きを覚えるを制し得なんだ事ありとあったと記憶する。それと等しく鬼門の祟《たた》りなど凡衆にとって有無ともに確証を認めぬながら、君子は有るを慮《おもんぱか》り無しを慮らず、用心に越した事なしてふ了簡がほとんど天性となり居るところへ以て、蘇張の弁でその妄を説いたって容易に利く事でなかろう。かつそれ風を移し俗を易《か》えるは社会の上層から始め、下これに倣うてようやく事成る。しかるにわずか数年前横浜の外字新聞にわが国貴勝の隠れさせたまえる時刻に真仮の二様あったとて、かかる国民に何の史実何の誠意を期待し得べきと手酷く難詰しあったそうで、その訳文を京阪の諸紙で見た。陰陽道《おんようどう》で日や時の吉凶を詳しく穿議した古風を沿襲しての事と存ずるが、この世を去るに吉日も凶時もあるものかという外人の理窟ももっともだ。が上《かみ》つ方《かた》においては例の有るを慮り無しを慮らざる用心から、依然旧慣に循《したが》わるるのであろう。その可否のごときは吾輩賤人の議すべきでないが、社会の上層既にかかる因襲を廃せぬに、下層凡俗それ相応に鬼門の忌を墨守するを、吾輩何と雑言したりとて破り撤《す》てしめ得らりょうぞ。さて
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