《もう》で身を浄《きよ》めたといい、北欧の神話にも、ロキス蛇が馬に化けた時足から露顕したといい、インド『羅摩衍譚《ラーマーヤナ》』に、雌蛇のみ能く雄蛇の足を弁《わきま》え知るとある。これらは皆夫の陰相を尾と称え、その状を確かに知るは妻ばかりという寓意《ぐうい》だと解った。グ伯は梵学者また神誌学者としてすこぶる大家だが、ややもすれば得意の言語学に僻して、何でも陰具に引き付け説く癖がある。蛇の足を覗《うかが》うと尾だったてふは、単に蛇は主として尾の力で行くと見て言ったと説かば、陰具などを持ち出すにも及ぶまい。回教学有数の大著、タバリの『編年史』にいわく、上帝アダムを造り諸天使をしてこれを敬せしめしに、エブリスわれは火より造られたるにアダムは土で作られたから、劣等の者を敬するに及ばぬといい、帝|瞋《いか》りてエを天より逐い堕す。エ天に登りて仕返しをと思えど、天の門番リズワンの大力あるを懼《おそ》れ、蛇を説いて自分を呑んで天に往き密《そっ》と吐き出さしめ、エヴァを迷わしアダムを堕した。アダム夫妻もと只今の人の指と足の趾《ゆび》の端にある爪の通りの皮を被りいたが、惑わされて禁果を吃《く》うとその皮たちまち堕ち去り丸裸となり、指端の爪を覩《み》て今更楽土の面白さを懐《おも》うても追い付かず。蛇もまた人祖堕落の時まで駱駝《らくだ》ごとき四脚を具え、人を除《の》けてはエデン境内最も美しい物じゃったが、禁果を偸《ぬす》み食った神罰たちまち至って、楽土諸樹木の四の枝が低《た》れ下り、四つの罪人永く追いやられ、アダムはヒンドスタンに、エヴァはジッダに、蛇はイスパハンに、エブリスはシムナーンに謫居《たっきょ》した。上帝蛇を悪《にく》むの余りその四脚を去り、永《とこし》えに地上を跂《は》い行かしむと。今の欧米人これを聞いたら笑うに極まっているが、実は臭い物身知らずで、彼らの奉ずる『聖書』にも十二世紀まではかかる異伝を載せあった由。
 日本でも釈迦死んで諸動物皆来り悲しみしに、蚯蚓《みみず》だけは失敬した故罰として足なしにされたというが、紀州には蛇の足に関する昔話あり、西牟婁郡水上てふ山村で聞いたは、トチワビキてふ蛙、昔日本になかったが、トチワの国より蛇に乗って渡り来る。報酬に脚を遣《や》ろうと約したに今以て履行せず、蛇恨んで出会うごとこの蛙を食うに、必ず脚より始むという。その蛙を検するに何処にもある金線蛙《とのさまがえる》だった。トチワすなわち常磐《ときわ》国については、大正元年十一月の『人性』に拙見を出した。似た話もあるもので、東牟婁郡高田村に代々葬後墓を発《あば》き尸を窃《ぬす》み去らるる家あり。これはその先祖途中で狼に喫《く》われんとした時、われに差し迫った用事あり、それさえ済まば必ず汝に身を与うべしと紿《あざむ》いてそのまま打ち過ぎしを忘れず、その人はもちろん子孫の末までもその尸を捉り去り食うという。上述水上の里話を聞いてから試すと、予が見得た限り蛇は蛙を必ず脚より食うが、亀は頭より蛙を食う。しかるに、アストレイの『新編紀行航記全集《ア・ニュウ・ゼネラル・コレクション・オヴ・ヴォエージス・エンド・トラヴェルス》』巻二の一一三頁に、西アフリカのクルバリ河辺に、二十五また三十フィートの大蛇あって全牛を嚥《の》むが、角だけは口外に留めて嚥む能わずとポルトガル人の話を難じ、すべて蛇は一切の動物を呑むに首より始む、角を嚥み能わずしていかでか全牛を呑み得んと論じある。なるほど鼠などを必ず首から呑むが、右に言った通り蛙をば後脚から啖い初むる故一概に言う事もならぬ。インドのボリグマ辺の俗信に、虎は人を殺して後部より、豹は前方より啖うという(ボールの『印度藪榛生活《ジャングル・ライフ・イン・インジア》』六〇五頁)。
 ガドウ教授蛇の行動を説いて曰く、蛇は有脊髄動物中最も定住するもので、餌と栖《すみか》さえ続く中は他処へ移らず、故に今のごとく播《ち》るには極めて徐々漸々と掛かったであろう。その動作迅速で豪《えら》い勢いだが、真の一時だけで永続せぬ事南方先生の『太陽』への寄稿同然とは失敬極まる。蛇の胴の脊髄とほとんど相応した多数の肋骨《あばらぼね》を、種々変った場面に応じて巧く働かせて行き走る。その遣り方はその這うべき場面に少しでも凸起の、その体の一部を托すべきあるに遇わば、左右の肋骨を交《こもご》も引き寄せて体を代る代る左右に曲げ、その後部を前《すす》める中、その一部(第三図[#図省略])また自ら或る凸起に托《の》り掛かると同時に、体の前部今まで曲りおったのが真直ぐに伸びて、イからハに進めらる。この動作をもっとも強く助勢するは蛇の腹なる多くの横|濶《ひろ》い麟板で、その後端の縁《へり》が蛇が這いいる場面のいかな微細の凸起にも引っ掛かり得る。この麟板は一枚ごとに左右一対の肋《あばら》と相伴う。されば平滑な硝子《ガラス》板を蛇這い得ず。その板をちょっと金剛砂で磨けば微細の凸起を生ずる故這い得。また蛇の進行を示すとてその体上下に波動し、上に向いた波全く地を離れ、下に向いた波のみ地に接せるよう描いた画多きも、これ実際あり得ぬ事じゃと。第四図[#図省略]は予在英中写し取った古エジプトの画で、オシリス神の像を毀《こわ》した者を大蛇ケチが猛火を吐いて滅尽するところだが、蛇が横に波曲すればこそ行き得ると知った人も、横に波動するを横から見たところを紙面に現わすは非常な難件故、今日とても東西名手の作にこの古エジプト画と同様、またほぼ相似た蛇を描いて人も我も善く出来たと信ずるが少なからぬ。ガ氏また古画に蛇|螺旋《らせん》状に木を登るところ多きを全く不実だといったが、これは螺旋状ならでも描きようがあると思う。されば神戦巻第一図に何の木をも纏《まと》わず、縁日で買った蛇玉を炙《あぶ》り、また股間《またぐら》の※[#「やまいだれ+節」、第3水準1−88−59]腫《ねぶと》を押し潰《つぶ》して奔り出す膿栓《のうせん》同様螺旋状で進行する蛇が見えたは科学者これを何と評すべき。ただし既に述べ置いた通り、美術としては絵嘘事《えそらごと》も決して排すべきにあらねど、ここにはただかかる行動を為《な》す蛇は実際ないてふ小説を受け売りし置く。
 予の宅に白蛇棲んでしばしば形を現わすが、この夏二階の格子の間にその皮を脱ぎしを見付け引き出そうとすれど出ず。それは只今言った通り蛇の腹の多数の麟板の後端が格子の木の外面にある些細な凸起に鈎《かか》り着いて、蛻《ぬけがら》を損せずに尾を持って引き出し得ぬと判り、格子の外なりし頭を手に入れその方へ引くと苦もなく皮を全くし獲れた。無心の蛻すらかくのごとくだから、活きた蛇が穴中に曲りその腹の麟板が多処に鈎り着き居るを引き出すは難事と見え、『和漢三才図会』に、穴に入る蛇は、力士その尾を捉えて引くも出ず、煙草脂《タバコやに》を傅《つ》くれば出《い》づ。またいわく、その人左手自身の耳を捉え右手蛇を引かば出づ、その理を知らずといえり。この辺で今伝うるは、一人その尾を捉え他の一人その人を抱きて引けば出やすしと。
 十六世紀のレオ・アフリカヌスの『亜非利加記《デスクリプチョネ・デル・アフリカ》』第九篇には、沙漠産ズッブてふ大蜥蜴をアラブ人食用す。この物疾く走る。穴に入りて尾のみ外に残るをいかな大力士が引いても出ず。やむをえず鉄器もてその穴を揺り広げやっと捉え得とあるも似た事だが、蜥蜴の腹の麟板は、物に鈎《かか》る端を具えぬから、此奴《こやつ》はその代り四足に力を込めてその爪で穴中の物に鈎り着くのであろう。この通りの拙文を訳してロンドンで出したるに対し、一英人いわく、日本人は皆一人で蛇の尾を捉えて引き出し得ぬらしいが、自分はかつてインドで英人単身ほとんど八フィート長の蛇を引き出すを見たと。ブリドー大佐の説には、往年インドで聞いたは、土着の英人浴中壁の排水孔《みずぬきあな》より入り来った蛇がその孔より出で去らんとする尾を捉え引いたが蛇努力して遁《のが》れ行った。翌日また来れど去るに臨み、まず尾を孔に入れ、かの人を見詰めながら身を逆さまに却退したとありしを見れば、剛力の人がいっそ伝説など知らずにむやみに行けば引き出し得るも、常人にはちょっとむつかしい芸当らしい。こんな事から敷衍した物か、蛇の尻に入るは多くは烏蛇とて小さくて黒色なり。好んで人の尻穴に入るにその人さらに覚えずとぞ。この蛇穴に少しばかり首をさし入れたらんには、いかに引き出さんとすれども出る事なし。寸々《ずたずた》に引き切っても、首はなお残りて腹に入りついに人を殺す(とはよくよく尻穴に執心深い奴で、水に棲むてふ弁《ことわ》りがないばかり、黒井将軍が報《しら》されたトウシ蛇たる事疑いを容れず)。これを引き出すに「猿のしかけ」という木の葉にて捲き引き出せば、わずかに尾ばかり差し出たるにても引き出すといえり云々と、『松屋筆記』五三に出づ。

     蛇の変化

 これに関する話は数え切れぬほど多いからほんの言い訳までに少々例を挙ぐる。『和漢三才図会』に「ある人船に乗り琵湖を過ぎ北浜に著く、少頃《しばし》納涼の時、尺ばかりの小蛇あり、游ぎ来り蘆梢に上り廻り舞う、下り水上を游ぐこと十歩ばかり、また還り蘆梢に上る初めのごとし、数次ようやく長丈ばかりと為る、けだしこれ升天行法か、ここにおいて黒雲|掩《おお》い闇夜のごとし、白雨《はくう》降り車軸の似《ごと》し、竜天に升《のぼ》りわずかに尾見ゆ、ついに太虚に入りて晴天と為る」。誰も知るごとく、新井白石が河村随軒の婿《むこ》に望まれた折、かようの行法に失敗して刃に死んだ未成の竜の譚を引いて断わった。支那には『述異記』に、〈水※[#「兀+虫」、第4水準2−87−29]五百年化けて蛟と為り、蛟千年化けて竜と為る〉。※[#「兀+虫」、第4水準2−87−29]《き》とは『本草』に蝮の一種と見えるから、水※[#「兀+虫」、第4水準2−87−29]とは有害の水蛇を指したと見える。西土にも蛇が修役を積んで竜となる説なきにあらず。
 古欧州人は蛇が他の蛇を食えば竜と化《な》ると信じた(ハズリットの『|諸信および俚伝《フェース・エンド・フォークロール》』一)。ハクストハウセン説に、トランスカウカシア辺で伝えたは、蛇中にも貴族ありて人に見られずに二十五歳|経《ふ》れば竜となり、諸多の動物や人を紿《あざむ》き殺すためその頭を何にでも変じ得。さて六十年間人に見られず犯されずば、ユクハ(ペルシア名)となり全形をどんな人また畜にも変じ得と。天文元年の著なる『塵添※[#「土へん+蓋」、第3水準1−15−65]嚢抄《じんてんあいのうしょう》』八に、蛇が竜になるを論じ、ついでに蛇また鰻に化《な》るといい、『本草綱目』にも、水蛇が鱧《はも》という魚に化るとあるは形の似たるより謬《あやま》ったのだ。文禄五年筆『義残後覚《ぎざんこうかく》』四に、四国遍路の途上船頭が奇事を見せんという故蘆原にある空船に乗り見れば、六、七尺長き大蛇水中にて異様に旋《めぐ》る、半時ほど旋りて胴中|炮烙《ほうろく》の大きさに膨れまた舞う内に後先《あとさき》各二に裂けて四となり、また舞い続けて八となり、すなわち蛸《たこ》と化《な》りて沖に游ぎ去ったと見ゆ。例の『和漢三才図会』や『北越奇談』『甲子夜話』などにも蛇蛸に化る話あり。こんな話は西洋になけれど、一八九九年に出たコンスタンチンの『|熱帯の性質《ラ・ナチュール・トロピカル》』に、古ギリシアのアポロン神に殺された大蛇ピゾンが多足の竜ヒドラに化ったちゅうは、蛇が蛸になるを誇張したのであろうとあるは、日本の話を聞いて智慧附いたのかそれとも彼の手製か、いずれに致せ蛸と蛇とは似た物と見えるらしい。
 ただに形の似たばかりでなく、蛸類中、貝蛸オシメエ・トレモクトプス等諸属にあっては、雄の一足非常に長くなり、身を離れても活動し雌に接して子を孕ます。往時学者これを特種の虫と想い別に学名を附けた。その足切れ去った跡へは新しい足が生える。古ギリシア人は日本人と同じく蛸飢ゆれば自分の足を食うと信じたるを、プリニウス
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