奔馬の前へ人が立ち向えば、その人のみ馬眼に非常に大きく見えるというので、水晶体の何のと物理学上の論でなく、心理学上の事と思う。前項に述べた通り、馬ほど喪心しやすき畜生なきと同時に、この損点がまた得点となりて、たちまち眼前へ立ちはだかった人を極めて怖るる余り、畏れ入りて静まり落ち着くのかと想う。
 田辺町に名高い○永とて不具の痴漢五十余歳で数年前死んだ。この者いかに狂う馬の前でも何の恐るるところなく進み出て、これを静むる事百に一を失わなんだが、死する前に一回遣り損ない指を噛まれた。この痴人年老いて馬を制する力衰えたのか、馬の素質に種々あるのかちょっと分らぬが、面白い研究問題じゃ。古い小栗の戯曲《じょうるり》(『新群書類従』五)に、判官「畜生には叶《かな》わぬまでもせみょう(宣命か)含めると聞く、某《それがし》がせみょうを含めんに心安かれ」とて、そのせみょうの詞を出し居る。多少そんな術が利《き》いたのだろう。『甲陽軍鑑』巻十六に、馬の百|曲《くせ》を直すよう云々、左の頸筋に指にて水という字を書き、手綱をよく握りてすなわち不動の縛の縄|観《かん》じて馬の額に取鞆[#「取鞆」に白丸傍点](?)で卍字を書く、同じ鞭先を持ち、随え叶えと三遍唱えて掲諦《ぎゃてい》掲諦はらそう掲諦ぼうしい娑訶《そわか》と唱えて飼えば、いかなる狂馬も汗をかき申すべきなり秘すべしとあるが、今時そんな真似をすると人自身の方が狂馬のように見える。
 この篇発端に、梵授王が命を救われた智馬に半国を分ち与えんとした事を述べたが、支那でも〈人難を免るるは、その死なり、これを葬り帷を以て衾と為す、馬功あれば、独《ひと》り忘るべからず、またいわんや人においてをや〉(『淮南子』)といった。従って名馬を廟祀《びょうし》し、封官し、記念のために町を建てた外国の例を初めの項に出した。本邦でも秀吉の馬塚(『摂陽群談』九)、吉宗の馬像(『甲子夜話』五一)、その他例多く、馬頭観音として祀《まつ》ったのも少なからぬ。富田師の『秘密辞林』に、これは明王《みょうおう》観音両部属の尊で、馬口呑納余さざる※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食《かんしょく》の義と、飢馬草を食うに余念なき大悲専念の義と、慈悲方便もて大忿怒形を現わし、大威日輪となりて(上に引いた日神スリアの事参照)、行者の暗冥を昭《てら》し、速やかに悉地《しっち》を得せしめんとする迅速の義と三あり、今世俗に馬の守護神として尊崇せられ、馬の追福のためにその石像を路傍に建つる由言い居る。けだし仏教つとに三獣の喩あり、兎や鹿は水を渡るに利己一辺だが、馬は人を乗せて自他ともに渡る。そのごとく声聞《しょうもん》や縁覚《えんがく》よりは菩薩|迥《はる》かに功徳殊勝なりとし、観音救世の績殊に著しいから、前述五百商人を救うた天馬などをその化身とし、追々馬は皆観音の眷属としたのじゃ。『天正日記』に奉行青山常陸介の衆の馬、浅草観音寺内に乾《ほ》した糒《ほしいい》を踏み散らし、寺家輩と争論となる、常陸衆、観音の眷属たる馬が観音の僧衆の料を踏んだればとて、咎め立てなるまじと遣り込め閉口せしめたと出づ。欧州と等しくアジアにも馬を穀精とする例、インドのゴンド人クル人は、穀精として馬神コド・ペンを拝す。初午《はつうま》の日、穀精の狐神をわが国で祭る(『考古学雑誌』六巻二号拙文「荼吉尼天《だきにてん》」参照)。維新前はこの日観音をも祀ったのが多い。スウェン・ヘジン説にチベットの聖山カイラスへ午歳《うまどし》ごとに参詣群集を極むとあるも、馬と観音の関係からだろう(一九〇九年版『トランス・ヒマラヤ』巻二、一九〇頁)。
 さて北アジアの諸民族に尊ばるるシャーマンは、やや奥州の馬形の巫神オシラサマに似た馬頭杖を用いて法を行い、霊馬に乗って冥界に馳せ往き、神託を聴き返ると信ぜられ、わが邦にも巫道に馬像を用いたらしく、『烏鷺合戦物語』に「寄人は今ぞ寄せ来る長浜や、葦毛の駒に手綱ゆりかけ」てふ歌あり、支那人も本邦の禅林でも紙馬を焼き、インドのビル人は山頂の石塚に馬の小土偶を献ずれば、死者の霊その像の後の小孔より入りて楽土に騎《か》け往き馬を土地神に与え、その軍馬を増すと信ず。これらいずれも以前馬を殺して死人に殉葬したり、神に牲供した遺風だ。
 専ら野馬を猟りて食った時代は措《さしお》き、耕稼乗駕馬を労する事多き人が、その上にもこれを殺し肉を食い皮を用いなどするは、創持つ足の快からぬところから出で来った馬鬼の話が諸国に多い(『山島民譚』一参照)。それがまたことごとく人鬼に擬《まね》て作られ居る。例せばインドのギルハ鬼は水に住み人形無頭で、アーヴィングの『コロンブス伝』に頭なき幽霊騎馬した記事あり。以前四月二十四日の夜、福井市内に柴田勢の亡魂の行列あり、その大将騎馬にて首がなかった(『郷土研究』二巻九号、寺門氏報)。それから笠井氏の報告で名高くなった阿波の首なし馬の伝説があって、盗人に首を刎《は》ねられた馬の幽霊だ。また古スウェーデンの馬怪ネックは蒼灰色の美しい馬と現じて海浜にあり、その蹄後ろ向きになりいるので判る。人知らずして騎れば、たちまち海に飛び入り溺殺す(ボーン文庫本、ケートレイの『精魅誌《フェヤリー・ミソロジー》』一六二頁)。これは海驢、海馬などいう名が支那にも欧州にもあるごとく、遠見あたかも馬様に見える海獣(例せばセイウチ)の脚が鰭状《ひれじょう》を成して後ろを向きいるから言い出たであろうが、妖鬼の足が後ろ向きという事諸国に一汎で、たとえば『大宝積経』十三に、「妖魅反足の物」、百九に、〈地獄衆生、その足反りて後ろに向く〉、『傾城反魂香《けいせいはんごんこう》』の戯曲《じょうるり》に、熊野詣りの亡者あるいは逆立ち後ろ向き、これは今もこの辺で言う。『嬉遊笑覧』八に予言をなす者後ろ仏を持つとあり。一九〇六年版『南印度種俗記《エスノグラフィク・ノーツ・イン・ザ・サウザン・インジア》』に、ラカジヴ島の物だろうとて妖巫の足後ろ向きたる像を出す。支那やインドに堤を築くとか勝利を祈るとか馬を殺し沈めて祈る事多く、日本にもその例あったものか『近江輿地誌略』八五に、浅井郡馬川は洪水の時白馬出て往来人を悩ますという。『沙石集』『因果物語』等に馬を虐待してその霊に苦しめられた譚多い。されば馬が悪鬼となって返報するも無理ならず。欧州でも、地獄の大侯ガミギンは小馬の形といい、馬怪ルー・ドラペーは小児を百五十人までその尻に載せ去って復さずという。惟《おも》うに馬頭観音が明王観音両部に属し、あるいは温和あるいは大忿怒形を現わすは、半ばは馬が人を助くる善性、半ばはこれら馬鬼の悪性を取って建立された半菩薩半鬼王だからだろう。
 宮武《みやたけ》氏が出した『此花』四枝に、紙張子の馬を腰付けて踊り走る図三を出し「ほにほろ考」を書かれた。これは寛政頃|流行《はや》り初めた物らしく「上るは下るは」と名づけたらしいとあって、馬上の唐人また武者姿で所作して見せるを、一人奇な声で、「ソリャ上るは上るは、雷の子でほにほろ/\/\下るは/\」と囃《はや》した。ホニホロはオランダ語らしいからこの腰付馬《こしつけうま》もオランダ渡来だろうと言われたが、右の引句ばかりではこの装いまた芸当を「上るは下るは」といいホニホロと言わず、ホニホロは単に囃の詞《ことば》らしく、風を含み膨《ふく》れる体を帆《ほ》に幌《ほろ》とでも讃えたのでなかろうか。馬に縁ある打球戯をポロというほかに、ホニホロらしい洋語を知らぬ。ただしこの芸当オランダから来ただろうとはほぼ中りいる。というは、昔英国の五月節会に大流行だったモリス踊《ダンス》のホッビー・ホールスとて頭と尾は木造で彩色し、胴は組み合せで騎手の腰に合せ、下に布を垂れてその脚を覆《かく》す造馬がそれによく似居る。これはもとモールス人が始めた踊りで、スペインでモリスコと呼び、仏国では十五世紀に行われて、モリスクといった。英国へはスペインから移ったらしく、十六世紀にもっとも行われた。ピュリタン徒繁昌の際五月節会とともに禁止され、王政恢復後また行われたがいつとなく廃れおわる。それを予の知己の王立考古学会員などが、再興いな三興しようと企ていたが、戦争でジャンになったらしい。とにかくホニホロなる語を舶来と思うなら、欧州諸国語でホッビー・ホールス(英語)を何というかを調べなと好事家に告げ置く。
 さてスウェン・ヘジンの『トランス・ヒマラヤ』にチベットのタシ・ルンポの元日節に、ネポール人が身の前後に燈籠各一を付け歌いながら歩む。前の燈籠は馬首、後のは馬尾を添えたから、あたかも火の点《とも》る馬に乗った体《てい》だったとあるより見れば、この類の考案は欧州特有のものでなかったろう。似た例一つ挙げんに、今は日本へも移し入れただろうが、三十年前予米国にあった時、田舎廻りの興行師が美麗な木馬を輪様に据え列ね、機械で動かせばぐるぐる駈け廻ると同時に、馬の首尾交互上下して奔馬を欺く。小児はもとより年頃の男女銭を払い時間を定め、それに乗りて歓呼|顧盻《こけい》しいた。酒ほどにはとても面白からぬ故、その遊びの名さえ聞かなんだが、今年ようやく右様の趣向も西洋独特のものでなきを知った。それ『大清一統志』巻二六四を御覧、『方輿勝覧』を引いて、四川《しせん》の大輪山、〈群峰|環《めぐ》り列なる、異人奇鬼のごとし、あるいは車に乗り蓋を張る、あるいは衣※[#「日/免」、455−9]峩冠《いべんがかん》す、あるいは帯甲のごとく、あるいは躍馬のごとく、勢い奔輪のごとき故に名づく〉。今より七百年ほど前既にかかる構思が宋人にあったのだ。

    (付) 白馬節会について

 白馬を貴ぶ例諸邦に多し。漢高祖白馬を斬りて盟《ちか》いし事『史記』に見ゆ。古インドにも、白馬を牲するは王者に限りしと記憶す。『仏本行集経』巻四九いわく、仏前生鶏尸馬王たり、〈身体白浄、独り珂雪《かせつ》のごとし、また白銀のごとし、浄満月のごとし〉、この馬王、多くの商人が羅刹女《らせつにょ》の難に遇うを救いし話、『宇治拾遺』にも載せたり。『大薩遮尼乾子受記経』巻三にも、転輪聖王の馬宝は、〈色白く彼※[#「てへん+勾」、第3水準1−84−72]牟頭華のごとし、身体正足、心性|柔※[#「車+(而/大)」、第3水準1−92−46]《じゅうなん》、一日三遍閻浮提を行ず、疲労想なし〉とあり、古インド人白馬を尊べるを知るべし。マルコ・ポロいわく、元世祖上都に万余の純白馬を畜《か》い、その牝の乳汁を自身と皇族のみ飲む、ほかにホリアッド族、かつてその祖父|成吉思汗《ジンギスかん》を援《たす》けて殊勲ありつれば白馬乳を用うる特典を得たりと、ユール註に、当時元日に白馬を貢献したるなり、この風|康煕《こうき》帝の世まで行われつ、チムコウスキは、諸蒙古酋長が白馬白駝を清《しん》廷に貢する常例十九世紀まで存せりと言えりと(Yule,‘The Book of Ser Marco Polo,’1871, Bk. i, ch. lxi)。同書二巻十五章、元日の条にいわく、この日皇帝以下貴賤男女皆白色を衣《き》る、白を多祥として年中幸福を享《う》けんと冀《こいねが》うに因る。また相《あい》遣《おく》るに白色の諸品を以てす。この日諸国より十万以上の美なる白馬を盛飾して奉ると。ラムシオの『紀行彙函』に収めたるマルコの紀行には「多大の馬を奉る、その馬あるいは全身白く、あるいは体の諸部多く白きものに限る。九の数を尚ぶ故、一県より九九八十一疋の白馬を奉る」とあり。日と馬の数こそ和漢の白馬節会と異なれ、その事甚だこれに近し。
 さて『公事根源《くじこんげん》』に、白馬の節会を、あるいは青馬の節会とも申すなり、その故は、馬は陽の獣なり、青は春の色なり、これに依って、正月七日に青馬を見れば、年中の邪気を除くという本文あり、(中略)天武天皇十年正月七日に、御門《みかど》小安殿におわしまして宴会の儀あり、これや七日の節会の始めなるべからんといえり、『日本紀』二十九の本文には白馬の事見えず。白馬を「あおうま」とのみ
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