こに入るのみ、犯すなきを得べし、児すなわち母の言のごとくし、彼を疑う、仏|言《のたま》わく波羅夷〉と出で(『四分律』五五)、誠に一休和尚が詠んだ通り一切衆生迷途の所、十方諸仏出身門だ。一九一四年八月英国皇立人類学会発行の『マン』にベスト氏いわく、ニュージーランド原住民マオリ人は女根に破壊力ありとし古くこれを不幸の住所と呼び禍難の標識とした、女神ヒネ、ヌイ、テポ冥界を宰《つかさど》り死人の魂を治む、勇士マウィ人類のために不死を求めんとて陰道(タホイト)より女神の体内に入らんとして殺されたと伝う、産門を死の家と名づく、人これに依って世に出れば労苦病死と定まりいるからだ、あるいはいわく女根は人類の破壊者だと、ヒンズー教にカリ女神を女性力すなわち破壊力の表識としこの力常に眠れど瞬間だも激すればたちまち劇しく起きて万物を壊《やぶ》りおわるとするを会わせ攷《かんが》うべしと。氏はこの信念の根本を甚だ不明瞭と述べたが熊楠はさまで難解と思わぬ。和合|究竟《くきょう》に達してはいかに猛勢の対手《あいて》もたちまち萎縮するより女根に大破殺力ありとしたので、惟《おも》うに琉球の墓も本に還るてふ意味と兼ねて死を標すために女根に象ったであろう。すべて生物学上から見ても心理学上から見ても生殖の業およびこれに偕《ともな》う感触がすこぶる死に近い。伊藤仁斎は死は生の極と説いたと聞くが、それより後に出た『相島《あいしま》流神相秘鑑』てふ人相学の書に交接は死の先駈《さきがけ》人間気力これより衰え始む、故にその時悲歎の相貌を呈すというように説きあったは幾分の理あり。『日本紀』一に伊弉冊尊《いざなみのみこと》火神を生む時|灼《や》かれて崩《みまか》りましぬ、紀伊国熊野の有馬村に葬る。『古事記』には火之迦具土神《ひのかぐつちのかみ》を生ますに御陰《みほと》炙《や》かれて崩りましぬ。尊を葬ったてふ花の窟または般若の窟土俗オ○コ岩と称う。高さ二十七間てふ巌《いわ》に陰相の窟を具う。先年その辺の人々『古事記』にこの尊を出雲|伯耆《ほうき》の堺|比婆之山《ひばのやま》に葬ったとあるは誤りで、論より証拠炙かれた局部が化石して現存すれば誰が何と言っても有馬村のが真の御陵だ、その筋へ運動して官幣大社にして見せるといきり切っていたがどうなったか知らぬが、この古伝に由ってわが上古また女陰と死の間に密接せる関係ありてふ想像が行われたと判るが学問上の一徳じゃ。末広一雄君の『人生百不思議』に日本人は西洋人と変り神を濫造し黜陟《ちゅっちょく》変更するといった。現に芸者や娘に私生児を生ませ母子ともピンピン跳ねているに父は神と祠《まつ》られいるなど欧米人は桜よりも都踊りよりも奇観とするところだ。それに森林を伐り尽くし名嶽を丸禿《まるはげ》にして積立また贈遣する金額を標準として神社を昇格させたり、生前さしたる偉勲も著われざりし人がなった新米の神を別格に上げたりするは、自分の嗜好《しこう》を満足せんため国法を破って外人に地図や禁制品を贈った者に贈位を請うのと似たり張ったりの弊事だが、いかに金銭本位の世とはいえ神までも金次第で出世するとは取りも直さず神なき世となったのだ。ジョン・ダンロプ中世末のイタリアの稗官《はいかん》どもが争うて残酷極まる殺人を描くに力《つと》め、姦夫の男根を姦婦の頸に繋いだとか、羮《しる》にして飲ませたとか書き立てたるを評して残酷も極まり過ぎるとかえって可笑《おか》しくなるといった。予もまたかかる畸形の岩を万一いわゆる基本財産次第で大社と斎《いつ》く事もあらば尊崇の精神を失い神霊を侮辱する訳になると惟う。
 前に言った末吉氏は純粋の琉球人、篤学の士、予氏より未聞を聞く事多い。不毛の事につき氏に教えられて『松屋筆記』を見るに「ひたたけ並びにかわらけ声、無毛をかわらけという、ひたたけという詞《ことば》『源氏』のほか物に多く見ゆ、いずれも混雑したる体なり云々、されば混渾沌※[#「風にょう+良」、391−3]《こんこんとんりょう》などの字を訓《よ》めり、『体源抄』十巻練習事条に少《ちいさ》御前が歌はカワラケ音にて非愛にヒタタケて誠の悪音なり、しかも毎調に愛敬《あいきょう》ありてめでたく聞えしは本性の心賢き上によく力の入るが致すところなり云々、このかわらけ声というも瓦器のごとくつやも気色もなきにいうなり、男女の陰の毛なきをカワラケという、はた同じ心なり」とあり。氏いわく「さすれば先生(熊楠)が足利時代よりかく唱えしとかといわれしも怪しきにあらず、わが琉球語には乾くをカワラクという、瓦器をカワラケと訓むもカワラク器の意か、人の不毛を乾燥せる土地に譬《たと》え得る故、カワラケは乾く意に出でしとすべし、阿婆良気《あばらけ》や島は七島の毛無島も湿潤の気なきより起れる名ともいうべくや」とカワラケだらけの来書だった。しかし内宮神事の唄の意は、阿婆良気は七島よりなるといえど側なる毛無島を合算すると八島となるというらしく毛無と阿婆良気は別だ。孔子もわれ老圃《ろうほ》に如《し》かずといった。とかくこんな事は女に質《ただ》すに限ると惟うて例の古畠のお富を問うとその判断が格別だ。この女史いな仲居の説に、予が阿婆良気はアバラヤ(亭)同様|荒《あれ》寥《すさ》んだ義で毛無と近くほとんど相通じたらしく、かくて不毛をアバラケ、それよりカワラケと転じ呼んだだろうと述べたはこの二島の名を混合した誤解で、毛無すなわち不毛、アバラケはマバラケで疎らに少しくあるの義で全く毛無と一つにならぬ。そのアバラケを今日カワラケと訛《なま》ったので、おまはんも二月号に旧伝に絶えてなきを饅頭と名づく、これかえって太《ひど》く凶ならず、わずかにあるをカワラケと呼び極めて不吉とすと書いたやおまへんかと遣り込められて廓然大悟し、帰って『伊勢参宮名所図会』島嶼《とうしょ》の図を見ると阿婆良気島に果して少々木を画き生やし居る。お富は勢州山田の産故その言|拠《よりどこ》ろありと惟わる。婦女不毛の事など長々書き立つるを変に思う人も多かろうが、南洋の諸島に婦女秘処の毛を抜き去り三角形を黥《いれずみ》するとあり。諸方の回教徒は皆毛を抜く。その由来すこぶる古く衛生上の効果著しいところもあるらしいから、日本人も海外に発展するに随いこの風を採るべき場合もあろうと攷う。したがってカワラケに関する一切の事を調べ置いて国家に貢献しようと志すのだと心底を打ち明け置く。
 これからいよいよ馬の心理上の諸象をざっと説こう。ロメーンズいわく、馬は虎獅等の大きな啖肉獣ほど睿智《えいち》ならず、食草獣のうち象大きい馬より伶俐《れいり》で象ほどならぬが驢も馬より鋭敏だ、しかしその他の食草獣(牛鹿羊)よりはやや馬が多智だ。馬の情緒が擾馬家《うまならし》次第で急に変化する事驚くべく、馬を擾《なら》す方法諸邦を通じてその揆《き》は一だ、すなわち荒れ廻る奴の前二足あるいは四足ことごとく括《くく》りて横に寝かせ暫く狂い廻らせ、次に別段痛苦を感ぜず、ただただとても人に叶《かな》わぬと悟るよう種々これを責むるに一度かく悟ると馬の心機たちまち全く変り野馬たちまち家馬となる、時に野性に復《かえ》り掛かる例なきにあらざれど容易《たやす》く制止し得る、南米曠野の野馬は数百年間人手を離れて家馬の種が純乎たる野馬となったのだが、それすらガウチョス人上述の法を以て能く擾しおわる。インド等で野象を馴らすも似いるがそれは徐々|出来《でか》すのだから馬擾しほどに眼を驚かさぬ。また奇な事は馬一たび駭《おどろ》けば諸他の心性まるで喪われたちまち狂奔して石壁に打付《ぶつ》かるを辞せず、他の獣も慌て過ぎて失心自暴する例あれど馬ほど劇しいものなし。しかし真面目な時の馬は確かに情款濃く、撫愛されて悦び他馬の寵遇を嫉み同類遊戯するを好み勇んで狩場に働く。虚栄の念また盛んで馬具で美麗を誇る、故にスペインで不従順な馬を懲らすに荘厳なる頭飾と鈴を取り上げ他の馬に徙《うつ》し付けると。支那で馬に因《ちな》んで驚駭《きょうがい》と書き『大毘盧遮那加持経《だいびるしゃなかじきょう》』に馬心は一切処に驚怖思念すとあるなど驚き他獣の比にあらざるに由る。
 馬の記憶勝れたる事、アビシニアの馬途中で騎手と離るると必ず昨夜|駐《とま》った処へ還るとベーカーの『ゼ・ナイル・トリビュタリース・オヴ・アビシニア』に見えるが、支那でも斉の桓公孤竹国を伐《う》ち春往き冬|反《かえ》るとて道を失うた時管仲老馬を放ちて随い行きついに道を得たという(『韓非』説林上)。エッジウッドがダーウィンに与えた書簡にその小馬《ポニー》を伴れてロンドンに住む事八年の後地方の旧宅へ帰るに、小馬その道を忘れず直ちに本《もと》住んだ厩に到ったと見ゆ。小馬は馬の矮小なもので三十二インチより五十六インチ高きもので自ずから種別多し。紀州などでは見た事なきも土佐駒、琉球駒、薩州種子島の手馬など日本産の小馬だ。支那にも果下馬双脊馬など立ちて高さ三尺を踰《こ》えぬものありその駿者《よきもの》に両脊骨ありという。『大清一統志』一八一に甘粛《かんしゅく》の馬踪嶺は峻《けわ》しくて道通ぜなんだが、馬をこの山に失い蹟《あと》を追うてたちまち※[#「鶩」の「鳥」に代えて「女」、第4水準2−5−63]州《むしゅう》に達してより道が開けたと出《い》づ。『元亨釈書《げんこうしゃくしょ》』に藤原|伊勢人《いせひと》勝地を得て観音を安置せんと、貴船神《きぶねじん》の夢告により白馬に鞍置き童を乗せ馬の行くに任すと山中|茅草《ちがや》の上に駐《とま》る、その地へ寺を立てたのが鞍馬寺だとある。
 馬に憎悪《ぞうお》の念強き事、バートンの『メジナおよびメッカ巡礼記』十五章にメジナで至って困ったのは毎夜一度馬が放れ暴れたので、たとえば一老馬が潜かにその絆《つな》がれいる※[#「革+巴」、394−6]《はなかわ》を滑らしはずし、長尾驢《カンガルー》様に跳んで予《かね》て私怨ある馬に尋ね到り、両馬暫く頭を相触れ鼻息荒くなり咆※[#「口+「皐」の「白」にかえて「自」、第4水準2−4−33]《ほえまわ》り蹴り合う。その時第三の馬また脱け出で首尾を揚げ衝き当り廻る、それから衆馬狂奔して※[#「足へん+易」、第4水準2−89−38]《け》り合い齧《か》み合い打つ叫ぶ大乱戦となったと記す。かく憎しみと怨《うら》み強き故か馬が人のために復讐した話もある(プリニウス八巻六四章、『淵鑑類函』四三三、王成の馬、『奇異雑談』下、江州《ごうしゅう》下甲賀名馬の事)。『閑田耕筆《かんでんこうひつ》』三に、摂州高槻辺の六歳の男児馬を追って城下に出て帰るに、雨劇しく川|漲《みなぎ》りて詮術《せんすべ》なきところに、その馬その児を銜《くわ》えて川を渡し、自ら先導して闇夜を無難に連れ帰ったので、まず馬を饗し翌日餅を隣家に配ったとある。酒を忘れたものか書いていない。ちょっと啌《うそ》のような話だが、ロメーンズの『|動物の智慧《アニマルインテリジェンス》』に米国のクレイポール教授が『ネーチュール』雑誌へ通信した話を出す。その友人トロント近き農家に働くが、主人の妻の持ち馬全く免役で紳士生活をさせられているものあり、数年前この女橋を踏みはずして深水へ落ち込んだのを、近い野で草食いいた馬が後《おく》れず走り行きて銜え揚げて人助の到るを俟《ま》った御礼にかくのごとしと。それから随分怪しいが馬が自殺や殉死をした話も少なからぬ。明の鍾同太子の事で景帝を諫《いさ》め杖殺《じょうさつ》さる。〈同の上疏するや、馬を策《むちう》ち出《い》づ、馬地に伏して起たず、同咆して曰く、われ死を畏れず、爾《なんじ》奚《なに》する者ぞ、馬なお盤辟《ばんぺき》再四して行く、同死して馬長号数声してまた死す〉(『大清一統志』一九九)。プリニウスいわく馬主人を喪えば流涕するあり、ニコメデス王殺された時その馬絶食自滅し、アンチオクス王殺されて敵人王の馬を取り騎りて凱旋せしにその馬|瞋《いか》りて断崖より身を投げ落し騎った者とともに死んだと。
 ロメーンズはその友の持ち馬性悪く、毛を梳《す》かるる際
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