にして亡ぼされたは衆人の知るところだ。それほど恐れ入った馬も暫く見馴るれば何ともなくなり、今度は南北米の土人ほど荒馬乗りの上手はなしというほどその業に熟達し、ダーウィンの『探検航行記《ジョーナル・オヴ・レサーチス》』に南米土人が幼子を抱え裸で裸馬を擁して走り去る状を記し、真に古ギリシアの大勇士の振舞いそのままだと言い居る。またバートンは北米のインジアンが沙漠中に天幕と馬に資《よ》りて生活するよりアラビア人と同似の世態を発生した由を述べた。したがって西大陸に新規現出した馬に関する習俗が少なからぬ。たとえばパタゴニアのテフェルチ人は、牝牛馬の腹を割《さ》き胃を取り出しその跡まだ暖かなところへ新産児を入れ置き、いわくこうするとその児後年騎馬の達人となると、この輩以前は徒歩したが百年ほど前北方から馬を伝え不断騎りいてほとんど足で歩む能わず、また人死すれば馬と犬を殺し以前は乗馬に大必要な革轡《かわぐつわ》を本人の屍と合葬した(プリッチャード『巴太瓦尼亜貫通記《スルー・ゼ・ハート・オヴ・パタゴニア》』六章)。旧世界でも馬を重んずる諸民が馬を殺し馬具とともに従葬した例多く、南船北馬の譬えのとおり、蒙古人など沍寒《ごかん》烈風断えざる冬中騎して三千マイルを行きていささか障《さわ》らぬに、一夜地上に臥《ふ》さば華奢《きゃしゃ》に育った檀那《だんな》衆ごとく極めて風引きやすく、十五また二十マイルも徒歩すれば疲労言句に絶す(プルシャワルスキの『蒙古タングット国および北蔵寒境』英訳一巻六一頁)。その蒙古人と万里隔絶のパタゴニア人も同一の性質風習を具うるに至れるを見て同因多くは同果を結ぶと知れ。

     民俗 (2)[#「(2)」は縦中横]

 第五図[#図省略]ボーラズは一から三箇までの石丸を皮で包み、皮か麻緒を編んだ長紐《ながひも》を付けたのを抛《な》げて米駝鳥《リーア》などに中《あ》つると、たちまち紐が舞い絡《から》んで鳥が捕わる仕組みで、十六世紀に南米のガラニ人既にこれを用い、アルヘンチナのガウチョス人今日これを鉄砲よりも好み使う。パタゴニア人も以前は騎せずにこれを用いたが、今は馬上で使うようになったので、昔から使うたものの、馬入りてからその活用以前に増して奏功す。サー・ジョン・エヴァンス説に、スコットランドとアイルランドの有史前民がかようの物を使うた証拠品ありと。しかしその他に東半球の人がかかる器を用いた例は少ないと見え、十二年前英国のアリソン博士が世界中の※[#「木+倍のつくり」、416−11]《からさお》を研究して『※[#「木+倍のつくり」、416−12]およびその種類』を著わし、なお続編を出すとて予に色々の問条を送った内に、パタゴニア人は※[#「木+倍のつくり」、416−13]を武具とすとあった。よく尋ねるとボーラズを指《さ》したんで、ボ様の物が英国にないので遠く多少の似た点がある故※[#「木+倍のつくり」、416−14]を当てたのだが、実は日本で言おうなら、※[#「木+倍のつくり」、416−14]よりは鎖鎌《くさりがま》とともに使う分銅《ふんどう》が一番ボーラズに似居る。かつて、陸軍中将押上森蔵氏に通信して、鉄砲の始めは必ずしも一地方に限らにゃならぬほど込み入った物でなしと論じたついでに、日本と南米と昔一向交通なかったのに、すこぶる相似た分銅とボーラズが各自創製使用されたがその好《よ》き比例じゃと述べたが、氏はこれを『歴史地理』へ抄載した。後に藤沢氏の『伝説』播磨の巻を見ると、かの地の古記を引いて、享禄三年(欧州人始めて日本へ渡来した年より十三年前)五月十一日、飾磨《しかま》郡増位山随願寺の会式《えしき》で僧俗集まり宴|酣《たけなわ》なる時、薬師寺の児《ちご》小弁は手振《てぶり》に、桜木の小猿という児は詩歌で座興を助けるうち争論起り小猿打たる、平生この美童に愛着した寛憲という僧小猿を伴れて立ち退いたが、小猿ついに水死し、それより山の俗衆と薬師寺と闘争し、双方八十二人死す、英賀《えが》の城より和平を扱い武士を遣わす時持たせた武具の中に鎖鎌十本と載す。因っていよいよ分銅は、ボーラズと各別に出来たと知った。
 なお馬が新世界に入ってより生じた異習を一つ挙げんに、オエンの『マスクワキー印甸人《インジアン》の民俗』に馬踊りてふ条あり、いわく商客馬多く牽き来ってインジアンどもそのうちに欲しくて堪《たま》らぬ良馬を見付ければ、各その所望の馬を指し讃えて何と踊ってくれぬかと尋ねる。商客|諾《うべな》えば彼ら大いに火を焚き袒《かたぬ》ぎて繞《めぐ》り坐り煙草を吸う。商客一同|鞭《むち》を執りてその周囲を踊り廻り、その肩と背を劇《はげ》しく笞《むち》うつも彼ら平気で何処《どこ》に風吹くかという体で喫烟し、時に徐《しず》かに談話す。十五分三十分打っても声立つる者なくば、各商約束の馬をそのために笞うたれたインジアンに与う。さて彼ら創《きず》に脂塗り、襦袢《じゅばん》を着その馬を乗り廻してその勇に誇る。この行事中余りに劇しく笞うたれて辛抱ならず、用事に託《かこつ》け退き去るも構わねど、もし眼を※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《うご》かすなど些《すこし》でも痛みに堪え得ぬ徴《しるし》を見せると大いに嘲られ殊に婦女に卑しまると。『日本紀』七に、八坂入彦皇子《やさかのいりびこのみこ》の女《むすめ》弟媛《おとひめ》は無類飛び切りの佳人なり、その再従兄に当らせたもう景行帝その由|聞《きこ》し召して、遠くその家に幸《みゆき》せしに、恥じて竹林《やぶ》に隠れたので、帝|泳《くくり》の宮に居《いま》し鯉多く放ち遊びたもう。その鯉を見たさに媛密かに来たところを留め召したもう。しかるにこの媛常人と異なり、〈妾|性《ひととなり》交接の道を欲せず、今皇命の威に勝《た》えずして、暫く帷幕《おおとの》の中に納む、しかるに意に快からざるところ、云々〉と辞してその姉を薦《すす》め参らせた、それが成務帝の御母だとある。『夫木集抄』三十、読人《よみびと》知らず「いとねたし泳の宮の池にすむ鯉故人に欺かれぬる」とはこれを詠んだのじゃ。それと等しくて、マスクワキーインジアンも馬なかった昔は、かかる痛い目をせずに済んだのである。
 漢の鄒陽の上書中に、燕人蘇秦が他邦から入りて燕に相《しょう》たるを悪《にく》み讒せしも燕王聞き入れず、更に秦を重んじ※[#「馬+夬」、第4水準2−92−81]※[#「馬+是」、第4水準2−92−94]《けってい》を食わせたとある。これは既に言った通り、牡馬が牝驢に生ませた間子《あいのこ》で、日本ではちょっと見られぬものだが、支那の古え特遇の大臣に賜わるほど故その肉は勝《すぐ》れて旨《うま》いらしい。ローマでは紀元前一世紀、文学奨励で著名だったマエケナスが驢児を饌用《せんよう》し初めた。当時驢の肉大流行だったが、後には衰え、オナッガや今もアフリカに出づる野驢(家驢の原種)を食用した。プリニウスいわく、驢が他の驢の死ぬところを見るとほどなく自分も死すと。支那では明朝の宮中元日に驢の頭肉を食うを嚼鬼《しゃっき》と呼んだ、俗に驢を鬼と呼んだからだ(インドでも驢を鬼物とし、故人驢車に乗るを夢みるは、その人地獄へ行った徴《しるし》という)。〈内臣また好んで牛驢不典の物を吃う、挽口というはすなわち牝具なり、挽手というはすなわち牡具なり、また羊白腰とはすなわち外腎肉なり、白牡馬の卵に至りてもっとも珍奇と為し、竜卵という〉(劉若愚の『四朝宮史酌中志』巻二十)。ロンドンで浜口担氏と料理屋に食した時、給仕人持ち来た献立書を見て、分らぬなりに予が甘麪麭《スイートブレット》とある物を注文し、いよいよ持ち来た皿を見ると、麪麭《パン》らしく見えず、蒲鉾《かまぼこ》様に円く豆腐ごとく白浄な柔らかなもの故、これは麪麭でないと叱ると、いかにも麪麭でないが貴命通り甘麪麭《スイートブレット》だと言い張り、二、三度言い争う。亭主|予《かね》て予の気短きを知れば、給仕人が聞き違うた体に言い做《な》し、皿を引き将《も》て去らんとするを気の毒がり、浜口氏が自分引き取りて食べ試みると奇妙に旨《うま》いとて、予に半分くれた。予食べて見るに味わい絶佳だから、間違いはその方の不調法ながら旨い物を食わせた段感賞すと減らず口|利《き》いて逃げて来た。翌日近処で心安かったから亭主に会って、あれは全体何で拵《こしら》えたものかと問うと、牝牛の陰部だと答えた。しかるに字書どもには甘麪麭は牝牛の膵《すい》等の諸腺と出づれど、陰部と見えず。ところが帰朝のみぎり同乗した金田和三郎氏(海軍技師)も陰部と聞いたと話されたから、あるいは俗語郷語に陰部をもかく呼ぶのかと思えど、この田舎ではとても分らず、牛驢の陰具を明の宮中で賞翫《しょうがん》した話ついでに録して、西洋通諸君の高教を俟《ま》つ。
『周礼』に庖人《ほうじん》六畜を掌り、馬その第一に位し、それから牛羊豕犬鶏てふ順次で、そのいわゆる五穀は麻を[#「麻を」は底本では「麻をを」]首《はじめ》とし、黍《もちきび》と稷《うるきび》それから麦と豆で、これに※[#「禾+朮」、第3水準1−89−42]《もちあわ》と稲と小麦小豆を加えて九穀という。今日の支那では馬肉や麻子《おのみ》をさほど珍重せぬ。秦の穆公の馬を野人取り食いしも公怒らず、駿馬肉を食って酒を飲まずば体を敗ると聞くとて一同に飲ませやった。翌年韓原の戦に負け掛かった時、去年馬を食い酒を貰《もろ》うた者三百余人来援し大いに克《か》ちて晋の恵公を擒《とりこ》にした。また晋の趙簡子両白騾ありて甚だ愛せしに、ある人重患で白騾の肝を食わずば死ぬと医が言うと聞き、その騾の肝を取ってやった。のち趙が※[#「櫂のつくり」、第3水準1−90−32]《てき》を攻めた時、かの者の一党皆先登して勝軍《かちいくさ》した。逸詩に、君子に君たればすなわち〈正しく以てその徳を行う、賤人君たらば、すなわち寛にして以てその力を尽す〉という事じゃと、『呂覧』愛士篇に出《い》づ。本邦では普通に馬牛を食うを古来忌んだようだが、『古語拾遺』に白猪、白馬、白鶏を御歳《みとせ》すなわち収穫の神に献《たてまつ》ってその怒りを解く事あり。貴州の紅崖山の深洞中より時に銅鼓の声聞ゆ、諸葛亮ここに兵を駐《とど》めたといい、夷人祭祀ごとに烏牛《くろうし》、白馬を用うれば歳《とし》稔《みの》る(『大清一統志』三三一)てふ支那説に近い。あるいは上世日本でも地方と部族により、馬肉を食いもし神にも献じたものか。琉球では維新前も牛馬猫の肉を魚店《うおたな》で売り、婦女殊に馬肉を好み焼き食うたが、本土の人これを見れば大いに慙じたと(『中陵漫録』八)。蒙古人古来馬肉を食い、殊にその腐肉を嗜《この》み、また馬乳で酒を作った事は支那人のほかにルブルキスやマルコ・ポロやプルシャワルスキ等の紀行に詳《くわ》し。
 ブラウンの『俗説弁惑《プセウドドキシア・エピデミカ》』三巻二十五章にいわく、プリニウスとガレヌスは痛く馬肉を貶《けな》しまた馬血を大毒と言ったが、韃靼人他に勝れて馬肉を食い、馬血をも飲むでないか、それは北方寒地の人体にのみ無害故しかりと言わんか。ヘロドトスが言った通り、ペルシアは暖国だがその人誕生祝いに馬肉を饗し、また全《まる》で馬、驢、駱駝を烹《に》用いて、ギリシア人が、かほどの美饌を知らぬを愍《あわれ》んだから、どの国で馬肉を食ったって構わぬはずだと。メンツェルの『独逸史《ゲシヒテ・デル・ドイチェン》』巻の一にゲルマンの僧は、馬を牲《いけにえ》にしその肉を食ったから、馬肉|喫《く》わぬ者をキリスト教、これを食うはキ教外の者と識別した、古スウェーデンでもキリスト教を奉ずる王に強いて馬肉を食わせ、その脱教の徴《しるし》としたという。四十七、八年前パリ籠城《ろうじょう》の輩多く馬を屠《ほふ》ったが、白馬の味|太《いた》く劣る故殺さず、それより久しい間パリに白馬が多かった(『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』十一輯七巻百九頁)。マルコ・ポロ曰く、元世祖純白の馬一万匹あり、その牝の乳を帝
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