七一)。仏典に名高い得叉尸羅《たくしゃしら》城の青蓮尼、十七世紀に久しく艶名を馳《は》せた、仏国のニノン・ド・ランクローなど、似た事だが話が頗長《すこなが》と来るから惜しい物だがやめて置く。
 十七世紀末の雑誌『アセニアン・マーキュリー』は、予が年久しく寄稿する『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』の前身といえる。ある人それへ投書して、馬飼いは馬の良種を選み、種々注意して思うままにこれを改良す、何と人間もその通り改良の出来ぬものだろうかと問うた。それに対した答文の大要は、かかる遣り方は天賦の自由を奪い、体躯の完成のみこれ望んで、精神の勇猛と貴さを失うを顧みぬものじゃという事だった。これを見ると人種改良の善胎学のという事今日に始まったのでなく、古来人間が馬の改良に鋭意したを見聞するほどのものは、必ず多少人間も改良は成りそうなものと気付いたはずだ。
 さて西暦八五一年(唐宣宗大中五年)アラビヤ人筆、『印度および支那航記』(レノー仏訳、一二〇頁)支那の習俗大いにアラビヤと異なるを録していわく、支那人同姓と婚せず、いわく他姓と婚すれば生まるる子双親に優ると。かかる説は古く既に『左伝』にあ
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