て王に呈す。それには予《かね》て着た本人の住所と父の名を書き付け居る。王一々これを嗅《か》いで汗の香|好《よ》き娘は強壮と知って宮に納《い》れ、好からぬはその絹衣を侍臣どもに渡すと、侍臣各々王から受けた衣に書き付けた名の娘を妻として伴《つ》れ去ったので、アラカン王は代々美貌よりも香好き女を貴んだのだ(一五八八年版、ラムシオの『航記紀行全集《ナヴィガシヨン・エト・ヴィアッジ》』一巻三一六頁)。インドで女をその身の香臭で四等に別つ。最上は蓮花《れんげ》、その次は余の花、次は酒、次は魚だ(一八九一年版、ラ・メーレッス仏訳『カマ・ストラ』一四頁)。愛の神カマ、五種の芳花もて飾った矢を放って人を愛染す。その一なる瞻蔔迦《ちゃむばか》の花香|能《よ》く人心を蕩《とろ》かす。故に節会《せちえ》をその花下に開き、青年男女をして誦歌相|誘《いざな》わしむ。大日如来が香華燈塗の四菩薩を出して四仏を供養するは上に述べた。『維摩経《ゆいまぎょう》』には聚香世界の香積仏が微妙の香を以て衆生を化度し、その世界の諸菩薩が、娑婆《しゃば》世界の衆生剛強度しがたき故、釈尊が当り強い言語で伝道すると聞いて呆《あき》れる一段あり(近年まである学者どもは蟻は香を出して意を通じ言語に代うと説いた)。かく行いかく言った東洋人には、遥かに西洋人に優れた香の知識があったので、自分らには解らぬ事を下等とか野鄙《やひ》とか卑蔑するのが今日西洋の文化或る点において退却を始めおる徴《しるし》じゃ。しかし以前はさっぱり取るに足らぬように言った日本の三絃を、音楽の最も発達した一つと認め、日本の香道をも彼らに解らぬながら立派な美術と見る論者も西洋に出でおるから、皆まで阿房《あほ》でないらしい(『大英百科全書《エンサイクロペジア・ブリタンニカ》』十一版、美術と音楽の条参照)。
日本人、上古専ら水で洗浴して身を潔《きよ》めたが、香水薫香等で荘厳した事はないらしく――実は清浄の点から言えばそれがよいので、中古の欧人などは身を露《あら》わすを大罪とし、むやみに香類で垢《あか》を増すのみ。洗浴を少しもせず、聖僧の伝記に浴せざる年数を記してその多きを尊んだくらい故、三世紀の疥癬《かいせん》大流行など自然の成り行きで、シェテレやパルセヴァルやトリスタンやイソールト、その世に称揚された美人好男いずれも千載一洗せぬ乞丐《こじき》的の人物だった由ミシュレーが言った――日本に調香の知識が開けたは、漢土天竺の文物が輸入されたに始まったらしい(『仏教大辞彙』一巻香の条、久米博士『日本古代史』八二節、推古帝|菟田野《うだのの》の薬猟《くすりがり》の条)。それが追々発達改善されて世界最精の香道となったが、調香の主な材料は始終外国品多かったは『薫集類抄』等で判り、いずれも日本へ移殖のならぬもの故やむをえぬ事ながら、鉄漿《かね》蓴汁《じゅんじゅう》など日本産の間に合う物は自国のを用い、追々は古方に見ぬ鯨糞などをも使う事を知り用いた。『徒然草』に、「甲香は宝螺貝のやうなるが、小さくて口のほどの細長にして出でたる貝の蓋《ふた》なり、武蔵《むさし》の国金沢といふ浦にありしを、所の者はへなたりと申し侍《はべ》るとぞいひし」(『鎌倉攬勝考』附録に図あり)。その頃まで邦産なしと心得輸入品を用いおったが、ようやく右の地で捜し出たらしく、古人苦辛のほど察すべし。この※[#「厭/甲」、第4水準2−3−56]《へた》ばかり焼《た》けば臭《かざ》悪《あ》しきも、衆香に雑《まじ》えて焼かば芳を益《ま》し合香に必須だ。ベーカーの説に、かかる※[#「厭/甲」、第4水準2−3−56]《へた》紅海にも産し、ある海藻とともに諸香に合せ婦女の身を燻《ふす》ぶると、猫に天蓼《またたび》ほど男子を惹き密《つ》くる由。
以上は上流社会に行われた香道の譚で、絵で言えば土佐|狩野《かのう》のように四角張ったものだが、鬢附油の匂いに至っては専ら中下の社会を宛《あ》て込んで作ったちょうど浮世絵様の物なれば、下品といえば下品なると同時に、人に感受さるる力も強く、また解りやすい。因って鬢附油の口伝秘訣等から考えて、これと兄弟ほど近類なる塗香を、その国々の好みに応じて作り出し売り試みよと人々に勧めた事であった。その調剤の次第については種々聞き書きまた考え置いた事もあるが、自分の家代々長生なりしに、父がよせば善《よ》いのに一代分限を起して割合に世を早くしたから、父も儲けざあ死ぬるまい、金が敵《かたき》の世の中と悟り、あいなるべく金の儲からぬ工夫を専一にしおれば、余り金になりそうな話をするを好まぬ。ただわが邦の人の眼界|甚《いと》狭く、外人が先鞭を着けた跡を襲踏するのみで、われより先例を出す事少なきを笑止に思い、二十余年既に予に右様の思案が泛《うか》みいたてふ昔話を做《な》し置く。
香材の出処実に思いのほかなるもありて、一九〇三年版マヤースの『|人品および身死後その残存論《ヒューマン・パーソナリチー・エンド・イツ・サーヴイヴァル》』巻二第九章附録に、精神変態な人が、頭頂より二種の香液を他の望み次第出した記事と弁論あり。予これを信ぜなんだところ、七、八、九年前の毎春引き続き逆上して頭|腫《は》れ、奇南香また山羊にやや似た異香液不断出た。人により好き嫌いあるべきも、香油質のやや粘ったもので、予自身は甚だ好きだったが、医者が頑癬《たむし》の異態だろうとて薬を傅《つ》けても今に全癒せぬが、香液は三年切りで出でやんだ。人畜の体より出て、塗香に合すべき見込みあるもの多きもここに述べ得ず。ただ麝、麝鼠、麝牛、霊猫、海狸《ビーヴァー》等の体より分泌する諸香に遠く及ばねど、諸獣の胆や頑石や牡具の乾物も多少その用に充《あ》て得と言い置く。レオ・アフリカヌスはアフリカのセネガ人馬を得れば塗香の呪言|誦《ず》しながらその馬の全身に塗ると書いた。
昨年死んだ英国の地主マシャム男は、遺産百一万六千百五十ポンド十一ペンスてふ大富人だった。その遺言状に、騎馬競馬から車用馬まで飼馬残らずわが死後決して売却また贈遺すべからず、必ずことごとく撲殺すべしとあった由。大正六年の英国華族にすらこんながある。古文明国や、今の蛮地で馬を人に殉葬したればとて怪しむに足りぬ。南米パタゴニア人の例は上に挙げた。十三世紀に蒙古に遊んだ天主僧プラノ・カルピニの記に、その貴人死ねば天幕の真中に屍骸を坐らせ、鞍置き※[#「革+橿のつくり」、第3水準1−93−81]《たづな》附けた牡馬牝馬と駒各一疋を添え葬り、別に一牡馬を殺してその肉を食い、皮に藁を詰め棒|尖《さき》に刺して立て、死者が冥界にあってもこの世と斉《ひと》しく天幕に住み母乳を飲み、牡馬に乗り馬を飼い殖やし得と信じた。今日もシベリアのブリヤット人死ぬとその乗馬を殺し、もしくは放ち、コーカサス人、夫死すればその妻と鞍馬《あんば》をして三度その墓を廻らしめ、爾後寡婦も馬もまた御せらるる事なからしむ。これ昔馬を殉葬した遺風だ。
前項に引いた通り、仏書に、人が父母を殺さば無間地獄に堕ちるが、畜生が双親を殺したらどうだとの問いに答えて、聡慧《そうけい》なる者は落つれどしからざる者は落ちずとあるごとく、馬に取っては迷惑千万だろうが、その忠勤諸他の動物に挺《ぬき》んでたるを見込み、特別の思し召しもて、主人に殉し殺さるるのだ。タヴェルニエーの『波斯紀行《ヴォヤーシ・ド・ペルス》』四巻十章に、アルメニアの熱心なキリスト教徒が、聖ジョージ祭に、一週間の断食を行うはよいが、中には馬にも強行した者ありとは、ありがた過ぎて馬が哭《な》いたであろう。ボスウェルが博士ジョンソンに老衰した馬の処分法を問うた時の答書に、人間が畜《か》った物ゆえ力の強い間馬を働かすが正当だが、馬老衰と来ては処分が大分むつかしい、ただし牝牛を畜って乳を取り羊を養って毛を収め、とどのしまいに殺し食うたって異論なし、それと同理でまず馬を働かせ、後に苦もなく殺しやりて、他の馬を畜い牛羊を飼うに便にするに四の五のないはずだ、もし馬を殺す人馬の功を忘ると言わば、牛羊を殺すもまた功を忘るるものならんと述べて、なるべく苦患少ないよう殺しやれとあったと記憶する。斉の宣王が羊を以て牛に易えた了簡と大分|差《ちが》うようだが、ジョンソンの言自ずからまたその道理あり。馬を殉葬した人間の思惑は大要ジョンソンと同じく、犬羊馬豕|斉《ひと》しく人が飼った物で人に殺さるるは当然ながら、ややその功軽き羊豕等は毎度その用あるに臨んで、たやすく殺しすなわち忘らるるに反し、大事の場合に主君の命を全うすべき良馬は現世で優遇された報恩に、来世までも御供していよいよ尽忠すべしというのだ。
一三〇七年筆ハイトンの『東方史』四八章に、韃靼人は殺人を罪悪とせず。しかるに馬が物を食う時鼻革を脱ぎやらず、食事自由ならざらしむるを上帝に叛《そむ》く大罪とすとあり。タヴェルニエー言う、ノガイ人は、馬を飼いて餓渇に堪えしめ、その蹄堅くして蹄鉄を要せず、土や氷の上に足跡を印する事あたかも蹄鉄を附けたるがごとし、ただしかく育て上ぐるは難事ゆえ、五十匹の中わずかに八疋十疋のみ成功す、征行に良馬のほかに凡馬二、三を伴れ騎《の》り、大事あるにあらずんば決して良馬に乗らずと。アラブ人がもっとも馬に親切なるについて珍譚多し。例せば駒生まるる時|傍《かたわら》に立った人手で受け取り、地上に落さざらしむという。これに似た事、欧州で神木とし霊薬とした槲寄生《ほや》を伐り落すに白布で受け決して地に触れしめず、触れたらその効力|亡《な》しといい(グリンム『独逸鬼神誌《ドイチェ・ミトロギエ》』四版二巻)、燕の雛《ひな》がその母鳥に貰い腹中に持つ霊石は、その雛が土に触れぬうちに取らずば薬用に堪えずと一六五五年ライデン版『ムセウム・ウォルミヌム』七二頁、一六〇九年初版ボエチウスの『玉石論《デ・ゲムミプス・エト・ラピジブス》』四三九頁、共にプリニウスの『博物志』三十七巻を引き居るが、予プの書全篇を幾度も通覧せるも一向見当らぬ。けだし中世そんな俗伝あったのを、プの書は博綜を以て名高い故、こんな事なら大抵載せ居るはず位の見当で塗り付け置いたらしい。邦人が一汎に和漢書よりは精確と想う欧州書にもこんな杜撰《ずさん》が往々《まま》あるから孫引きは危険千万と注意し置く。カンボジヤの俗信に竹の梢《こずえ》に或る特種の蘭が寄生すると、その竹幹中に一の小仏像が潜みある、尿で潤した布片でその幹を巻き竹を割るとこれを獲る。これを家に置けば火災に遇わず、口に含めば渇かず、身に佩《お》ぶれば創《きず》を受けず。ただし右様の用意せずに割れば、かの像竹から地下へ抜け失せしまうという(『仏領交趾支那《コシャンシン・フランセーズ》雑誌』一六号に載ったエーモニエの『柬埔※[#「寨」の「木」に代えて「禾」、441−1]《カンボジヤ》風習俗信記』一三六頁)。
かく、土|能《よ》く諸物の精力を摂《と》り去り、霊異の品時に自ら地下へ逃げ去らんとすてふ信念より、駿馬の駒また地へ生み落さるればその力を減ずとしたのだ。パルグレーヴの『中央および東部アラビア紀行』十章に、アラブ人が駒産まるるところを受け抱いて地に落さざらしむとか、主人と同席で飲食するとか、人馬|親昵《しんじつ》する奇譚どもを片端から皆嘘のように貶《けな》したが、それは今日来朝の外人が吉野高尾ほどな文才ある遊君《ゆうくん》に会わず、人に大便を拭《ふ》かす貴族の大人をも見ぬからとて、昔もそんなものは全く日本になかったと即断すると同然、今に則《のっと》って古を疑う僻見《へきけん》じゃ。一八六四年版、ピエロッチの『パレスタイン風俗口碑記』に、アラブ人が馬を愛重する有様などを尤《いと》面白く書いた。とても拙毫《せつごう》の企て及ぶところでないが、その概略を左に訳出しよう。
アラブ人は諸畜の中のもっとも馬を貴び、患難にあっても栄華にあっても最も人に信あるものとす。その蕃殖《はんしょく》にもっとも注意を尽くせど、各部族その種馬を惜しみ、他部族の牝馬と交わらざらしむる故、馬種の改善著しく挙が
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