮を剥《は》ぎ曝《さら》すを忌んで停止せしむると翌年より酒が悪くなったといい、紀州有田川の源流へ高野《こうや》の坊主輩が便利する、由ってこの川の年魚《あゆ》が特に肥え美味だなど伝うると等しく多少拠る所があったものか。
ついでに伝説へ書き遺した二、三項を述べよう。馬で海を渡した例は源|頼信《よりのぶ》佐々木|盛綱《もりつな》明智光春(これは湖水)など日本で高名だが支那にもあるかしらん。欧州では古英国のサー・ベヴィス・オヴ・ハムプタウンがダマスクスの土牢を破り逃ぐる時追い懸くるサラセン軍の猛将グラウンデールを殺し、その乗馬トランシュフィスを奪い、騎って海を渡り一の城に至り食を求むると城将与えず、大立廻りをするうち件《くだん》の名馬城将に殺されベヴィスまた城将を殺し、その妻が持ち出す膳をその妻に毒味せしめて後|鱈腹《たらふく》吃《く》うて去ったという。十二世紀にスペインのユダヤ人アルフォンススが書いた『教訓編』に騾が驢を父とするを恥じ隠し外祖父《ははかたのちち》が壮馬たるに誇ると載す。昨今日本に多い不義にして富みかつ貴き輩の子が父の事を語るを慙《は》ずるのあまり、その母は大名の落胤公家の余※[#「薛/子」、第3水準1−47−55]《よげつ》だったなど系図に誇るも似た事だ。しかしそんな者の母は多くは泥水|稼《かせ》ぎを経た女故、騾の母たる牝馬が絶えて売笑した事なきに雲泥劣る。十三世紀の末イタリアで出た『百昔話《ツェント・ノヴェレ・アンチケ》』九一に騾が狼に自分の名は後足の蹄に書かれいるというと、狼それを読まんとする際その額を強く※[#「足へん+易」、第4水準2−89−38]《け》ってこれを殺し、傍観しいた狐がこの通り人も字を知らば賢くないと言うとある。〈人生字を識るこれ憂苦の初め〉だ。さて字よりも一層憂苦の初めなのが色で、ベン・シラも女は罪業の初めで女故人間皆死ぬと述べた。沖縄首里の人末吉安恭君二月号に載せた予の不毛婦女に関する説を読んで来示に、かの辺りで不毛をナンドルー(滑らか)と俗称し、少し洒落《しゃれ》ては那覇墓《なはばか》と唱う、琉球の墓は女根に象《かたど》る、普通その上と周縁に松やうず樹|芒《すすき》等を栽《う》え茂らす、しかるに那覇近所の墓に限り多くは樹芒少なく不毛故の名らしい。墓を陰相に象るは本に還るを意味するならんとあった。これなかなかの卓見で仏教にも〈時に舎衛国に、比丘と比丘尼母子あり、夏安居《げあんご》、母子しばしば相《あい》見《み》る、既にしばしば相見て、ともに欲心生じ、母児に語りていわく、汝ただここを出で、今またこ
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