はともあれ、屁の慎みは今の欧人が昔よりも改進したのだ。予が学び知るところまた自ら経験せるところを以てすれば、屁とか※[#「口+穢のつくり」、第3水準1−15−21]《しゃくり》とかいうものはこれを恣《ほしいま》まにすれば所を嫌わず続出し、これを忍べば習い性となって決して暴《にわ》かに出て来るものでない。故アーネスト・ハートなどは、人と語る中ややもすれば句切り同然に放っていたが、それは廉将軍の三遺失に等しく、甚《ひど》く耄《ぼ》れたのだ。今日満足な欧人で音さえ立てずば放捨御免など主唱する者なく、上流また真面目な人はその話さえせぬ。却説《さて》一昨年岡崎邦輔君の紹介である人が予に尋ねられたは、何とかいう鉄道は鬼門に向いて敷設され居るとて一向乗客少ない。鬼門など全く開けた世に言うべき事でない理由を弁じて衆妄を排し、かの鉄道の繁栄する方法がありそうなものというような事だった。因って予岡崎君に返事した大要は、マックズーガル説に、人間は訳が判ったからって物を怖れぬに限らぬ。自分は動物園の鉄圏堅くてなかなか猛獣が出で来るべきにあらずと知悉すれど、虎がこっちへ飛び掛りて咆ゆるごとに怖ろしくてわが身の寒
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