らず。アラブ輩、馬殊に牝馬を親愛する事非常で、家族と同棲せしめ決してこれを打たず。自分の手また衣の襞《ひだ》より食を取らせ、談話も説明するあたかも人に対《むか》うに異ならず。善く教練して絆《つな》がざるに去らず。招き呼べば直《じき》来り、主人の許可なしに騎る者あらば主人の相図を見てすなわち振り落さしむ(インドでもマーラッタ人は馬を慣らして主人を立ち待たして数時間石のごとく動かざらしむ、かつて辺《あたり》に人なく主人を立ち待たせる馬を盗み騎り走る者あり、主人遠くより望み見て予定の合詞《あいことば》を掛くると、馬たちまち止まって盗人どうあせっても動かず、やむをえず下乗して自分の膝栗毛《ひざくりげ》で駈け去ったとチュボアの『印度風俗志《ヒンズ・マナース》』二に出《い》づ)。種馬や牝馬病む時は一家ことごとく心痛し、さしも猛性のベダイ人(アラブ中もっとも勇烈な部種)も、ために温和となり、馬一たび喘《あえ》げば自分も一たび喘ぐほどだ。かつて一牝馬難産のところへ行き合せしに、その部の酋長これを憂うる事自分の母におけるごとく、流涕《りゅうてい》して神助を祷《いの》れば牝馬これに応じてことさらに呻吟《しんぎん》するようだった。アラブ人馬掛けて誓う事|希《まれ》だが、もし馬掛けて誓えば命を亡うまでも約を違《たが》えず。予ベダイ輩を護身卒に傭《やと》うに、ただ牝馬を援《ひ》いて誓わしめたが、いかな場合にも誠を尽し、親切に勤めた。貴種の馬は今甚だ少なくなる。その父母共に貴種ならずば承知せぬ風ゆえ、部族の酋長か高名の人の証明を要し、かかる証書と系図と守札を容れた嚢《ふくろ》を馬とともに売買し、その頸に掛くる。
 アラブの馬は、皆去勢せねど性悪しきもの少なく、また耳も尾も截《き》らず、臨終|際《ぎわ》までも活溌猛勢だ。牡馬よりも牝馬が好かるる訳は、駒を産んで利得多いからよりは、牝馬は嘶《いなな》かず、夜襲などの節敵に覚られぬからだ。アラブ馬のもっとも讃《ほ》むべき特性は、その動作の靱《しな》やかな点で、他にこれよりも美麗駿速な馬種なきにあらざるも、かくまで優雅|軽捷《けいしょう》画のごとく動く馬なし。十また十二歩離れた壁を跳び越え、騎手の意のままに諸方に廻り駈け、見物人の称讃を求むるようだ――熊楠いう、『千一夜譚』第四七夜に、女子九フィートの溝《みぞ》を跳び越ゆるを追う王子の馬跳び越え能わぬ事あり。バートン注に、アラビア馬は跳ぶ事を習わずと。どちらが本当か知らぬが、先はピエロッチが見たパレスタインのアラブ馬は、アラビア本土のアラブ馬と性も芸も多少|差《ちが》うと見える――アラブ人が好む騎戦戯にはその馬叫喚飛棒の間に馳《は》せて進退最も見るべく、十分戦争を解するものに似たり。さて真の接戦に参しては、その敏捷迅速なる動作、能く主人をして敵の兵刃を避けしむる手練その主の武芸に優るあり。かつて親《まのあた》りベダイ人を載せた馬が銃火を潜《くぐ》りて走るを見しに、軽く前脚をあげたり、尻を低くしたり、動くごとに頭頸を昂《たか》くして騎手のために弾丸を遮るようだった。またしばしば騎手が足を鐙《あぶみ》の力皮に絡《から》まれながら落馬した時、馬自分動けば主を害すと知りてたちまち立ち止まるを目撃し、また日射病で落馬した騎手の傍に立ちて、その馬が守りいた例を聞いた。また自分ごく闇夜乗馬のおかげで道を求め中《あ》て、厄《やく》を免れた事あり。アラブ馬|猛《たけ》しといえども、軍士と等しく児女や柔弱な市人をも安心して乗らしむ。予の言を法螺《ほら》と判ずる人もあろうが、誰でもベダイ人間にやや久しく棲んだらその虚ならざるを知らん。『聖書』ヨブ記に軍馬を讃《たた》えた文句正しくアラブ馬の現状を言い尽した(その文句は「汝馬に力を与えしや、その頸に勇ましき鬣《たてがみ》を粧いしや、汝これを蝗虫《いなご》のごとく飛ばしむるや、その嘶く声の響きは畏《おそ》るべし、谷を脚爬《あがき》て力に誇り自ら進みて兵士に向かう、懼《おそ》るる事に笑いて驚くところなく、剣に向かうとも退かず、矢筒その上に鳴り鎗に矛《ほこ》相|閃爍《きらめ》く、猛《たけ》りつ狂いつ地を一呑みにし、喇叭《らっぱ》の声鳴り渡るも立ち止まる事なし、喇叭の鳴るごとにハーハーと言い、遠くより戦闘を嗅《か》ぎつけ、将帥の大声および吶喊《とき》の声を聞き知る」と言うので、そのハーハーがいけない直訳だと上に述べ置いた)。
 アラブ人殊に牝馬を重んじ、大金を見ても売らぬ事多い。これ牝馬人よりも能く災難を前知し、吹き去り寄せ替わる砂の上に人の認め能わざる微細の標識を見分けて、広大な沙漠に人|栖《す》む天幕を尋ね当て、曠野に混雑する音響を聞き分けて、敵寇の近づくを知り、終日飲食せず息《やす》まず走りて主人を厄より脱し、旅を果さしむるからだ。ベダイ人もっとも牝馬を重んじ、これを買わんとして価を問うも真の事と信ぜず。これは貴君に差し上ぐるというような返事をする。二度目に繰り返し問うも何の答えもせず、よい加減なごまかしで済ます。三度目に問うと心|瞋《いか》って苦笑し、この牝馬を売るよりはわが家族を売ろうという。これは詼謔《おどけ》でなく、ベダイ人の癖として、友と離るるよりは好んで父母を質に渡す。もし不幸の際やむをえず牝馬を売る事ありとも、これを国外へ渡してのち子を生まぬよう施術せずに手離す例ありやすこぶる疑わし。また買い手が代価を議する前、売り手の双親一族親友輩がその馬の売却に異議なきやを確かむるを要す。然《しか》せざれば代金支払い後難題起り、またその馬を盗まる。また買い手はその馬生子に適する旨と、その体のどの部分をも要求すべき権利ある者一人もなき由の保証を取り置くべし。けだしベダイ人大いに金に不自由を感ずる時、その持ち馬の身の諸部を売って容易に金を手に入れる。右前脚は誰、左前脚は誰、後脚は某々、尾は某、耳は某という風に一疋の馬を数人に売り、その人々その持ち分に応じてその馬の労力や売却の利を分ち享《う》けんと構え居る。この風を心得ず牝馬を一人の物と思い、その人に価を払い済ませて後、その馬の耳とか尾とかの持ち主現われ、その持ち部の価を請求されて払わず、すったもんだと争い、地方官へ訴えても土地の風習是非なしとて取り上げず、甚《いと》迷惑する事あり。また住地近辺の聯合《れんごう》諸部の酋長どもと懇意な中でその公許を得たのは格別、さもなくて牝馬の躯の一、二分をだに自分方へ保留せず全部を売却した者は、到る処人に嫌われ暗殺の虞《おそれ》さえある故、重罪犯者同様その土地を逐電するほかに遁《に》げ路ない。牡馬を買うは牝馬ほど難からねど、なお如上の作法を踏まねばならぬ。以上は血統純粋な駿馬を購《か》う場合の事で、劣等の馬を買うは容易な事である。
 右のピエロッチの文中、牝馬が殊に能く人の災難を予知し、微細の蹤《あしあと》を認め音響を聞き分くるといえるは、牝犬が牡よりは細心甚だしく、盗人|防禦《ぼうぎょ》にもっとも適すると同義らしいが、牡馬もまたかかる能あるはほぼ前に述べた。俗語に一事が万事と言う。推理の正確ならぬ民は一能ある者は万能ありと思うが常で、右様の能が馬にあるより、馬の関知せぬ事までも馬に問うようになり、馬占《ヒッポマンシー》が起った。古ケルト人もっともこれを信じ、特別の白馬を公費もて神林中に蓄《か》い、大事あるに臨みこれを神車の直《じき》あとに随わしめ、その動作|嘶声《しせい》を察して神意を占うた。サキソン人も一白馬を神廟に蓄い、戦前祈祷してのち僧がこれを牽き出し、槍を逆さまに三列に立てたるを横ぎり歩ましむるに、右足まず踏み出せば勝利だが、左足まず出せば敗兆と断じ出陣を見合せた(コラン・ド・プランシー『妖怪字彙《ジクショネーランフェルナル》』四版二四二頁等)。本朝にも住吉は軍神たり、世に事あればそこに飼う神馬見えず。享徳二年八月伊勢、八幡、住吉三社の神馬同時に死す、応仁大乱の前表という(『和漢三才図会』七四)。大乱の初まりより十四年昔で、前表もこのように早手廻しではかえって間に合わぬ。「妹《いも》が門|出《いで》入《い》る河の瀬を早み、駒ぞ躓《つまず》く今恋ふらしも」人に恋《ほれ》らるる人の乗る馬は躓く由(『俊頼口伝集』上)。予など乗らぬが幸い、もし乗ったらけだし躓き通しだろう。
『郷土研究』一巻八号斎藤真氏説に、陸前の駒ヶ嶽、毎年消え残りの雪が白い奔馬形を現わす、これを見て年の豊凶を占う農夫もある由。『著作堂一夕話』に出た富士の残雪、宝永山辺|凹《くぼ》かな処に人形を成す年は豊年で、見えぬ年は凶作、これを農男と名づくとあるに似居る。『郷土研究』同巻九号で見ると、陸中と秋田境の駒形山も毎年雪解け時に、その八合目ほどの処に白馬踊る体を現ず。昔神がここへ乗り捨てた馬が故郷を恋うて顧み嘶くのだそうで、その姿を見て農家が農事を候《うかが》う。これらと相似れど、京都東山の大文字火同然人造に係る壮観が英国にある。そのバーク州の白馬《ホワイト・ホールス》というは、絶頂の高さ海抜八五六フィートある白馬山の北側|巓《いただき》より少し下に塹《ほ》り付けた長三七四フィート、深さおよそ二フィートの巨馬像で、面積二エーカーほどあり。『北※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]瑣談』二に東山に七月十六日の夜立つる大文字の火唐土にもなしと孔雀先生も書き置かれたり、横の一画二十九丈、左の画四十九丈二尺、右の画四十七丈七尺八寸、余も如意嶽《にょいがたけ》に上り、その穴を見しが広大なる物なりとあれば、日本の方が勝ちらしい。件《くだん》の馬像は、輪廓もっとも麁末《そまつ》ながら、表土を去って白堊を露わす故、下の谷から眺むれば、十分馬跳ぬるところと見える。東山の大文字火は古え北辰を祭った遺風というが(『嬉遊笑覧』十)、この白馬像は由来分らず。アルフレッド大王がデーン人に大勝の記念物といえど、実はローマ人の英国占領よりも古いらしい。所の者どもたびたび像内へ草木が生え込むを抜き浄め、以前はその時|節会《せちえ》を設け種々の競戯し、近隣のみかは、英国中より勇士来集して土地の勇士と芸競べせしも、何となくやんでいまだ六十年にならぬ。
 熊楠いう、これは我邦に多き駒形明神駒形石(『木曾路《きそじ》名所図会』信州塩灘駅条下に出《い》づ、『山島民譚集』一参照)と等しく、上世馬を崇拝した遺跡であるまいか。古欧州で馬崇拝の例、ギリシアの海大神ポセイドン、農の女神デメテル、いずれも本は馬形で、ガウル人は馬神ルジオブス、馬女神エポナを崇《あが》めた。欧州諸国で馬を穀物の精とする例多し。これ主に馬は農業に古くより使われたからだろう。またインドで曙光《しょこう》神アスヴィナウは、日神スリヤその妃サンニアと牡馬牝馬に化けて交わり生んだので三輪の驢車に乗り、日神自身は翡翠《かわせみ》色の七頭の馬に一輪車を牽かせて乗ると類似して、ギリシアの日神ヘリオスは光と火を息《いき》する四の雪白馬が牽く車に乗る(第六図[#図省略])。第七図[#図省略]は、デンマーク国古青銅器時代の青銅製遺物で、馬が日の車を牽くを示すらしく、その日に充《あ》てた円盤に、黄金を被せ、美なる螺旋状飾紋あり。
『風俗通』に、馬一匹という事、馬を度《はか》ると一匹長かった故とか、馬死んで売ると帛《きぬ》一匹得たからとか種々の説を列べた中に、〈あるいはいわく、馬は夜行くに目明るく前四丈を照らす、故に一匹という〉とある。それに劣らず怪しい説が西洋の俗間に行われ、馬の眼に物大きく見え、人も巨人と見えるから馬を御し能うという。それにどうしても人に従わぬ馬あるは、その眼の水晶体平らにて物大きく見えぬものか。しからば眼鏡を掛けさすがよい。ただし馬の眼果して物を大に視るとするも、何もかも皆廓大さるるから諸物大小の割合は少しも常態を外《はず》れず、人は馬の眼に依然他の馬より小さく見えるはずと論じた人あり(一九一六年六月二十四日の『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』五〇九頁)。この事は『安政三組盃』てふ講談筆記にもあれど、日本で伝うるところはやや西説と異なり、
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