鮫皮がもっとも日本で尊ばれたと知った。而してタヴェルニエーの『波斯紀行《ヴォヤーシュ・ド・ペルス》』四巻一章に、十七世紀にペルシア人欧州と琵牛《ペグウ》の銅を重んじたが最も日本の銅を賞めたとあれば、日本の銅とペルシアの鮫皮と直接に易《か》えたら善《よ》かったのだが、当時両国間の通商開けず、空しく中に立った蘭人に巨利をしてやられたのは残念でならぬ。
 さて人間に催姙の薬あらば、畜類にもそんな物あるべしとの想像から出たものか、肥前平戸より三里ほどなる生月島《いけづきじま》に、古来牧馬場あり、かつて頼朝の名乗|生嘱《いけずき》を出すという。里伝にこの島に名馬草を産し、牝馬これを食えば必ず名馬を産めど、絶壁間に生える故馬これを求めて往々墜ちて死すと(『甲子夜話』続編五七)。その前文から推すにその処|甚《いと》危険で馬しばしば足を失するより出た話らしい。
 予在外中、維新前外国通商およびその商品について毎度調査した結果、右にほぼ述べた通り、媚薬とか房中剤とか実際不緊要な物に夥しく金銀を外邦へ失い居ると知り、遅蒔きながら何とかその腹癒《はらい》せもならぬものかと、左思右考してわずかに一策を得た。若年の時真言宗の金剛界曼陀羅を見ても何の事か分らず、在英中土宜法竜僧正から『曼荼羅私鈔』を受け読み噛《かじ》ると、塔中《たっちゅう》三十七尊を記せる内、阿※[#「門<((企−止)/(人+人))」、第3水準1−93−48]《あしゅく》、宝生、無量寿、不空成就《ふくうじょうじゅ》の四仏が嬉《け》鬘《まん》歌《か》舞《ぶ》の四菩薩を流出して大日如来を供養し(内四供養《うちのしくよう》)、大日如来|件《くだん》の四仏を供養せんとて香《こう》華《げ》燈《とう》塗《ず》の四菩薩を流出す(外四供養《そとのしくよう》)、塗《ず》とは、〈不空成就仏、塗香を以て供養す、釈迦穢土に出で、衆生を利益せんと、濁乱の境界に親近す、故に塗香を以て穢濁を清む、この故に塗香を以て供養するなり〉とあった。これで香菩薩は焼香、塗菩薩は塗香もて供養すと判った。塗香はざっと英語のアングエントに当り、医学上の立場からアンクション、宗儀上はアノインチングというらしい。油脂|牛酪《バター》等を身に塗り、邪気を避け病毒を防ぎ、また神力を添え心身を清浄にする事で、暖熱の地の民はこれを日常大緊要の務めとする者多く、豕《ぶた》の脂など塗るを地方の人が笑うと、竹篦返《しっぺいがえ》しに、汝らこれを塗らぬ故身体悪臭を放つと蔑せらるる例は毎々見聞した。それもそのはず、裸で居続くるにかかる物を塗らぬと毒虫に螫《さ》されやすく、気温が変るごとに感冒発熱するところ多い。かようの塗料を追々改良して種々の香剤を加え装飾の具と成したのが塗香で、諸宗教の威儀の具ともなったのだ。
 ただし『大英百科全書』十一版一巻|塗油《アノインチング》の条に、諸宗教諸人種の儀式皆これを用うと書いたは誤謬で、わが邦にはかつてこれを行わず、仏教の修法《すほう》に香湯に浴する事は聞くが、油脂等を身に塗ったと聞かぬ。しかるに後世髪を結《ゆ》う風大いに発達して鬢附油起る。附け処は異なるが、その製は塗香と兄弟たるもので、その材料加薬に外国品多きより推すと、けだし外国の髪油と塗香より転成したらしい。追々束髪行われて鬢附油の用少なくなり、したがって昔のごとく種類も多からず、その品も大いに劣り行くを見て、当時欧州視察に来た商人輩に、物窮すれば通ずる理窟故、鬢附油に関する口伝秘訣等が失せ果てぬうち心得置き、かつは塗香多く用いる国々の実況を視察参照し、極めて上製高尚な塗香を作ってわが邦特に調香の美術あるを示すと同時に、至って廉価ながら豚や魚の脂に優る物をも製し売り込んで、昔取られた金を取り返したら如何《いかん》と勧め、同時にマレー人等のサロング(腰巻)を安く美麗に作って持ち込めと説いたが、孔子も時に逢わずでただ一人実行せなんだ。その後十年ばかりしてサロングを積み出す人ありと聞いたが、塗香の事は今に誰も気が付かぬか手を出した人あるを聞かぬ。

     民俗 (3)[#「(3)」は縦中横]

 さて無用の用という事ありて媚薬にも種々あり。吉丁虫を支那、玉虫や鴛《おしどり》の思羽《おもいば》を日本の婦女が身に佩《お》びたり、鏡奩《かがみばこ》に入れたりするも、上に述べた諸動植物も媚薬で、甚だしきは劇性人を殺す事ヒッポマネスごときもある。いずれも美しい虫を佩びる人の容が艶《つや》多くなり、根相の物を食えば勢を強くすてふ同感説に基づいて大いに行われたが、追々経験して表面ばかり相似た物同志の間に必ずしも何の縁も同感もないと分った今日、滑稽がかって来たかかる媚薬は未開野蛮民にあらずんば行われぬ。しかるに芳香を主分とする媚薬は実際人を興奮せしむる力あれば、催春薬として利《き》かぬまでも、興奮剤として適宜これを用うれば和悦享楽の効は必ずある。全体光線や音響と異なり、香と味は数で精測しがたいから、今日の科学で十分に解らず。したがって欧米人は嗅味の二覚は視聴の二覚より劣等だとか、香と味は絵や彫刻や音楽ほどあまねく衆人に示す事がならぬから美術とならぬとかいうが、それはわが邦の香道や茶道を知らぬ者の言で、一向話にならぬ。また動物のあるもの(例せば犬)は嗅覚甚だ精しく、人間も蛮族や不具で他の諸覚を亡《うしの》うた者が鼻で多く事を弁ずるから、鼻の鈍い者ほど上等民族だなどいう。これはある動物(例せば海狸《ビーヴァー》)は、平等制ゆえ君主政治の民が上等だというに等しく、それと同時にある動物(例せば蜂蟻)は君主制ゆえ平等政治の民が上等だといい得るを忘れた論じゃ。竜樹菩薩は寛平中藤原|佐世《すけよ》撰『日本国現在書目録』に、『竜樹菩薩和香方』一巻と出で、香道の祖と尊ばる。それもそのはずこの大士ほど香より大騒動を生じ大感化を受けた者はない。『法苑珠林』五三に竜樹の成立《なりたち》を述べて、〈南天竺国、梵志の種の大豪貴の家に出づ、云々。弱冠にして名を馳せ、擅《ほしいま》まに諸国を歩み、天文地理、星緯|図讖《としん》、および余の道術、綜練せざるは無し。友三人あり、天姿奇秀なり。相《あい》与《とも》に議して曰く、天下の理義は、神明を開悟し、幽旨を洞発し、智慧を増長す。かくのごときの事は、われら悉く達せり、更に何の方を以て、自ら娯楽せんかと。またこの言をなす。世間ただ好みて情を縦《はな》ち欲を極むるを追い求むるあり、最もこれ一生上妙の快楽なり。宜しく共に隠身の薬を求むべし。事もしかく果たさば、この願い必ず就《な》らん。咸《みな》言う、善哉、この言甚だ快しと。すなわち術処に至り、隠身の法を求む。術師念いて曰く、この四梵志は、才智高遠にして大※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢を生じ、群生を草芥とするも、今は術の故を以て、屈辱して我に就く。然れどもこの人|輩《ら》、研究博達し、知らざる所は唯だこの賤術のみ。もしその方を授くればすなわち永く棄てられん。且《しばら》くかの薬を与え、これを知らざらしめん。薬尽きなば必ず来たって、師資久しかるべしと。すなわち便《ただ》ちに各《おのおの》に青薬一丸を授け、而してこれに告げて曰く、汝この薬を持ち、水を以てこれを磨《と》き、用《も》って眼臉に塗らば、形まさに自ずから隠るべしと。尋《つ》いで師の教えを受け、各この薬を磨くに、竜樹|香《かおり》を聞《か》ぎてすなわち便《ただ》ちにこれを識る。数の多少を分かつに、錙銖《ししゅ》も失うなし。還《かえ》りてその師に向い、具さにこの事を陳《の》ぶるに、この薬満ち足りて七十種あり、名字・両数皆その方のごとし。師聞きて驚愕し、その由る所を問うに、竜樹答えて言う、大師まさに知るべし、一切の諸薬は自ずから気分あり、これに因りてこれを知る、何ぞ怪しむに足らんやと。師その言を聞き、いまだかつてあらずと嘆じ、すなわちこれなる念《おも》いを作《な》す。この人の若《ごと》きはこれを聞くもなお難し、いわんや我親しく遇いたり、而してこの術を惜しまんやと。すなわちその法を以て具さに四人に授く。四人法に依りて此の薬を和合し、自ずからその身を翳《かく》し、游行自在なり。すなわち共に相|将《ひき》いて、王の後宮に入る。宮中の美人、皆侵掠され、百余日の後、懐妊する者|衆《おお》く、尋《つ》いで往きて王に白《もう》し、罪咎《ざいきゅう》を免れんと庶《ねが》う。王これを聞き已《おわ》りて、心大いに悦ばず、云々。時に一臣あり、すなわち王に白《もう》して言う、およそこの事は応《まさ》に二種あるべし。一はこれ鬼魅にして、二はこれ方術なり。細土を以て諸門の中に置き、人をして守衛せしめ往来する者を断つべし。もしこれ方術なれば、その跡自ずから現わる。設《も》し鬼魅の入るならば、必ずその跡無からん。人なれば兵もて除くべく、鬼なればまさに祝《いの》りて除くべしと。王その計を用い、法に依りてこれを為すに、四人の跡、門より入るを見る、云々。王勇士数百人を将《も》って、刀を空中に振るわしめ、三人の首を斬る。王に近きこと七尺の内に、刀の至らざる所あり。竜樹身を斂《おさ》め、王に依りて立つ。ここに於て始めて悟る、本の苦を為さんと欲して、徳を敗り身を※[#「さんずい+于」、第3水準1−86−49]辱《おじょく》せりと。すなわち自ら誓いて曰く、我もし脱るるを得て、この厄難を免るれば、まさに沙門に詣《いた》って出家の法を受くべしと。既に出て山に入り、一仏塔に至り、欲愛を捨離し、出家して道を為《おさ》む。九十日にして閻浮提のあらゆる経論を誦し、皆ことごとく通達す〉。それより竜宮に入って深奥の経典を得、大乗の祖師となり、大いに仏法を興したそうだ。隠行の香薬とは、支那で線香を焼《た》いて人事不省たらしめて盗みを行う者あるごとく、特異の香を放ち、守衛を不覚にして宮中に入ったのであろう。
 日本戒律宗の祖鑑真は唐より薬物多く将来し、失明後も能《よ》く嗅《か》いで真偽を別ち、火葬の節異香山に満ちた。元興寺《がんごうじ》の守印は学|法相《ほっそう》、倶舎《くしゃ》を兼ねた名僧で、不在中に来た客を鼻で聞き知った。勝尾寺の証如《しょうにょ》は過ぐる所の宅必ず異香を留め、臨終に香気あまねく薫じた。その他名僧名人に生前死後身より妙香を出した伝多きは、その人香道の嗜《たしな》み深く、その用意をし置いたらしい。木村重成ら決死の出陣に香で身を燻《くん》じた人多く、甚だしきは平定文《たいらのさだぶみ》容姿言語一時に冠絶し「人の妻娘|何《いか》に況《いわん》や宮仕へ人は、この人に物いはれざるはなくぞありける」(『今昔物語』)。しかるに本院の侍従にのみ思いを遂げず、その欠点を聞いて思い疎《うと》みなばやと思えど何一つの欠点を聞かず。因ってその不浄を捨てに行く筥《はこ》を奪い嘗《こころむ》るに、丁子《ちょうじ》の煮汁を小便、野老《ところ》に香を合せ大きな筆管を通して大便に擬しあったので、その用意の細かに感じ、いかでかこの人に会わずしてはやみなんと思い迷うて焦《こが》れ死んだと見ゆ。以て以前邦人が香の嗜み格別で、今日|雪隠《せっちん》へ往って手を洗わなんだり、朝起きて顔を洗わずコーヒーを口に含んで、歯垢《はくそ》を嗽《すす》ぎ落して飲んでしまう西洋人と、大違いたるを知るべし。
 ただし最《いと》古く香の知識の発達したはまずアジア大陸諸国で、支那の『神農本草』既に香剤を収めた事多く、『詩経』『離騒』に芳草しばしば見え、返魂《はんごん》招仙に名香を焼《た》く記事を絶えず。一七八一年ビルマに滅ぼされた旧帝国アラカンの盛時、国中に十二殿ありて、十二町に散在す。各町の知事毎年その町良家新産の女児を視《み》て最も美な者十二人を選び、殿中に養い歌舞を習わせ、十二歳の始めにこれを王宮に進め、旧制に従《よ》って試験を受く。まず娘どもを浴《ゆあみ》させ新鮮潔白な絹衣を着せ、高壇に上って早朝より日中まで立たしむると、熱国の強日に曝《さら》され汗が絹衣に徹《とお》る。一々それを新衣に更《か》えしめ、汗に沾《うるお》うた絹衣を収め
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