の用多からず、モセスの制条に王者馬を多く得んとすべからず、また馬を多く得んために民を率いてエジプトに帰るべからずとあり、しかるにダビットに至り、ゾバ王の千車を獲た時、百車だけの馬を残し留めた、ソロモンの朝ヘブリウ人の持ち馬甚だ多くなりしは、列王紀略上にこの王戦車の馬の厩四千と騎兵一万二千を有《もて》りとあるので分る、またいわく王千四百戦車一万二千騎卒ありと、その後諸王馬を殖やす事盛んで予言者輩これを誚《そし》った事あり、今日もパレスチナのサラブレッド馬種の持ち主は、皆これをソロモン王の馬の嫡流と誇り示す、けだしヘブリウ人は古く馬を農業に使うた事、藁と大麦で飼った事、共に今のアラブ人に同じく、鈴を馬に附けた事また同じ、『新約全書』に馬は見ゆれど、キリスト師弟乗馬した事見えず、またアブサロムやソロモンが騾に乗った事見ゆる、モセスが異種の畜を交わらしむるを禁じた制条を破ったようだが、今もパレスチナのアラブ人が多く騾を畜《か》いながら馬驢を交わらしめてこれを作らず、隣郷より買い入るるより推さば、古ヘブリウ人も専ら騾を買って用いたらしい、パレスチナの古伝に、ヨセフその妻子を騾に乗せてエジプトに往かんとこれに鞍付くるうち騾が彼を蹴った。その罰で永世騾はその父母子孫なく馬驢の間に生まれて一代で果て、また人に嫌われて他の諸畜ごとく主人の炉辺に近づけくれず、驢は『聖書』に不潔物とされ居るが馬がなかった世に専ら使い重んぜられ、古く驢と牛を※[#「耒+禺」、第3水準1−90−38]《あわ》せ耕すを禁じ(驢が力負けして疲れ弱りまた角で突かれる故)、モセスの制に七日目ごとに驢牛を息《やす》ますべしとあると。
いわゆる騎馬の始祖ベレロフォンは、本名ヒポノイース、ギリシアのコリントの産、同郷人ベレロスを殺してベレロフォン(ベレロス殺し)と呼ばる。その事で生所を立ち退きチーリンスのプレツスに寄るうち、プの妻アンテアその若くて美なるに惚れ込み、しばしばヤイノを極《きわ》むれども聴かざるを怨み、かえってベが自分に横恋慕すと夫に讒す。プレツス怒りてその舅ヨバテースに宛てて隠語もてベを殺しくれるようの依頼状を認《したた》め、ベに持たせてヨに遣わす。ヨこれを読んで委細承知し、ベを自滅せしむべく往きてキメーラを討たしむ。それは獅の首山羊の胴蛇の尾で火を吐く鵺《ぬえ》同然の怪物だ。これより先地中海の大神ポセイドン、馬や鳥の形に化けて醜女怪メズサを孕ませ、勇士ペルセウスがメの首を刎《は》ねた鮮血より飛馬ペガソス生まれた。ベレロフォンこれに騎らば鵺に勝ち得べきを知り、アテナ女神の社に眠って金の※[#「革+橿のつくり」、第3水準1−93−81]《たづな》を授かり、その告《つげ》に由って飛馬の父ポセイドンに牲《いけにえ》を献じ、その助力でかの馬泉水を飲みに来たところを捉え騎りて鵺を殪《たお》し、次にソリミ人次に女人国を制服したとは武功のほど羨ましい。さて帰路を要して己を殺さんとせるヨバテースの強兵を殺し尽して神色自若たるを、ヨが見てその異常の人たるを知り国の半を与え女婿とした。それからチーリンスへ還ってアンテアを欺き、飛馬に同乗するうち、突き落して海中に溺死《できし》せしめたまでは結構だったが、ベレロフォン毎度の幸運に傲《おご》って飛馬に乗り昇天せんとす。大神ゼウス虻《あぶ》を放ちて馬を螫《さ》さしめ、飛馬狂うてベを振り落し自分のみ登天す。ベは尻餅どっしりさて蹇《あしなえ》となったとも盲となったともいう。その事インドの頂生王《マンドハタール》が過去の福業に因り望んで成らざるところなきに慢心して天に上りて帝釈ために座を分つに慊《あきた》らず、これを滅ぼさんと企てたが最後たちまち天から落ちて悩死した譚(ラウス英訳『仏本生譚《ジャータカ》』二五八)に類す。ツェツェス説に鵺ベレロフォンに火を吐き掛けんとした時、ベ予《かね》て鋒《ほこさき》に鉛を付け置いた鎗をその口に突っ込み、鉛|鎔《と》けて鵺を焼き殺したと。また後世飛馬ペガソスを文芸の女神団ムーサの使物とす。ムーサ九人ピエルスの九女と競い歌うて勝った時、ヘリコン山歓んで飛び上がるを飛馬が地上へ蹴戻した、蹄の跡より噴泉出でその水を飲む人文才たちまち煥発《かんぱつ》す、その泉を馬泉《ヒッポクレネ》というと。インドにも『リグヴェダ』に載るアグニの馬は前足より霊香味《アムブロシヤ》を出し、アスヴィナウの馬は蹄下より酒を出して百壺を盈《みて》る由。支那では〈易州の馬※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]泉、相伝う、唐の太宗高麗を征し、ここに駐蹕《ちゅうひつ》す、馬|※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]《あが》きて泉を得たり、故に名づく、また馬※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]泉あり、広昌県の南七十里にあり、俗に伝う宋の陽延昭、ここに屯爰《とんえん》す、馬※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]きて泉を得たり〉(『大清一統志』二二)。その他和漢馬が※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]《あが》き出した泉の話多し(同書同巻、一九〇〇年『随筆問答雑誌』九輯六巻に出た予の「神跡考」参照、柳田君の『山島民譚集』一)。『山海経《せんがいきょう》』に、〈天馬|状《かたち》白犬のごとくにして黒頭、肉翅能く飛ぶ〉とあり、堀田正俊の『※[#「風にょう+易」、第3水準1−94−7]言録《ようげんろく》』に、朝鮮の天馬形犬のごとく毳《にこげ》白兎のごとしといえるは、馬の属《たぐい》らしくないが翼生えた馬の古図も支那にある。『史記』などを見ると天馬は外国最駿馬の美称だ。仏教にも飛馬あれど、〈身能く飛行し、また能く隠形し、あるいは大にあるいは小にす〉と言うのみ翼ありと言わず(『増一阿含経《ぞういちあごんぎょう》』一四)。ラウズ英訳『仏本生譚《ジャータカ》』一九六に、仏前生飛馬たりし時鬼が島に苦しむ海商どもを救うた事を述べたるにも、その飛馬全身白く喙《くちばし》烏に似、毛ムンジャ草のごとく、神力を以て雪山よりセイロン(鬼が島)まで飛んだとあれど翼の記載はない。が、『リグヴェダ』既にアスヴィナウが赤き翼ある馬して海中よりブフギウスを拯《すく》い出さしむとあれば、釈尊出生より迥《ずっ》と前から翼ある馬の譚がインドにあったのだ。アリオストが記したヒポグリッフ、ハンガリーのタトス、古ドイツとスカンジナヴィアのファルケいずれも翼ありて空中を行く馬だ。
ギリシアの古美術品に飛馬ペガソスを画くに必ず翼あり。それから思い付いてリンネウスが飛馬竜(ペガスス・ドラコニス)と命名したまま今も通用する小魚、和名はウミテング、その形怪異で牛若丸の対手《あいて》としていつも負けている烏天狗や応竜の日本画に似、英語で海竜《シードラゴン》という。予かつて生きた品を獲たが暫くして死んだからその活態を知らぬ。海馬、和名はタツノオトシゴまた竜の駒、蛟《みづち》の子など呼び、その頭馬に酷《はなは》だ似、左右の眼カメレオン同前別々に動く。このもの海藻や珊瑚類に、尾を捲き付くる体画竜のごとく性至って子を愛し、雄の尾の裏または腹下に卵を懐《だ》く嚢《ふくろ》または皮あって、その内で孵《かえ》った子供が自活し得るようになって始めて出で去る。昔人この事に気付いたものか、和漢とも雌雄の海馬を握れば安産すといい、その母愛さるればその子抱かるてふ理屈に拠ってか、予の宅前に棲《す》む人はこれを夫婦敬愛の守りとしている。また予その拠り所を知らねど、仏人コンスタンチンの『|熱帯の自然篇《ラ・ナチュール・トロピカル》』に、艶道の女神ヴェヌスこの魚を愛すと載す。日本や英国の産は数寸を出ねど、熱地の海のは二フィートに至る。楊枝魚《ようじうお》和歌山で畳針、海草郡下津浦でニシドチ、田辺辺で竜宮の使いというは海馬と近属ながら尾に捲く力がない。雄の腹下や尾裏に子を懐く事海馬に同じ(長尾驢《カンガルー》など濠州産の諸獣も腹の嚢中に子を育つるが、海馬などと異なり雌がその役を勤める)。楊枝魚多くは海産だが、和歌山などには河に住むもある。かつて高野山の宝物に深沙竜王と札打ちあったは大楊枝魚で、その王子とあったは小さき海馬だった。インドの経典に、馬頭鬼ダジアンス海中に霊香を守り常紐天《ヴィシュヌ》乳海中に馬身を現ずという。『無明羅刹経《むみょうらせつぎょう》』に、海渚中の神馬王八万四千の諸毛長く諸動物これに取り着いて助命さる。『根本説一切有部毘奈耶』に、天馬|婆羅訶《ばらか》海より出て岸辺の香稲を食う。この馬五百商人を尾と鬣《たてがみ》に取り着かせ海を渡りてその難を脱れしめたとある。話の和訳は『今昔物語』や『宇治拾遺』に出《い》づ。『大乗荘厳宝王経』にこの聖馬王は観音の化身とある。邦俗ホンダワラてふ藻を神馬草というは、その波に揺れながら枝葉間に諸生物を安住せしむる状《さま》を件《くだん》の神馬王の長毛に比して学僧輩が名づけたのかも知れぬ。さなくとも長きもの神馬の尾髪、神子の袖、上臈のかもじと『尤《もっとも》の草紙』に見る通り、昔は神の乗り物として社内に飼う馬の毛を一切截らなんだ。それを件の藻に思い寄せて神馬草と呼んだでもあろうか。ただし(四)〔性質〕に述べた通りこの藻で馬を飼った故名づくてふ説もある。この藻の中に海馬や楊枝魚多く住む。さて和漢アラビヤ等に竜が海より出で浜辺の馬に駿足の竜駒を生ます談多い。馬属ならぬものが馬を孕ますはずなければ、これは人知れず野馬か半野馬が孕ますに相違ないが、海獣中遠眼に馬らしく見ゆる物もあり。また海中に上述の飛馬竜、深沙竜王、竜宮の使いなど呼ばるる魚あり。殊に海馬は上記諸名のほか竜宮の駒(また竜の駒、『尤の草紙』に迅《はや》き物雷神の乗るという竜の駒)、馬王《うまおう》海ウマ等の和名あり。ヴェネチアでも竜(ドラコネ)と呼ぶほど馬にも竜にも酷《よく》似る(一六〇四年フランクフルト版ゲスネル『動物全誌《ヒストリア・アニマリウム》』四巻、四一四頁)。故に陸上にあらゆる物は必ず海中にもその偶ありてふ古人の了簡(テンネント『錫蘭博物志《ナチュラル・ヒストリ・オヴ・セイロン》』七三頁)から推せば、これら諸魚の父たる海中の竜が、能く馬を孕ますほど親縁のものたるは、その稚子《ちし》また眷族《けんぞく》なる件の諸魚が半竜半馬の相を具うるので照々たりといわん。濠州海の海馬の一種は、殊にこの辺の消息を明らかにする。『本草綱目』蚕の条などに竜馬同気と云々種々理由あるべきも、まずは海馬楊枝魚海天狗など竜馬折衷の魚が竜棲むてふなる海中に少なからぬが一の主因だろう。漢の王充の『論衡』六に世俗竜の象《かたち》を画くに馬首蛇尾なりと出で、馬首蛇尾は取りも直さず海馬の恰好だ。唐の不空訳『大雲輪請雨経《だいうんりんしょううぎょう》』上に馬形竜王あり。竜てふ想像動物は極めて多因で諸多の想像と実物に因って混成したものなるはさきに詳論したつもりだが、馬と竜との関係について何にも説かなんだから今飛馬譚のついでにこれを論じ置く。
プリニウスいわくケンタウリ騎兵を初むと。これはギリシアのテッサリアの山林に住んだ蛮民全身毛深く時に里邑を犯し婦女を掠《かす》めたが、山中に住み馴れただけあって善く菜物を識《し》った。スミスの『希臘人伝神誌字彙《ジクショナリ・オブ・グリーク・エンド・ローマン・バヨグラフィー・エンド・ミソロジー》』一八四四年版六六六頁に拠れば、ケンタウリは牛殺しの義で、普通に前体は人、後身は馬という畸形で男と牝馬の間種とす。よほど昔ギリシア中でテッサリアの山民のみ騎馬を善くした時、他の諸民これを半人半馬の異物と思うた。その実テッサリア人|毎《いつ》も騎馬して牛を追い捕うる事、今の南米の騎馬牧人《ガウチョス》そのままだったらしく、紀元前四世紀、既にこれに象《かたど》った星宿|殺牛星《ケンタウロス》の名書き留めあれば、かかる誤解はよほど以前に生じいたのだ。スペイン人が初めて西大陸へ討ち入った時、土人騎兵を半人半畜の神と心得ひたすら恐れ入り、その為《な》すが任《まま》
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