奴は、飛行自在という信念が東半球にのみ限らぬと判る。上に述べた飛竜ちゅう蜥蜴を、翼ある蛇と訛伝したのは別として※[#「縢」の「糸」に代えて「虫」、275−9]蛇《とうだ》足なくして飛ぶなどいうたは、件《くだん》の羽を被った蛇同様、ただ蛇を霊物視する余り生じた想像に過ぎじと確信しいたところ、数年前オランダ(?)の学者が、ジャワかボルネオかセレベスで、樹の間に棲む一種の蛇の躯が妙に風を含むようになりおり、枝より滑り落ちる際|※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠《むささび》や飛竜同然、斜めに寛々と地上へ下り著《つ》くを見て、古来飛蛇の話も所拠《よりどころ》ありと悟ったという事を、『ネーチュール』誌で読んだ。
このついでに言う、蛇を身の讎《かたき》とする蛙の中にも、飛蛙《フライイング・フログ》というのがある。往年ワラスが、ボルネオで発見せるところで、氏の『巫来《マレー》群島篇』に図せるごとく、その四足に非常に大きな蹼《みずかき》あり、蹼はもと水を游《およ》ぐための器だが、この蛙はそれを拡げて、樹から飛降を便《たす》くという(第二図[#図省略])。予往年大英博物館で、この蛙アルコール漬《づけ》を見しに、その蹼他の蛙輩のより特《すぐ》れて大なるのみ、決して図で見るほど巨《おお》きになかった。例のブーランゼー氏に質《ただ》すと、書物に出た図はもちろん絵虚事《えそらごと》だと答えられたから、予もなるほどことごとく図を信ずるは、図なきにしかずと了《さと》った。しかるにその後ワラスの書を読むと、かの蛙が生きたままの躯と蹼の大きさを比べ記しある。それに引き合すとかの図は余り吹き過ぎたものでない。因って考うるに、蛙などは生きた時と、死んでアルコール漬になった後とで、身の大きさにすこぶる差違を生ずるから、単にアルコール漬を見たばかりでは、活動中の現状を察し得ぬのじゃ。
さて可笑《おか》しな噺《はなし》をするようだが、真実芸術に志|篤《あつ》き人の参考までに申すは、昔鳥羽僧正、ある侍法師絵を善くする者の絵、実に過ぎたるを咎《とが》めた時、その法師少しも事とせず、左《さ》も候わず、古き上手どもの書きて候おそくずの絵などを御覧も候え、その物の寸法は分に過ぎて、大に書きて候云々と言ったので、僧正理に伏したという(『古今著聞集』画図第十六)。この法師の意は、ありのままの寸法に書いては見所なき故、わざと過分に書くといったのだが、実際それぞれの物どもも、活溌に働く最中には、十二分に勢いも大きさも増すに相違ない。予深山で夕刻まで植物を観察し、急いで小舎《こや》に帰る途上、怪しき大きな風呂敷様の物、眼前に舞い下るに呆《あき》れ立ち居ると、変な音を立て樹を廻り行くを見ると、尋常の※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠《むささび》で、初め飛び落ち来った時に比して甚だ小さい。この物勢い込んで飛ぶ時、翅《はね》が張り切りおり、なかなか博物館で見る死骸を引き伸ばした標品とは、大いに大きさが違うようだった。
さて欧州で名手が作ったおそくずの絵を見た内に、何の活動もなきアルコール漬を写生したようなが多く、したがってこの種の画は、どうも日本の名工に劣るが多く思われたは、全く写生に執心する余り、死物を念入れて写すような事弊に陥ったからであろう。故に西洋人の写生が、必ずしも究竟の写生でなく、東洋風の絵虚事が、かえって実相を写し得る場合もあると惟《おも》う。この事は明治三十年頃、予がロンドンのサヴェージ倶楽部で、アーサー・モリソンに饗応された席で同氏に語り、氏は大いに感心された。その後|河鍋暁斎《かわなべきょうさい》がキヨソネとかいうイタリア人に、絵画と写真との区別心得を示した物を読んだ中にも、実例を出して、似た事を説きあったと憶《おぼ》える。件《くだん》のモリソンは、何でもなき一書記生から、奮発して高名の小説家となった人で、日本の美術に志厚く予と親交あったが、予帰朝後『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』十一版十八巻に、その伝を立てたるを見て、ようやくその偉人たるを知った位、西洋には稀に見る淡白謙虚な人である。
蛇の足
六月号へ本篇三を出し未完と記しながら、後分を蛇の体同様長々と出し遅れたは、ちょうどその頃|谷本富《たにもととめり》博士より、三月初刊『臨済大学学報』へ出た「蛇の宗教観」を示された。その内には自分がまさに言わんとする事どもを少なからず説かれおり、ために大きな番狂わせを吃《く》い、何とも致し方なくて、折角成り懸かった原稿を廃棄し、更に谷本君の文中に見ぬ事のみを論ずるとして再度材料蒐集より掛かったに因る。
さて前項に『さへづり草』を引いて、出羽にトンヘビとて、人の後庭《しりえ》を犯し、これを殺す奇蛇ある由、トンとは古老の説に、非道交会を昔の芝居者などが数うるに、一トン取る二トン取るといったそうだから、南米にあるてふ男色蛇《ソドマイト・スネーク》と同義の名らしい。果してそんな水蛇が日本にあるなら、国史に見えた※[#「虫+礼のつくり」、第3水準1−91−50]《みづち》、今も里俗に伝うる河童は、本《もと》かようの水蛇から生じた迷信だろうという意を述べ置いたところ、旅順要港部司令官黒井将軍より来示に、自分は両国の橋の上に御大名が御一人|臥《のさ》って御座ったてふ古い古い大津絵節《おおつえぶし》に、着たる着物は米沢でとある上杉家中に生まれた者で出羽の事を熟《よく》知るが、かの地にトウシ蛇という、小形で体細く薄黒く川を游ぐものをしばしば見た。而《しか》して自分らの水游ぎを戒むるとて、母が毎《いつ》も通し蛇が水游ぐ児の肛門より入りてその腸を食い、前歯を欠いて口より出ると言うを聞き怖《お》じた。一度もその事実を見聞した事なきも、水死の尸は肛門開くもの故、水蛇に掘られたであろうと思うて、言い出したものか。トウシ蛇とは肛門より腹中へ通し入るの義らしく、トウシをトシと略書したるを、かの書にトンと誤写せるにあらずやと、とにかくかようの水蛇と話が、羽州に存するは事実だとあった。これで古史の※[#「虫+礼のつくり」、第3水準1−91−50]や、今俗伝うる河童は、一種の水蛇より出たろうてふ拙見が、まず中《あた》ったというものだ。全体水蛇は尾が海蛇のように扁《ひら》たからず、また海蛇は陸で運動し得ず、皮を替えるに蜥蜴同然片々に裂け落ちるに、水蛇は陸にも上り行《ある》き全然《まるきり》皮を脱ぐ。もっともその鱗や眼や鼻孔等が、陸生の蛇と異なれど、殺した上でなければ確《しか》と判らず、したがって『本草啓蒙』『和漢三才図会』など、本邦にも水蛇ありと記せど、尋常陸生の蛇がたまたま水に入ったのか、水面を游ぐ蛇状の魚を見誤ったのか知りがたかったところ、黒井中将に教えられて、浅瀬を渡る水蛇が少なくとも本邦の北部に産すと知り得たるは、厚く御礼を申し上ぐるところである。
海蛇の牙に大毒あるが、水蛇は人を咬《か》むも無害と、『大英百科全書』十一版二十五巻に見えるが、十二巻にはアフリカに大毒の水蛇ありと載せ居る。かほど正確を以て聞えた宝典も、巻|累《かさ》なればかかる記事の矛盾もありて読者を迷わす。終始一貫の説を述べ論を著わすは難くもあるかなだ。まして本篇などは、多用の片手間に忙ぎ書くもの故、多少前後|揃《そろ》わぬ処があってもかれこれ言うなかれと、蛇足と思えど述べて置く。琉球の永良部鰻《えらぶうなぎ》など、食用さるる海蛇あるは人も知るが、南アフリカのズーガ河に棲む水蛇も、バエイエ人が賞翫する由(リヴィングストンの『宣教紀行《ミショナリ・トラヴェルス》』三章)このついでに受け売りす。ケープ、カフィル人は魚を蛇に似るとて啖《く》わずと(バートンの『東亜非利加初行記《ファースト・フートステプス・イン・イースト・アフリカ》』第五章)。
蛇足の喩《たと》えは『戦国策』に見ゆ。昭陽楚の将として魏を伐《う》ち更に斉を攻めた時、弁士|陳軫《ちんしん》斉を救うためこの喩えを説き、昭陽に軍《いくさ》を罷《や》めしめた。一盃の酒を数人飲まんとすれど、頭割りでは飲むほどもなく一人で飲むとあり余るから、申し合せて蛇を地に画き早く成った者一人が飲むと定め、さて最も早く蛇を画いた者が、その盃を執りながら、この蛇の足をも画いてみせようと画き掛くる内、他の一人その盃を奪い取り、蛇は足なきに定まったるに、無用の事をするから己《おれ》が飲むとて飲んでしまい、足を画き添えようとした者その酒を亡《うしの》うた。公も楚王に頼まれて魏を破ったら役目は済んだ。この上頼まれもせぬ斉国を攻むるは、真に蛇足を書き添える訳だと説いたのだ。ムショーの『艶話事彙《ジクショネール・ド・ラムール》』にも、処女が男子に逢《あ》い見《まみ》えし事の有無は、大空を鳥が飛び、岩面を蛇が這った足跡を見定むるよりも難いと、ある名医が嘆じたと載す。この通りないに相場の定まった蛇の足とは知りながら、既に走り行《ある》く以上は、何処かに隠れた足があるのであろうと疑う人随分多く、そんな事があるものかと嘲る人も、蛇がどうして走り行くかを弁じ得ぬがちだ。誠に愍然な次第故、自分も知らぬながら、学者の説を受け売りしよう。
そもそも蛇ほど普通人に多く誤解され居るものは少ない。例せば誰も蛇は常に沾《ぬ》れ粘ったものと信ずるが、これその鱗が強く光るからで、実際そんなに沾れ粘るなら沙塵が着き、重《おも》りて疾く走り得ぬはずでないか。その足に関する謬見は一層夥しく、何でも足なければ歩けぬと極《き》めて掛かり、何がな足あるにしてしまわんと種々の附会を成した。支那の『宣室志』にいう、桑の薪で炙《あぶ》れば蛇足を出すと。オエン説に米国の黒人も蛇は皆足あり炙れば見ゆという由。プリニウスの『博物志』巻十一に、蛇の足が鵝の足に似たるを見た者ありと見ゆ。しかるに近来の疑問というは、支那道教の法王張天師の始祖張|道陵《どうりょう》、漢末|瘧《ぎゃく》を丘社に避けて鬼を使い、病を療ずる法を得、大流行となったが、後《のち》蟒蛇に呑まる。その子衡父の屍を覓《もと》めて得ざりければ、鵠《はくちょう》の足を縻《つな》いで石崖頂に置き、白日昇天したと言い触らし、愚俗これを信じて子孫を天師と崇《あが》めた(『五雑俎』八)。
ギリシアの哲学者ヘラクレイデース常に一蛇を愛養し、臨終に一友に嘱してその屍を隠し、代りにかの蛇を牀上に置き、ヘラクレイデースが明らかに神の仲間に入った証と言わしめたと伝うるもやや似て居るが、張衡が何のために鵠の足を崖頂に縻《つな》いだものか。道教の事歴にもっとも精通せる妻木直良氏に聞き合せても、聢《しか》と答えられず、鵠も鵝も足に蹼《みずかき》あり概して言わば古ローマ古支那を通じて蛇の足は水鳥の足に似居ると信じたので、張衡その父が蟒蛇に呑まれたのを匿《かく》し転じて、大蛇に乗りて崖頂に登り、それから昇天したその大蛇が、足を遺したと触れ散らしたのであるまいか。昇天するだけの力を持った大仙が、崖頂まで大蛇の仲継を憑《たの》まにゃならぬとは不似合な話だが、呉の劉綱その妻|樊《はん》氏とともに仙となり、大蘭山上の巨木に登り鋳掛屋《いかけや》風の夫婦|連《づれ》で飛昇したなどその例多し。蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]《とんぼ》や蝉《せみ》が化し飛ぶに必ず草木を攀《よ》じ、蝙蝠《こうもり》は地面から直《じか》に舞い上り能わぬから推して、仙人も足掛かりなしに飛び得ないと想うたのだ。既に論じたごとく、実際蟒蛇には二足の痕跡を存するから張衡の偽言も拠《よりどころ》あり。
イタリアのグベルナチス伯説に、露国の古話に蛇精が新米寡婦方へその亡夫に化けて来て毎夜|伴《とも》に食い、同棲して、晨《あさ》に達し、その寡婦火の前の蝋《ろう》のごとく痩《や》せ溶け行く、その母これに教えて、他《かれ》と同食の際わざと匕《さじ》を堕《おと》し、拾うため俯《うつむ》いて他《かれ》の足を見せしむると、足がなくてニョッキリ尾ばかりあったので、蛇精が化けたと判り、寡婦寺に詣
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