室皇族のみ飲む、ただしその祖父|成吉思《ジンギス》を助けて偉勲あったホリヤド部人は皇族にあらざるも特許飲用したと。一四〇三―六年の間にサマルカンドのチムール朝廷に使いしたスペイン人クラヴィホの記に、チムール諸国使節を大饗するに馬の炙《やきもの》の脚を去り、腰と臀《いさらい》を最上饌とし切って十の金銀器に盛るとありて、その食いようを詳述す。『周礼』に馬を六畜の首《はじめ》としたのもこの通り貴んだのだろう。
 古ローマ人は驢乳を化粧に用いて膚を白くすと確信し、ポッペア(ネロ帝の后にして権謀に富み、淫虐甚だしきも当時無双の美人たり。何かのはずみに帝|赫怒《かくど》して蹴り所が悪くて暴崩した。帝これを神と崇め祀《まつ》らせ、古今未曾有の大香薪を積んで火葬せしめ、なお慕うてやまず、美少年スポルス死后に酷似せるを見出し、これを宮し婦装女行せしめ、公式もて后と冊立《さくりつ》せし事既に述べた)は、奢侈《しゃし》の余り多くの騾に金|屐《くつ》を穿《は》かせ、また化粧に腐心して新たに駒産める牝驢《ひんろ》五百を畜《か》い、毎日その乳に浴し、少し日たったものを新乳のものと取り替うる事絶えず。ローマの婦女ことごとくその真似もならず、香具師の工夫で驢乳を脂で固めて鬢附油《びんつけあぶら》ごとき板とし売った。タヴェルニエー説に、東欧のノガイ人は馬肉や馬脂を熱して金創に傅《つ》け、神効ありというと。ローマ帝国の盛時興奮剤として最も尊ばれたヒッポマネス(馬狂うの義)は、考古学者も科学者も鋭意して研究すれど今にその詳を知り得ぬ。去年英国の碩学から東洋にもかかる物ありやと問われ、種々調べたが手懸りだに見出さぬ。古書に載ったヒッポマネスに二様あり。一は牝馬《ひんば》春を思う際身分より出づる粘液を採り、呪を誦《ず》しながら諸霊草と和し薬となすものだ。ヴィルギリウスの『詠農《ゲオルギカ》』巻の三に、春色|駘蕩《たいとう》たる日牝馬慾火に身を焼かれ、高い岩に飛び上がり西に向って軟風を吸う、奇なるかなかくして馬が風のために孕まさるる事しばしばあり、爾時《そのとき》牝馬狂い出し、巌高く湍《せ》速く谷深きを物ともせず飛び越え跳び越え駈け廻る、この時ヒッポマネス馬身より流れ出づという。パウサニアスの『希臘廻覧記《ヘラドス・ペリエジシス》』五巻二七章に曰く、オリンピア廟へフォルミス・メナリウスが献納した、二つの鍮金《しんちゅう》製の牝馬像のその一に術士が魔力を附けた。因って春日に限らず何日何時どんな牡馬でもこの像を見さえすればたちまち発狂し、※[#「革+橿のつくり」、第3水準1−93−81]《たづな》を切り主に離れこの像に飛び懸りてやまず、あたかもかねて識《し》った美麗の牝馬に再会したようで、烈しく鞭《むち》うつなどの非常手段を施さねば引き分くる事ならずと。今一つのヒッポマネスは往々新産の駒の額に生えいる瘤《こぶ》で、色なく無花果《いちじく》の大きさで毒あり。駒生まれてこの瘤あらば母馬直ちに啖《く》いおわる。しからぬうちは決して乳|哺《ふく》めず。村人|方便《てだて》して母馬が啖わぬうち、切り取って方士に売る。母馬これを嗅げば発狂するという。これ駒の瘤の臭いを聞いて発狂するまで母馬が慕うてふからその瘤を持つ人も他に慕わるという迷信より媚薬として珍重したらしい。キュヴィエー曰く、これは牝馬の胎水中時に見る頑石塊で、諸獣の母が産して娩随《あとざん》を食うと同様の本能から母馬がこれを食いおわるのだろうと。右二様のうち液の方より瘤のやつが強く利くという。この話一向支那書に見えぬが、やや似た事はある。青※[#「虫+夫」、第4水準2−87−36]《せいふ》という虫は極めて子を愛し、人その子を取り帰るにいかほど隠し遠く距たっても母必ず知って来る。それから考えて、母の血を銭に塗り子の血を別の銭に塗り、いずれか一方を留め他の一方を使うと相慕い帰るというが高誘、葛洪等の説だが、『異物志』には、この虫雌雄相離れず、法を以てこれを制し雌雄の血を銭に塗って昼間物を買うと夜になって帰り来るとある。ユヴェナリスの詩に、カリグラ帝の狂死、ネロ帝の諸悪、いずれもヒッポマネスを用いしに起り、これらの大騒動帰するところは一牝馬の身より出たと見ゆ。支那でも初至の天癸から紅鉛を製し、童男女の尿より秋石を煉《ね》り、また新産児の胞衣《えな》を混元毬など尊称して至宝となし、内寵多き輩高価に求め服して身命を亡《うしの》うた例、『五雑俎』等に多く見ゆ。前日の『大阪毎日』紙に、近藤廉平氏が強壮剤は人参《にんじん》が第一てふ実験談を録しあった。大戦争で外薬輸入杜絶の後人参がたちまち声価を挙げ、また実際著しき効験《ききめ》あるは予もこれを知り、三好博士の学論をも拝読したが、永世これを珍重し来った支那でさえ、これを強壮剤として濫用するの弊を論じた者多ければ、いわゆる薬なくして常に中医を得るで、なくて済む人は用いぬに限る。
 東洋にヒッポマネスの話ありやとの問いに応じ調べると、蒙古人大急用の節、十日も火食せずに乗り続く。その間ただ乗馬の静脈を開き迸《ほとばし》り出づる血を口中に受け、飲み足りて血を止むるのみ、他の飲食なしに乗り続け得(ユールの『マルコ・ポロ』初版一巻二二九頁)。こんな奇効ある故か、道家に尹喜《いんき》穀を避けて三日一たび米粥を食い白馬血を啜《すす》り(『弁正論』二)、黄神甘露を飲み※[#「馬+巨」、424−15]※[#「馬+墟のつくり」、424−15]《きょきょ》の脯《ほじし》を食うという。これは牡馬が牝騾に生ませた子で、牡馬と牝※[#「馬+墟のつくり」、424−15]《ひんきょ》の間《あい》の子《こ》たる※[#「馬+夬」、第4水準2−92−81]※[#「馬+是」、第4水準2−92−94]《けってい》(上出の通り燕王が蘇秦に食わせた物)と等しく至極の美味と見える。これらのほかに霊薬を馬より取る事道書に見えぬようだ。
 一昨年(大正五年)十二月の『風俗』に、林若樹君が「不思議な薬品」てふ一文を出し、本邦現存最古の医書|丹波《たんば》康頼の『医心方』から引き陳《つら》ねた奇薬の名の内に、馬乳、白馬茎、狐と狗の陰茎あり。四十年ほど前予が本草学を修めた頃は、京阪から和歌山田辺(想うに全国到る処)の生薬屋に、馬、牛、猴、獺《うそ》、狐、狸、狗、鹿、鯨、また殊に膃肭獣《おっとせい》のタケリ、すなわち牡具《ぼぐ》を明礬《みょうばん》で煮固めて防腐し乾したのを売るを別段不思議と思わず。予が有名な漢方医家の本草品彙を譲り受けて保存せる中に、今も多少存し、製薬学上の参考要品に相違なければ、そのうち携えて上京し東京帝大へ献納せんと思う。当時大阪の大|薬肆《やくし》の番頭どもに聞いたは、かかる品にはそれぞれ特異の香気ありてこれを粉にして専ら香類や鬢附油に入れた由で、媚薬と言えば奇異に聞えるが、取りも直さず芳香性の興奮剤で、牡動物が牝の心を惹《ひ》くために身から出だす麝香《じゃこう》、霊猫《れいびょう》香、海狸《かいり》香、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]《がく》香等を、今も半開未開の民が強勢の媚薬と尊重し、欧米人も興奮剤として香飾にしばしば入れるに異ならず。およそ媚薬はもと医術と魔法が分立せぬ時、半ば学理半ば迷想に由りて盛んに行われたもので(今日とてもこの類の物が薬餌《やくじ》香飾等と混じて盛んに行わるるは、内外新紙の広告で知れる)、形状作用の相似た物は相互その力を相及ぼすてふ同感の見に基づく。
 国文の典型たる『土佐日記』に、筆者貫之朝臣の一行が土佐を出てより海上の斎忌《タブー》厳しく慎みおりしに、日数経てやっと室津《むろのつ》に着き、「女これかれ浴《ゆあ》みなどせむとて、あたりの宜しき所に下りて往く云々、何の葦影に託《ことづ》けて、ほやのつまのいずし、すしあはびをぞ、心にもあらぬ脛《はぎ》にあげて見せける」。この文を従前難解としたが、谷川士清《たにかわことすが》の『鋸屑譚《おがくずばなし》』に始めてこれを釈《と》いた。ホヤは仙台等の海に多く、科学上魚類に近い物ながら、外見|海参《なまこ》に酷似す。イズシは貽貝《いがい》の鮓《すし》で、南部の方言ヒメガイ(『松屋筆記』百五巻)、またニタガイ(『本草啓蒙』四二)、漢名東海夫人、皆その形に因った名で、鰒《あわび》を同様に見立つる事、喜多村信節《きたむらのぶよ》の『※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]庭《いんてい》雑録』にも見える。次に岸本由豆流《きしもとゆずる》が件《くだん》の文の「何の葦影に託けて」の何は河の誤写と発明したので、いよいよ意味が明らかになった。全く貫之朝臣が男もすなる日記てふ物を女もして見せるとて、始終女の心になりて可笑味《おかしみ》を叙《の》べたもの故、ここも水|渉《わた》るため脛《はぎ》高く掲げしかば、心にもあらで、ホヤの妻ともいうべき貽貝や鰒様の姿を、葦の影の間に映し見せたてふ、女相応の滑稽と判った(『しりうこと』第五)。また昔子を欲する邦人が渇望した肉※[#「くさかんむり/從」、第4水準2−86−64]蓉《にくじゅうよう》は、『五雑俎』十一に、群馬の〈精滴地に入りて生ず、皮松鱗のごとし、その形柔潤肉のごとし、云々、この物一たび陰気を得ば、いよいよ壮盛加わる、これを採り薬に入れ、あるいは粥を作りこれを啖えば、人をして子あらしむるという〉、また健補の功それよりも百倍すてふ鎖陽は、野馬あるいは蛟竜遺精より生じ、同前の伝説ある由『本草綱目』に出《い》づ。肉※[#「くさかんむり/從」、第4水準2−86−64]蓉は邦産なく従来富士日光諸山のサムタケを当て来り、金精《こんせい》峠の金精神がこれに依って子を賜うなど信じ、※[#「くさかんむり/從」、第4水準2−86−64]蓉の二字を略して御肉と尊称した(『本草図譜』一、坂本浩然の『菌譜』二等に図あり)。真の肉※[#「くさかんむり/從」、第4水準2−86−64]蓉は御肉と同じく列当《はまうつぼ》科に属すれど別物で、学名をフェリベア・サルサと呼び、西シベリア、蒙古、ズンガリアの産、鎖陽は蛇菰《つちとりもち》科のシノモリウム・コクネシウムで蒙古沙漠に生ず(ブレットシュナイデル『支那植物学編《ボタニコン・シニクム》』三)。いずれも、生態が菌類に酷《よく》似た密生草で、野馬群住する地に産するから馬精より生ずといわれ、菌と等しく発生が甚だ暴《にわ》かだから無夫之婦《むふのふ》などに名を立てられたのだ。
 予多くの支那旅行家より聞いたは、支那内地で金儲けは媚薬とか強壮剤とかに限る、現に日本始め南洋諸地からその種が絶えるまで採って支那へ売り込む海参《なまこ》、東海夫人《いか》、鰒《あわび》は、彼らが人間第一の義務と心得た嗣子を生ましむる事受け合いてふ霊物と確信され、さてこそかくまで重大な貿易品となったのだと。しかしこの点について、邦人が支那を笑う事もならぬ。幕政中年々莫大の金を外国へ渡して買うた薬品は、済生上やむをえぬ事と言うたものの、その大部分は、当時永続の太平に慣れて放逸縦行した無数の人間が、補腎健春の妙薬としてしきりに黄白を希覯の曖昧《あいまい》品に投じたのである。例せば支那から多量に年々輸入した竜眼肉てふ果物は、温補壮陽の妙薬として常住坐臥食い通した貴族富人が多かった。しかるに維新後、漢医法|廢《すた》れて一向この果売れず、黴《かび》だらけになって詮方なきところから、大阪でも東京でも辻商人にその効能を面白く弁じさせ、二束三文で売らせてもさっぱり捌《さば》けなんだと聞く。ちょうど同時に、大阪の鮫皮商が、廃刀令出て鮫皮が塵埃同然の下値となり、やむをえず高価絶佳の鮫皮を酢で煮《に》爛《ただ》らかして壁を塗る料にして售《う》った事もあり。さしも仙薬や宝玉同然に尊ばれた物も一朝時世の変で糞土よりも値が下がる事、かくのごときものあった。往時日本で刀剣を尊んだに付け、鮫皮を鑑賞する事夥しく、『鮫皮精義』等の専門書もあり、支那、ジャバ、前後インド諸国の産を夥しく輸入したが、予先年取り調べてペルシア海の
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