・プー・レロドト』十章に、十六世紀のイタリア人、殊に貴族間に不倫の行多きを攻めた末ポンタヌスの書から畜類に羞恥《しゅうち》の念ある二例を引く。一は牝犬がその子の心得違いを太《いた》く咬み懲らしたので、次は仮装した子馬と会った母馬が後に暁《さと》って数日内に絶食して死んだと馬主の直話だと。仏典にも『阿毘達磨大毘婆沙《あびだつまだいびばしゃ》論』一一九に、人が父母を殺さば無間《むげん》地獄に落ちるが、畜生が双親を殺さばどうだと問うに答えて、聡慧なるものは落ちれどしからざるものは落ちずとありて、その釈に、〈かつて聞く一聡慧竜馬、人その種を貪《むさぼ》り、母と合せしむ、馬のち暁《さと》り知り、勢を断ちて死す〉と見ゆ。『尊婆須蜜菩薩《そんばすみつぼさつ》所集論』には、〈御馬師衣を以て頭に纒う、牝馬に合するもの、すなわちこれわが母と知る、還って自らを齧み断つ〉とす。今日もアラビヤ人など極めて馬の系図を重んじ貴種の馬の血筋を堕さぬようもっとも腐心するを見れば、たまたま母子を配せしめた事もあろう。そのアラビヤ人は今日も同姓婚を重んじ、従妹は従兄の妻と極《き》めているから、婦《よめ》を求むるに先だち必ずまずその従兄の有無を尋ね許諾を受けにゃならぬ。かつて『風俗画報』で、泉州に二十余年前まで差当りと称え、年頃の娘に良縁なき時、差当りこれをその叔父に嫁して平気な所ありと読んだが、すなわち系統を重んずるの余習で、国史を繙《ひもと》く者は少なくとも鎌倉時代の末まで邦人殊に貴族間に同姓婚行われたと知る。支那は同姓不婚で名高い国だが、『左伝』『史記』などに貴族の兄弟姉妹と通じ事を起した例が少なからぬ。これも上世同姓婚を尚《たっと》んだ遺風であろう。アリヤヌスの『印度記《インジカ》』に、ヘラクレス老いて一女あったが相当な婿なし、王統の絶ゆるを虞《おそ》れ自らその娘を妻《めと》ったとある。フレザーの『アドニス・アッチス・オシリス』二版三九頁に、古ギリシアの王自分の娘を妻とした例多く挙げて基づくところの事実なしにかかる話は生ぜじ、またことごとく邪淫の念のみに起ったと想われぬ、そもそも王家母系のみを重んずる諸国にありては、王の后が真の王権を具し、王は単にその夫たるだけの訳で崇《あが》めらるるに過ぎず、したがって王冠が垢《あか》の他人の手に移らぬよう王はなるべくその姉妹を后とした。例せばエジプトの美女王クレオパトラは二人までその兄弟を夫とした。それと同理で后逝かばそのおかげでやっと位に安んじいた王の冠は娘の夫へ移るはず故、后逝きて王なおその位におらんと欲せば、自分の娘を娶って二度目の后と立つるのほかなしとは正論と聞ゆ。本邦にも上世母系統を重んじた例、国史に著われたものあれど今詳述せず。ただ一、二例を挙ぐると、『古事記』に、天孫降下の折随い参らせた諸神を列《つら》ねて、天児屋根命《あまつこやねのみこと》は中臣連《なかとみのむらじ》等の祖などいった内に天宇受売命《あめのうずめのみこと》は猿女君《さるめのきみ》の祖で伊斯許理度売命《いしこりとめのみこと》は鏡作連《かがみつくりのむらじ》の祖と書いた。この両神女なるに子孫の氏ある事疑わしと宣長は言ったが、そこがすなわち母系統で続ける氏もあった証拠で、『古語拾遺』に天鈿女命《あめのうずめのみこと》は〈猿女君の遠祖なり云々、今かの男女皆号して猿女君と為《な》す〉とある通り、その子孫代々男女とも父の氏を称せず母の氏で押し通したんだ。『東鑑』文治元年義経都落ちの条に、昔常盤御前が操を破りて清盛に事《つか》え娘を設けたは三子の命乞い故是非なしとして、その寵《ちょう》衰えては出家して義朝の跡を弔いそうなところ、いわゆる三十後家は立たない勢《せい》か、一条大蔵卿長成に嫁して生んだ侍従良成てふがその異父兄義経と安否を共にすべく同行した事見え、『曾我物語』には曾我兄弟の母が兄弟の父より前に京の人に相馴れて生んだ異父兄京の小次郎を祐成《すけなり》がその父の復仇に語らい掛くる事あり。いずれもその頃まで母系統を重んじた古風が残りいた証だ。柳田氏かつて越前のある神官の家の系図に、十数代の間婦女より婦女に相続の朱線引き夫の名は各女の右に傍注しあったという(『郷土研究』一の十)。八丈島民が母系を重んじたは誰も知るところだ。『左伝』に〈男女同姓、その生蕃せず〉とあるを学理に合ったよう心得た人多きも釈迦キリストなどを生じた名門に同姓婚の祖先あった者少なからず。植物などにも一花内の雌雄《しゆう》|蘂《ずい》交わって専ら繁殖し行くもある。繁縷《はこべ》などこの伝で全盛を続けいるようだ。もし同姓婚が絶対に繁殖の力乏しきものなら、最初の動植が同姓にして如何ぞ無数の後胤を遺し得んや。それからインドで一夫多妻の家の妻と一妻多夫の家の妻とが父系統母系統の優劣について大議論したのを読んだが今ちょっと憶い出さぬ。ただし母系統を重んずるにはまた拠るべき道理の争われぬものありて、女はいつ誰の種を孕むやら自分ですら知らぬ場合もあるもの故(仏教にこれを知るを非凡の女とす)、普通に夫の子と認められながら誰の種と判らぬが多い。されば姓氏を重んずる支那でも、〈田常斉の国中の女子|長《たけ》七尺以上なるを選み後宮と為す、後宮百を以て数え、而して賓客舎人の後宮に出入する者を禁ぜざらしむ、常卒するに及び七十余男あり〉。フレデリク大王が長大の男女を配偶して強兵を図った先駆で、大きい子を多く生みさえすれば実は誰の種でもよいという了簡、これは格外として、戦国の末わずか十年内に楚王后が生んだ黄歇の子と秦王后が生んだ呂不韋の子が楚と秦の王に立った。故に魏の※[#「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1−92−63]子才《けいしさい》以為《おも》えらく婦人保すべからずと。元景にいう卿何ぞ必ずしも姓王ならん。元景色を変える。子才曰く我また何ぞ姓※[#「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1−92−63]能く五世を保せんやと(『史記評林』四六と七八、『広弘明集』七)。しかるに誰の種にもせよ何女が孕み生んだという事は明らかに知りやすいから、某の母は誰、そのまた母は誰と、母系統の方が至って確かだとその流義の者は主張する。これを稽《かんが》えると本統の祖先崇拝は、母系統を重んずる民にして始めて誇り行い得るはずだ。天照大神《あまてらすおおみかみ》を女神としたは理に合わぬなどの論がかえって理に合わぬと惟う。いわんややたらに養嗣系図買いなどの行わるる国と来ては、いわゆるゆかりばかりの末の藤原で、日本人の子孫に相違ないと言い張り得れば足り、猿田彦の子孫鷺坂伴内の後裔と議論したって真の詞《ことば》費《つい》えじゃ。進化論から言わば動物を距つる事遠きほどその人間が上等で、動物に一として祖先崇拝の念など起すものなければ、この点においては祖先崇拝国民が祖先構わずの国民より優等だ。したがって予は祖先崇拝を大体について主張する一人だが、今日の事情が右のごとくだから、正銘の祖先崇拝は今となっては行い得ず、それよりも大切で差し迫った用事が幾らもあるだろうと考う。ここに一言するは同姓婚と母系統は必ずしも偕《とも》に行われず、しかしフレザーが言った通り、母統を重んずるよりやむをえず同姓婚を行う場合もあるに因《ちな》んで、一緒にその事どもを述べたので、両《ふた》つながらそれぞれ歴《れっき》とした訳があり、決して無茶苦茶な乱風でない。さて上に引いた至親の同姓婚を畜生が慙《は》じて自害自滅したのが事実ならば、ある動物に羞恥の念ある証としてすこぶる有益だが、これを例に採ってことごとく同姓婚を行うた古人を畜生劣りと罵るべきでない。既に挙げたヘラクレスのごとく自分の血統を重んずる一念よりかく行うた者ありて、自分の血統を重んずる一事が人畜間の距離絶大なるを示す所以《ゆえん》だから。
『大般涅槃経』に馬|獅《しし》の臭いを怖るといい、『十誦律毘尼序』にはその脂を脚に塗らば象馬等|嗅《か》いで驚き走るという、ラヤード言う、クジスタンの馬獅近づけば見えもせぬに絆を切って逃げんとす、諸|酋長《しゅうちょう》獅の皮を剥製《はくせい》し馬をして見|狎《な》れ嗅ぎ狎れしむと。菅茶山《かんちゃざん》曰く狼は熊に制せられ馬を殺す、しかるに熊は馬を怖ると(『筆のすさび』五一章)。馬また象と駱駝を畏《おそ》れ(ヘロドトス、一巻八十章、テンネント『錫蘭《セイロン》博物志』二章参照)、蒙古の小馬《ポニー》や騾は太《ひど》く駱駝を怖れる故専ら夜旅させ、昼間これを駱駝のみの宿に舎《やど》す(ヘッドレイ『暗黒蒙古行記《トランプス・イン・ダーク・モンゴリヤ》』五四頁参照)。『淵鑑類函』に、『馬経』を引いて馬特に新しい灰を畏る、駒がこれに遇わば死す、『夏小正』に仲夏の月灰を焼くを禁じたはこの月馬駒を生むからだと見ゆ。ベーカーの『ゼ・ナイル・トリビュタリース・オヴ・アビシニア』に、氏が獅子を銃する時落ち着いて六ヤードの近きに進み、獅子と睨み合いて却《しりぞ》かなんだ勇馬を記す。して見ると禀賦と訓練で他の怖ろしがる物を怖れぬ馬もあるのだ。『虎※[#「金+今」、第3水準1−93−5]経《こけんけい》』巻十に、猴《さる》を馬坊内に養えば患を辟《さ》け疥《かい》を去るとありて、和漢インド皆厩に猴を置く。『菩提場経』に馬頭尊の鼻を猿猴のごとく作る。猴が躁《さわ》ぐと馬用心して気が張る故健やかだと聞いたが、馬の毛中の寄生虫を捫《ひね》る等の益もあらんか。また上述乾闥婆部の賤民など馬と猴に芸をさせた都合上この二獣を一所に置いた遺風でもあろう。一八二一年シャムに往った英国使節クローフォードは、シャム王の白象|厩《べや》に二猴をも飼えるを見問うて象の病難|除《よけ》のためと知った由。

     民俗 (1)[#「(1)」は縦中横]

 有史前の民は多く野馬を狩って食用した。そのうち往々後日の儲《たくわ》えに飼い置くにつけその性|馴《な》らし使うに堪えたものと知れ、騎《の》り試みるに快活に用を弁ずるから、乗るも牽かせも負わせもして、ついに人間社会大必要の具となった。今日道路改善汽車発達して騎馬の必要昔日のごとくならねど、馬全廃という日はちょっと来るまい。『呂氏春秋』に寒衰《かんすい》御を始む。『荘子』に黄帝方明を御とし襄城《じょうじょう》の野に至る。『武経』に黄帝軍の両翼に騎兵を備うる事あり。古カルデア人は初めオナッガを捕え馴らして戦車を牽かせたが、のち中央アジアより馬入るに及び馬具を附けて使うた。ただしそれは上流間のみに行われ一汎には軍用されなんだ。邦訳『旧約全書』ヨブ記に、軍馬が「喇叭《らっぱ》の鳴るごとにハーハーと言い、遠くより戦を嗅ぎ付け」と出《い》づ。ジスレリの『文界奇観《キュリオシチイス・オヴ・リテラチュール》』九版三巻に、欧州で出した『聖書』の翻訳|麁鄙《そひ》で、まるで洒落本《しゃれぼん》を読むごとく怪《け》しからぬ例を多く出しいるが、たとい原文にそうあったとても典雅荘厳が肝心で、笑本の文句似寄りの語などは念に念を入れて吟味すべき大宗教の経典の日本訳に、ハーハーなどとそのまま出たは無邪気のようでも無智のようでもある。ペルシア、ギリシア、ローマ人も馬を重用し、ギリシア人殊に善く騎り馬上の競技を好みしが、勒《くつわ》と※[#「革+橿のつくり」、第3水準1−93−81]《たづな》ありて鐙《あぶみ》なく、裸馬や布皮|被《き》せた馬に乗った。プリニウス説にベレロフォン始めて乗馬し、ペレツロニウス王※[#「革+橿のつくり」、第3水準1−93−81]と鞍と創製し、ケンタウリが騎兵の初めで、フリギヤ人は二馬、エリクトニウスは四馬に戦車を牽かせ始めたと。アーズアンいわく、モセスの書に拠ればフリギヤ人等より迥《はる》か前エジプト人が戦車を用いたが、馬幾疋附けたか知れずと。ピエロッチいわく、『聖書』に馬を記せる例は、まずヨシュア記に、カナアン軍多くの車馬もてメロム水辺に陣せるを、ヨシュア上帝の命に随い敵馬の足筋を截《き》り、敵車を焼きてこれを破ると載す、元来イスレール人は山国に住んだから馬
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