しばしばその脚の端蹄の後《うしろ》ちょうど人の腕にあたる処へその絆に付けた木丸《きだま》を挟《はさ》み、後向きに強く抛《な》げて馬卒に中《あ》てたものあり、またロ氏自身の馬が御者就寝ののち妙に巧く絆を脱し櫃《ひつ》の栓を抜いて燕麦を落し尽した、これ無論馬自身が考え出したでなく、御者が毎《いつ》もこうして燕麦を出しくれるを見置き夜食欲しきごとにこれに倣《なろ》うたんだ。この馬また水欲しき時管の栓を廻し暑き夜縄を牽いて窓を開けたといっている。次に明治十四年の『ネーチュール』から片方の履《くつ》を失った馬が鍛工の店頭に立ちて追えどもまた来る故、その足を見てこれと解り履を作りて付けやると、これで済んだかという顔付で暫く鍛工を見詰め、一、二度踏み試みて快げに嘶《いなな》き疾《と》く馳《は》せ帰った話を引きいる。また同誌から引いたは瞎《がんち》の牝馬子を生んだが眼なき方へ子が来るごとにややもすれば蹈み打ったから、産まれて三、四月で蚤世《そうせい》なされた。さて次年また子を生んだ当日より母馬その子の在所を見定めた上ならで身を動かす事なく子よく生《お》い立った。これ初度の子が死んで二度めの子が生まれぬ間に記憶と想像と考慮を働かせ、前駒の死に鑑《かんが》みて今度生まれたらこうしようと案じた結果だと。またいわく小屋に小馬を入れ戸を闔《とざ》して内に横※[#「戸の旧字/炯のつくり」、第3水準1−84−68]《よこさし》外に懸金《かけがね》をさし置くに毎《いつ》も小馬が戸外に出居るを不思議と主人が窺《うかが》うに小馬まず自ら※[#「戸の旧字/炯のつくり」、第3水準1−84−68]《さし》を抜き嘶くと、近所の驢が来て鼻で懸金を揚げ小馬と二匹伴れて遊びに往った体《てい》、まるで花魁《おいらん》と遊客の懸落《かけおち》のようだったと。米国セントルイスのナイファー教授が『ネーチュア』二十巻に出したは、アイオワ市に住む友人の騾いつも納屋に入りて燕麦を窃《ぬす》み食う。庭の門が締まっておるに変な事と吟味しても判らず。しかるについに現行犯のところを見付けられた。まず懸金を揚げて門を開け出で、身を旋《めぐら》し尻で推してこれを閉じ、納屋に到って戸の※[#「戸の旧字/炯のつくり」、第3水準1−84−68]を抜くと戸自ずから開くのだ。この騾の智慧非凡だったから今少し打ちやり置いたらかくて開いた門戸を闔《とざ》して夜の明けぬ間に厩《うまや》へ還《かえ》るくらいの芸当は苦もなく出来たはずだが、制禁厳重となりてその事に及ばなんだ云々と。ベーカーの『アルバート・ニャンザ記』に、欧州で鈍な男を驢と呼ぶがエジプトの驢は勘定が巧い。谷多き地を旅するに駱駝谷底に陥《お》ちて荷物散乱するを防ぐため、谷に遭うごと駱駝の荷を卸し、まず駱駝を次に荷物を渡してまた負わせ、多少行きて谷に逢いてまたかくする事|度重《たびかさ》ねる内、驢ども発明自覚して谷に出会いて止まれの号令を聞くごとに、二十一疋|揃《そろ》いも揃うて地に伏して起たず。駱駝の荷を揚げ卸し谷を渡す間に眠ってやろうとの算段で、沙上に転び廻りて荷を覆《くつがえ》しすこぶる人を手古摺《てこず》らせたとある。ロメーンズの書に、ニュウオーレヤンスの鉄道馬車の驢は鉄道を端から端まで五回走れば釈《と》かる。四回走りても何ともせぬが五回目走りおわると必ず鳴く、以て驢は五の数を算え能うと知ると言う。ただし五回走れば厩人が驢を釈こうと待ち構えいるからそれを見て鳴くのかも知れぬから精査を要するといった。一九〇四年ベルリンで大評判だった「伶俐なハンス」てふ馬は種々不思議の芸を演じ、観客|麕集《きんしゅう》ついに警官出張してその通行を遮《さえぎ》るに及んだ。今日は火曜だが一週の第何日に当るかとか、時計を示して何時何分なりやとか、見物の人数やら人の身長などまで問われて答え中《あた》らぬはなかった。当時スツムプ教授これを実地精査した報告の大要はこの馬を「考える馬」と呼ぶは言実に過ぎたりで考思の力は毛頭ないが観察力は人も及ばぬ。ところへ主人また非常の辛抱もて四年間仕込んだので、一問出るごとに馬が狐狗狸《こっくり》然と蹄で土を敲《たた》いてその数で答える。その実何の考えもなく敲き続くるうち問う人の動作を視てたちまち止まるので、当人が見分け得ぬ隠微の動作に細かく注意して見逸《みのが》さぬところは驚嘆に余りありとあった。それより十二、三年前ロンドンの観場《みせものば》を流行《はや》らせた奇馬マホメットは加減の勘定し観客を数え人の齢をほぼ中てなどした。ジョセフ・ミーハン師その使主より秘訣を聴いたはこの馬を使主が対視するとたちまち地を掻き始め、下を見るとたちまちやめ、また使主の音声の調子を聴き分けて頭を下げたり振ったりするよう仕込み、それから演繹して雑多の珍芸を発展させたので、この馬が天才なるを見出し数年間その傍に眠ってまで教練しただけが取り処でしょうと言ったそうだ。ミ師は牧人が群羊を一縦列にして追い入るに二十疋過ぐるごとに一吠《ひとほ》えする犬あり、かたがた動物に全く数を知るものなしと信ぜぬが、「考える馬」などは馬が計算を能くする証拠とならず、むしろ一種の眼眩《めくら》ましだと論じた。世間に尤《いと》不思議なようで実はこの通り詰まらぬ事が多い。予十三、四の頃中学校にありて僚友が血を吐くまで勉むるを見て、そんなにして一番になったところで天下が取れるでなし、われはただ落第せず無事に卒業して見すべしと公言したが果してそうだった。而して試験ごとに何の課目も一番早く答紙を出して退場し虫を採って自適するを見て勉強せずに落ちぬは不可解と一同呆れた。これも実は観察力が強かったからで、十歳の時『史記』の講義を聴くに田忌《でんき》千金を賭け逐射した時孫子忌に教えてその下駟《かし》と敵の上駟と与《あわ》さしめ無論一度負ける、次にその上駟とかの中駟と、その中駟とかの下駟と競争させて二度ながら勝って千金を得せしめたそうだ。由って思案の末課目が十あるうち作文と講義は得手物《えてもの》で満点と極まっており、総点数の五分一得れば落第せぬ定め故、他の八課の答えは直ちに白紙を差し出し件《くだん》の二課は速くやって退《の》け十分安心して遊び廻った。その時一、二番だった人の成り行きを見るに果して国を取ってもおらぬから、われながら先見の明に感じ入り当時虫を採って自適したのを想い出すだけでも命が延益す。教育家ども何と評する。
欧州古来もっとも高名な演芸馬《しばいうま》は沙翁と同時のスコットランド人バンクスに使われたモロッコだろう。この馬また蹄で地を敲きて嚢中の銭や骰子目《さいのめ》を数え中《あ》て、主人が名ざす人に物を渡し観客中からもっとも女好きな紳士を選び出し、後足二本で立ったり跳ねたり踊ったり、一六〇〇年バンクスを載せてロンドンのセントポール伽藍の屋頂を越えたという。これは多分|桟敷《さじき》から階子《はしご》乗りをしたんだろう。その頃の笑話にその時群集仰ぎ視る者夥し。ある人堂内にありしに僕走り来て出で見よと勧めると、下にかく多く驢あるを見得るからわざわざ足を運んで上の馬一匹見るに及ばずと即答したと。驢は愚人の義だ。バンクス仏国に渡り人気を集めんとてこの馬は鬼が化けたところと言い触らしたが、衆これを魔の使と罵り焼き殺さんとしたところ、早速の頓智《とんち》で馬に群衆中より帽に十字を帯びた一人を選んで低頭|跪拝《きはい》せしめ、魔使ならこんな真似をせぬはずと説いて免れたという、その前後馬が芸をして魔物と疑われ火刑を受けた例少なからぬ。騎馬で愛宕の石段登るを日本で褒《ほ》むるが、外国には豪い奴もあって、一六八〇年一人白馬に騎り、ヴェニースの埠頭から聖《サン》マルコ塔の頂まで引っ張った六百フィート長い綱を走り登る。半途で駐《とま》って右手に持った鎗を下げ左手で旗を三度振って宮廷を礼し、また走り登って鐘塔に入り徒歩で出で最高の絶頂に上り、金の天使像に坐って旗を振る事数回、鐘塔に還って騎馬し復《ふたた》び綱を走り降った(ホーンの『机上書《テーブルブック》』五四〇頁)。プリニウスはシバリス城の軍馬|毎《いつ》も音楽に伴れて踊ったといい、唐の玄宗は舞馬四百を左右に分ち※[#「糸+肅」、第3水準1−90−22]衣玉飾して美少年輩の奏楽に応じて演芸させた由。その他馬が楽を好んで舞いまた香を愛する事しばしば見ゆ(バートンかつてアラブ馬が女人に接したまま身を清めぬ主人を拒んで載せぬを見たという)。仏教の八部衆天竜|夜叉《やしゃ》の次に、乾闥婆《カンダールヴァ》あり最末位に緊那羅《きんなら》あり、緊那羅(歌楽神また音楽天)は美声で、その男は馬首人身善く歌い、女端正好く舞い多く乾闥婆の妻たり。香山の大樹緊那羅王瑠璃琴を奏すれば、一切の大衆仏前をも憚《はばか》らず、覚えず起ちて舞い小児同然だったという。乾闥婆は食香また尊香と訳し天の楽神で宝山に住み香を守る。天神楽を作《な》さんと欲せば、この神の相好たちまち反応変化し自ら気付いて天に上り奏楽す。また能く幻術《てじな》を以て空中に乾闥婆城(蜃気楼)を現ず。梵教の伝に、この神|帝釈《インドラ》と財神《クヴェラ》に侍属し水と雲の精アプサラスを妻とし、女を好み婦女を教え婚姻を司り日神の馬を使う。ヒンズ法に男女法式に拠らず即座合意の結婚を乾闥婆と称え、ヒマラヤ地方の諸王の妻で、后より下、妾より上なるをもかく呼ぶ。乾闥婆が馬や驢に基づいて作られた神たるはグベルナチス伯の『動物譚原《ゾーロジカル・ミソロジー》』に詳論あり。好んで妓楽を観聴し戒緩だった者この楽神に転生す、布施の果報で諸天同様楽に暮すと仏説じゃ。吾輩随分田舎芸妓に御布施をし置いたから、乾闥婆に転生《うまれかわ》りは請合《うけあい》で何がさて馬が似るちゅうのが楽しみじゃ。インドまた香具売り兼|幻師《てじなし》軽業師《かるわざし》で歌舞乞食し行《ある》き、その妻女艶美でしばしば貴人に御目留まる賤民乾闥婆と呼ばるるあり。ヴォルテールいわく、『聖書』に神自身を模して人を作ったと言うは大法螺《おおぼら》で、実は人が自身を擬《まね》て神を作ったんじゃと。惟《おも》うに昔乾闥婆部の賤民が香具売り以下の諸業を以て乞食するに、たびたび馬を教えて舞い踊らせたから、その守護神を馬形としてまた乾闥婆と名づけ、香や楽や婚姻の神としたのでかかる賤民の妻が婚式を助くる事今もインドその他に多き上に、馬驢はその陰相顕著故これを和合繁殖の標識とせる事多し。『五雑俎』五に、宋の張耆《ちょうき》四十二子あり、〈諸姫妾の窓閣皆馬厩に直す、馬○○するごとに縦《はな》ってこれを観せしめ、随いて御幸するあれば孕を成さざるなし〉(『日本紀』武烈紀八年の条参照)。トルコのソリマン二世一日睾丸抜いた牡馬が戯るるを睹《み》、宦者《かんじゃ》も丸を去ったばかりでは不安心とて、その根部を切り尽さしめ後帝世々その制を沿襲した。けだしその推察通り宦者が婦女を弄ぶ例は尠なからぬ(タヴェルニエー『土耳古帝宮中新話《ヌーヴェル・リラチヨン・ド・ランテリユール・ジュ・セラユ》』一六七五年版二八頁、アンシロン『宦者攻撃論《ユーナキズム・ジスプレイド》』一七一八年版二〇六頁、『人性』八巻四号、緒方正清博士「支那および韓国の去勢について」)。さて緊那羅も本《もと》馬芸や歌舞を業とした部民で、その女が自分らより優等な乾闥婆部に娶《めと》らるるを、あたかも乾闥婆部の妻女が貴人に召さるるを名誉と心得て同然に怡《よろこ》んだので、本邦に例の多かった大工の棟梁の娘が大名の御部屋《おへや》となり、魚売りの娘がその棟梁の囲《かこ》い者《もの》となりていずれも出世と心得たに異ならぬ。
プリニウスは馬が血縁を記憶して忘れぬとて、妹馬が自分より一年早く生まれた姉馬を敬する事母に優る、また眼覆《めかくし》して母と遊牝せしめられた牡馬が眼覆しを脱れて子細を知り、大いに瞋《いか》りて厩人を咬み裂いたのと崖から堕《お》ちて自滅したのとあるといった(『博物志《ヒストリア・ナチュラリス》』八巻六四章)。アンリ・エチエンの『アポロジ
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