那でいわゆる冬瓜蛇はこの族のものかと惟《おも》うが日本では一向見ぬ。『西遊記』一に、肥後五日町の古い榎《えのき》の空洞《ほら》に、長《たけ》三尺余|周《めぐ》り二、三尺の白蛇住む。その形犬の足なきかまた芋虫に酷《よく》似たり。所の者|一寸坊蛇《いっすんぼうへび》と呼ぶ。人を害せざれど、顔を見合せば病むとて、その木下を通る者頭を垂るとあり。デル・テチョの『巴拉乖《パラガイ》等の史』に、スペインのカベツア・デ・ヴァカが、十六世紀の中頃ペルーに入った時、八千戸ある村の円塔に、一大蛇住み、戦死の尸《しかばね》を享《う》け食い、魔それに托して予言を吐くと信ぜられた。その蛇長二十五フィート、胴の厚さ牛ほどで、頭至って厚く短きに、眼は不釣り合いに小さく輝く、鎌のごとき歯二列あり。尾は滑《すべ》だが、他の諸部ことごとく大皿様の鱗を被る。兵士をして銃撃せしむると大いに吼《ほ》え、尾で地を叩き震動せしめた故、一同仰天せしもついに殺しおわったと載せ、一八八〇年版ボールの『印度藪榛生活《ジャングル・ライフ・イン・インジア》』には、インド山間の諸王が、世界と伴うて生死すと信じ、崇拝するナイク・ブンスてふ蛇を目撃せし人の筆録を引いていわく、この蛇岩窟に棲み、一週に一度出て、信徒が献じた山羊児や鶏を啖《くら》い、さて堀に入りて水を飲み、泥中に転び廻りついに窟に返る。その泥上に印した跡より推さば、この蛇身長に比して非常に太く径二フィートを過ぐと。これら諸記に依って測るに、東西両世界とも時にある種の蛇が特異の病に罹り、全体奇態に太り過ぎるのでなかろうか。早川孝太郎氏説に、三河で蛇が首を擡《もた》げたところを撃たば飛び去る。それを捜し殺し置かぬと、ツトまたツトッコてふ頭ばかりの蛇となる。その形槌に類する故、槌蛇と呼んだと記憶すと。佐々木繁氏来示には、陸中遠野地方で、草刈り誤って蛇の首を斬ると、三年経てその首槌形となり仇をなす。依ってかかる過失あった節は、われの故《せい》じゃない、鎌の故だぞと言い聞かすべしというと。これらどうやら上古蛇を草野《かやの》の主とし、野槌と尊んだ称《となえ》から訛《あやま》り出《い》でた俗伝らしい。
 米国にやや野槌に似た俗信ある蛇フップ・スネークを産す。フップとは北※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]翁が、「たがかけのたがたがかけて帰るらん」と吟じた箍《たが》すなわち桶輪だ。この蛇赤と黒と入り乱れて斑を成し、瑳《みが》いた磁器ごとく光り、長三|乃至《ないし》六フィート、止期《やみご》なしに種々異様に身を曲げ変る。それを訛ったものか、昔人この蛇毒を以て他動物を殺さんとする時、口に尾を銜《ふく》みて、箍《たが》状《なり》になり、電《いなずま》ほど迅く追い走ると言ったが、全く啌《うそ》で少しも毒なし、しかし今も黒人など、この蛇時に数百万広野に群がり、眼から火花を散らして躍り舞う、人その中に入れば躍り囲まれて脱し得ず、暈倒《うんとう》に及ぶと信ずる由。牡牛蛇《ブル・スネーク》も米国産で、善《よ》く牡牛のごとく鳴くと虚伝さる。一八五六年版アメリア・モレイの『米国等よりの書翰集』で見ると、当時ルイジヤナ州に牛の乳を搾《しぼ》る蛇あり、犢《こうし》のごとく鳴いて牝牛を呼び、その乳を搾ったという。支那の南部に蛇精多く人に化けて、旅人の姓名を呼ぶ。旅人これを顧み応《こた》うれば、夜必ずその棲所《とまり》に至り人を傷つく、土人枕の中に蜈蚣《むかで》を養い、頭に当て臥し、声あるを覚ゆれば枕を啓《ひら》くと蜈蚣|疾《と》く蛇に走り懸り、その脳を啗《くら》うというは大眉唾物だ(『淵鑑類函』四三九)。
 一八六八年版コリングウッドの『博物学者支那海漫遊記《ラムブルス・オブ・ア・ナチュラリスト・オン・ゼ・チャイナ・シー》』一七二頁注に、触れたら電気を出す蛇を載す。一七六九年版、バンクロフトの『ギヤナ博物論』二〇八頁にいう火蛇《ファイア・スネーク》は、ギアナで最も有毒な蛇だが、好んで火に近づき火傍に眠る印度人《インデアン》を噛むと。またいう、コンモードは水陸ともに棲む、長《たけ》十五フィート周十八インチ、頭|扁《ひらた》く濶《ひろ》く、尾細長くて尖《とが》る、褐色で脊と脇に栗色を点す。毒なしといえどもすこぶる厄介な代物で、しばしば崖や池を襲い鵞や鶩《あひる》を殺す。土人いわく、この蛇自分より大きな動物に会えば、その尖った尾を敵手の肛門に挿し入れてこれを殺す、故にその地の白人これを男色蛇《ソドマイト・スネーク》と称うと。どうも虚譚《うそ》らしいが、これにやや似て実際今もあるはブラジルのカンジル魚だ。長わずか三厘三毛ほどで甚《いと》小便の臭《にお》いを好み、川に浴する人の尿道に登り入りて後、頬の刺《とげ》を起すから引き出し得ず。これを以てアマゾン河辺のある土人は、水に入る時|椰子殻《やしがら》に細孔を開けて男根に冒《かぶ》せる。また仏領コンゴーの土人は、最初男色を小蛇が人を嚥《の》むに比し、全然あり得べからぬ事と確信した(デンネットの『フィオート民俗篇』)。
 件《くだん》の男色蛇に似た事日本にもありて、『善庵随筆』に、水中で人を捕り殺すもの一は河童、一は鼈《すっぽん》、一は水蛇、江戸近処では中川に多くおり、水面下一尺ばかりを此岸《しがん》より彼岸《ひがん》へ往く疾《はや》さ箭《や》のごとし。聢《しか》と認めがたけれど大抵青大将という蛇に似たり、この蛇水中にて人の手足を纏《まと》えど捕り殺す事を聞かず。また出羽最上川に薄黒くして扁《ひらた》き小蛇あり、桴《いかだ》に附いて人を捕り殺すという。この蛇佐渡に最《いと》多しと聞く、河童に殺された屍は、口を開いて笑うごとく、水蛇の被害屍は歯を喰いしばり、向歯《むこうば》二枚欠け落ち、鼈《すっぽん》に殺されたのは、脇腹章門辺に爪痕入れりと見え、『さへづり草』には、水辺一種の奇蛇あり、長七、八寸より二尺余に至る。色白く腹薄青く、人の肛門より入りて臓腑を啖い、歯を砕きて口より出《い》づ、北国殊に多し、越後にて川蛇、出羽にてトンヘビなどいえるものこれなり(熊楠故老に聞く、トンとは非道交会の義)と云々。さればこの蛇の害に依って水死せる者を、その肛門の常ならざるについて、皆|水虎《かっぱ》の業とはいい習わしたるものか云々。また女子の陰門《まえ》に蛇入りしといえるも、かの水蛇の事なるべし。かかれば田舎の婦女たりとも必ず水辺に尿する事なかれ、といいおる。予在英のうち本邦の水蛇について種々取り調べたが、台湾は別として本土に一種もあるらしくなかった。現住地田辺附近で、知人が水蛇らしいものを釣った事を聞くに、蛇らしくも魚らしくもあって定かならぬ。上述北国の水蛇は評判だけでも現存するや。諸君の高教を冀《こいねが》う。柳田君の『山島民譚集』に、河童の類語を夥しく蒐《あつ》めたが、水蛇については一言も為《さ》れ居ぬ。本篇の発端にも述べ懸けた通り、支那の竜蛟蜃など、蛇や※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]《がく》や大蜥蜴に基づいて出来た怪動物が常に河湖淵泉の主たり。時に人を魅し子を孕ます。日本の『霊異記』や『今昔物語』に、蛇女に婬して姙ませし話や、地方に伝うる河童が人の妻娘に通じて子を産ませた談が能《よ》く似て居る。
 また河童が馬を困《くる》しむる由諸方で言う。支那でも蛟が馬を害した譚が多く、『※[#「土へん+卑」、第3水準1−15−49]雅《ひが》』にその俗称馬絆とあるは、馬を絆《つな》ぎ留めて行かしめぬてふ義であろう。『酉陽雑俎』十五に、〈白将軍は、常に曲江において馬を洗う、馬たちまち跳り出で驚き走る、前足に物あり、色白く衣帯のごとし、※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1−90−16]繞《えいじょう》数|匝《そう》、遽《にわか》にこれを解かしむ、血流数升、白これを異《あやし》み、ついに紙帖中に封じ、衣箱内に蔵《かく》す、一日客を送りて※[#「さんずい+産の旧字」、第4水準2−79−11]水に至る、出して諸客に示す、客曰く、盍《なん》ぞ水を以てこれを試さざる、白鞭を以て地を築いて竅《あな》と成す、虫を中に置き、その上に沃盥《よくかん》す、少頃《しばし》虫|蠕々《ぜんぜん》長きがごとし、竅中《きょうちゅう》泉湧き、倏忽《しゅっこつ》自ずから盤《わだかま》る、一席のごとく黒気あり香煙のごとし、ただちに簷外《えんがい》に出で、衆懼れて曰く必ず竜なり、ついに急ぎ帰り、いまだ数里ならずして風雨たちまち至る、大震数声なり〉。かかる怪に基づいて馬絆と名づけたらしい。『想山著聞奇集』に見えたわが邦の頽馬というは、特異の旋風が馬を襲い斃《たお》すので、その死馬の肛門開脱する事、河童に殺された人の後庭《しり》と同じという。それから『説文』に、〈蛟竜属なり、魚三千六百満つ、すなわち蛟これの長たり、魚を率いて飛び去る〉。『淮南子《えなんじ》』に、〈一淵に両蛟しからず〉、いずれも蛟を水族の長としたのだ。これらを合せ攷《かんが》うるに、わが邦のミヅチ(水の主)は、最初水辺の蛇能く人に化けるもので、支那の蛟同様人馬を殺害し、婦女を魅し婬する力あったが、後世一身に両役|叶《かな》わず、本体の蛇は隠居して池の主淵の主で静まり返り、ミヅチの名は忘らる。さてその分身たる河童小僧が、ミヅシ、メドチ、シンツチ等の号《な》を保続して肛門を覘《うかご》うたり、町婦を姙ませたり、荷馬を弱らせたりし居ると判る。もし本土の何処《どこ》かに多少有害な水蛇が実在するかしたかの証左が挙がらば、いわゆる河童譚はもと水蛇に根拠した本邦固有のもので、支那の蛟の話と多く相似たるは偶然のみと確言し得るに至らん。
 角ある蛇の事、『大清一統志』一五三に、※[#「分+おおざと」、274−3]州神竜山に、長《たけ》寸ばかりの小蛇頭に両角あるを産す。『和漢三才図会』に、青蛇は山中石岩の間にあり、青黄色にて小点あり、頭大にして竜のごとく、その大なるもの一丈ばかり、老いたるは耳を生ず。またウワバミにも、鼠の耳様な小さき耳ありと載せ、数年前立山から還《かえ》った友人言ったは、今もかの辺には角また耳ある蛇存すというと。『新編鎌倉志』には、江島の神宝蛇角二本長一寸余り、慶長九年|閏《うるう》八月十九日、羽州《うしゅう》秋田常栄院尊竜という僧、伊勢|詣《まいり》して、内宮辺で、蛇の角を落したるを見て、拾うたりと添状《そえじょう》ありとて図を出す。日本に角また耳というべきものある蛇が現存するとは受け取れぬようだが、外国にカンボジヤのヘルペトン、西アフリカのビチス・ナシコルニスなど鼻の上に角ごときものあり。北アフリカの角蝮《ホーンド・ヴァイパー》は眼の上に角を具う。それから『荀子』勧学篇に、※[#「縢」の「糸」に代えて「虫」、274−11]蛇《とうだ》足なくして飛ぶとは誠に飛んだ咄《はなし》だが、飛ぶ蛇というにも種々ありて、バルボサ(十六世紀)の『航海記』に、マラバル辺の山に翼ある蛇、樹から樹へ飛ぶと言ったは、只今英語でフライイング・ドラゴン(飛竜)と通称する蜥蜴の、脇骨長くて皮膜を被り、それを扇のごとく拡げて清水の舞台から、相場師が傘さして落ちるように、高い処から巧《うま》く斜めに飛び下りる事|※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠《むささび》に同じきを言ったらしい。
『天野政徳随筆』には、京都の人屋に上り、たちまち雨風に遇った折、その顔近く音して飛ぶ物あり、手に持った鉄鎚《てっつい》で打ち落し、雨晴れてこれを見るに長四尺ばかりの蛇、左右の脇に肉翅を生じてその長四、五寸ばかり、飛魚の鰭《ひれ》のようだったと載す。プリニウスやルカヌスが書いたヤクルスてふ蛇は、樹上より飛び下りる事矢石より疾く、人を傷つけてたちまち死せしむというは、上述わが邦の野槌の俗伝にやや似て居る。一九一三年再版、エノックの『太平洋の秘密』(ゼ・セクレット・オブ・ゼ・パシフィック)一三一頁に記された、南メキシコのマヤ人の故趾に見る羽被った蛇も、能く飛ぶという表示であろう。したがって蛇の霊なる
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