しても出でしむるなかれ、出ださば汝は必ず殺されんと言った。夫またその通り行い、妻竈中で種々言い訳すれど一向心を動かさぬを見極め、ああ道人わが秘密を君に洩らした、彼はわが灰を獲んと望むのだ、君わが秘密を知ったと気付いたなら、われは君を活かし置かなんだはずだと叫んで焼け死んだ。美妻の最後の無惨さに、夫悔い悲しむ事限りなく、精神|魍魎《もうりょう》として家を迷い出で行方知れずなってしまった。道人恐悦甚だしく、残らずかの蛇女の灰を集め、一切の金属を黄金に点化し、大金持に成らんしたそうだ。
エストニアの伝説に、樵夫《きこり》二人林中で蛇をあまた殺し行くと、ついに蛇の大団堆《おおかたまり》に逢い、逃ぐるを金冠戴ける蛇王が追い去《はし》る。一人|振廻《ふりかえ》り斧でその頭を打つと、蛇王金塊となった。サア事だと前の処へ還れば、蛇の団堆でなくて黄金ばかり積まれいた。因ってこれを分ち取り、その半を以て、寺一つ建てたという。わが邦も竹林などに蛇夥しく聚《あつ》まる事あり、蛇の長競《せいくら》べと俗称す。また熊野などに、稀に蝮が群集するを蝮塚と呼ぶ(『中陵漫録』巻十二に見ゆ)。なに故と知らねど、あるいは情欲発動の節至って、匹偶《つれあい》を求むるよりの事かと惟う。諸邦殊に熱地にはこんな事多かるべく、伏蔵ある所においてするもしばしばなるべければ、したがって蛇王宝玉を持つ説も生じただろう。アルメニア人信ずらく、アララット山の蛇に王種あり、一牝蛇を選んで女王と立つ。外国の蛇群来り攻むれど、諸蛇脊に女王を負う間は、敵敗れ退く。女王睨めば敵蛇皆力を失う。この女王蛇口にフルてふ玉を含み、夜中空に吐き飛ばすと、日のごとく輝くと。これいわゆる蛇の長競べが、海狗《オットセイ》や蝦蟆《がま》同様、雌を争うて始まるを謬《あやま》り誇張したのだ。
『甲子夜話』八七に、文政九年六月二十五日、小石川三石坂に蛇多く集まり、重累《かさな》りて桶のごとし、往来人多く留まり見る。その辺なる田安殿の小十人の子、高橋千吉十四歳いう、箱のごとく蛇の重なりたる中には必ず宝ありと聞くとて、袖をかかげ右手を累蛇の中に入れたるに肱《ひじ》を没せしが、やや探りて篆文《てんぶん》の元祐通宝銭一文を得、蛇は散じて行方知れずと。田舎にては蛇塚と号《な》づけて、往々ある事とぞとありてその図を出だし、径《わたり》高さ共に一尺六、七寸と附記す(第一図[#図省略])。竜蛇が如意《にょい》宝珠《ほうしゅ》を持つてふ仏説は、竜の条に述べた。インドのコンカン地方で現時如意珠というは、単に蛇の頭にある白石で、これを取ればその蛇死す。蛇に咬まれた時これをその創《きず》に当つれば、たちまち毒を吸って緑色となるを、乳汁に投ずれば毒を吐いて白色に復《かえ》り乳は緑染す。かように幾度も繰り返し用い得という。またいわく、老蛇体に長毛あるは、その頭に玉あり、その色虹を紿《あざむ》く、その蛇夜これを取り出し、道を照らして食を覓《もと》む。深い藪中に棲み人家に近づかず、神の下属《てした》なれば神蛇《デブア・サールバ》と名づく。サウシの『随得手録《コンモンプレース・ブック》』二に、衆蛇に咬まれぬよう皮に身を裹《つつ》み、蛇王に近づき撻《う》ち殺してその玉を獲たインド人の譚《はなし》あり。
エストニアの俚談にいわく、ある若者奇術を好み、鳥語を解したが、一層進んで夜中の秘密を明らめんと方士に切願した。方士その思い止まるが宜《よろ》しかろうと諫《いさ》めたれど聞き入れぬから、そんならマルク尊者の縁日の夜が近付き居る、当夜蛇王が七年目ごとの例で、某処で蛇どもの集会を開くはず、その節蛇王の前に供うる天の山羊乳を盛った皿に麪麭《パン》一片を浸し、逃げ出す先に自分は口に入れ得たら、夜中の秘密を知り得ると教えた。やがて尊者の縁日すなわち四月二十五日が昏れると、件《くだん》の若者方士が示した広い沢へ往くと、多くの小山のほか何にも見えず、夜半に一小山より光がさした。これ蛇王の信号で、今まで多くの小山と現われて動かず伏しいた無数の蛇ども、皆その方へ進み行き、小山ついに団結して乾草|堆《たい》の大きさに積み累《かさ》なった。若者恐る恐る抜き足して近寄り見れば、数千の蛇が金冠を戴いた大蛇を囲み聚《あつ》まりいた。若者血|凝《かたま》り毛|竪《た》つまで怖ろしかったが、思い切って蛇群中に割り込むと、蛇ども怒り嘯《うそぶ》き、口を開いて咬まんとすれど、身々密に相《あい》纏《まと》うて動作自在ならず、かれこれ暇取る内に、若者蛇王の前の乳皿に麪麭《パン》を浸し、速やかに口に含んで馳《か》け出した。衆蛇|追躡《ついじょう》余りに急だったから、彼ついに絶え入った。旭の光身に当って、翌旦蘇り見れば、かの沢を距つる既に四、五マイル。早《はや》何の危険もないから、終日眠って心身を安め、次夜果して望むところの霊験を得たが、試しのため林中に入るとたちまち浴場が現われ、ただ見る金の腰掛けと、銀の垢磨《あかす》り、銀の盥《たらい》が美々しく列《つら》なりあった。小杜《こもり》の蔭に潜んで覗《のぞ》きいると、暫時して妍華超絶|止《ただ》に別嬪どころでなく、真に神品たる処女、多人数諸方より来り集い、全く露形して皎月《こうげつ》下に身を洗う。正にこれ巫女廟の花は夢の裡《うち》に残り、昭君村の柳は雨のほかに疏《おろそ》かなる心地して、かの者餓鷹の※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を見るがごとく、ただ就いてこれ食いおわらんと要したが、また思い返していずれ菖蒲《あやめ》と引き煩い、かれこれと計較《くらべみ》る内、惜しきは姿、東方明けなんとすると、一同たちまち消え失せた。これら美女、実は草野《かやの》の女王の娘どもで、各森林の精たり。その後今一度彼らの艶容を窺わんと、夜々脚を林中に運べど、処女も浴場も再び現われず、あてもない恋の焔《ほのお》に焦れ死んだ。されば忘れても夜中の秘密研究など志すべきでない。
それから『想山著聞奇集』に、武州で捕えた白蛇の尾尖《おさき》に玉ありたりとて、図を出す。尾尖に大きな小豆《あずき》粒ほどの、全く舎利玉通りなる物、自ずから出来いた由見ゆ。十六年ほど前、和歌山なる舎弟方の倉に、大きな黄頷蛇《あおだいしょう》の尾端|夙《と》く切れて、その痕《あと》硬化せるを見出したが、ざっとこの図に似いた。余り不思議でもなきを、『奇集』に玉と誇称したのだ。毎度尾を引き切れた蛇はかようになるらしく、ロンドン等の地下鉄道を徘徊する猫の尾が、短くなると同じ理窟だ。かく尾切れた蛇を神とし、福を祈る風大和に存すと聞いた。『郷土研究』一巻三九六頁に見た中国の蛇神トウビョウも蛇に似て短いとは、かかる畸形の一層烈しいのでなかろうか。インドのカーシャ|丘《ヒルス》地方の迷信に、蟒蛇《うわばみ》が人家に寓《やど》れば大富を致す。悪人諸方を廻り人を殺して、耳鼻唇髪を切り取り、蟒蛇に捧げて自家に招きおらしむ。土民これを怖れて単身藪林に入らず、蟒蛇を奉崇する家は、何ほど物を売るも更に減らず、したがって金が殖えるばかりちゅう旨《うま》い話だ(一八四四年版『ベンガル亜細亜協会雑誌』十三巻六二八頁)。
異様なる蛇ども
前項にいった、わが邦中国のトウビョウ蛇神が、体短く中太いというについて、必ず聯想さるるは、野槌《のづち》という蛇である。『沙石集』に叡山の二僧相約して、先立ちて死んだ方が後《おく》れた者にきっと転生《うまれかわ》り、所を告ぐべしといった後、まず死んだ僧が残った僧の夢に見えて、我は野槌に生まれたといった。それは希《まれ》に深山にある大きな獣で、目鼻手足なく口ばかりありて人を食う。これ名利を専らにして仏法を学び、口先のみ賢く、智の眼、信の手、戒の足一つもなかったから、かかるのっぺら坊に生まれたと出《い》づ。『和漢三才図会』には、これを蛇の属としいわく、〈深山木竅中これあり、大は径五寸、長《たけ》三尺、頭尾均等、而して尾尖らず、槌の柄なきものに似る、故に俗に呼びて野槌と名づく、和州吉野山中、菜摘川、清明の滝辺に往々これを見る、その口大にして人脚を噬《か》む、坂より走り下り、甚だ速く人を逐う、ただし登行極めて遅く、この故にもしこれに逢わば、すなわち急ぎ高処に登るべし、逐い著く能わず〉。『紀伊続風土記』に、ほとんど同様の事を記し、全身蝮のごとく、噛まば甚だ毒あり、牟婁郡山中稀に産す、『嶺南雑記』に、〈瓊州冬瓜蛇あり、大きさ柱のごとくして長《たけ》ただ二尺余、その行くや跳び躍る、逢々として声あり、人を螫《さ》し立ちどころに死す〉とあると同物だろうという。予が聞き及ぶところ、野槌の大きさ形状等確説なく、あるいは※[#「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1−94−84]鼠《もぐらもち》様の小獣で悪臭ありというが、『沙石集』の説に近い。あるいは、長五、六尺で面桶《めんつう》ほど太く、頭が体に直角をなして附した状、槌の頭が柄に著いたごとしといい、あるいは長二尺ほどの短大な蛇で、孑孑《ぼうふり》また十手を振り廻すごとく転がり落つとも、馬陸《やすで》ごとく環曲《まがっ》て転下すともいい、また短き大木ごとき蛇で大砲を放下するようだから、野大砲《のおおづつ》と呼ぶ由を伝え、熊野広見川で実際見た者は、蝌斗《かえるこ》また河豚《ふぐ》状に前部肥えた物で、人に逢わば瞋《いか》り睨み、大口開きて咬まんとする態すこぶる滑稽《おどけ》たりといった。日高郡川又で聞いたは、この物|倉廩《くら》に籠《こも》る事往々ありと。また大和丹波市近処に捕え来て牀下《ゆかした》に畜《か》うと、眼小さく体|俵《たわら》のように短大となり、転がり来て握り飯を食うに、すこぶる迂鈍《うどん》なるを見たと語った人あり。写真を頼むと安く受け合《い》れたが、六、七年も音沙汰を聞かぬ。
野槌は最初神の名で、諾冉二尊が日神より前に生むところ、『古事記』に、野神名|鹿屋野比売《かやぬひめ》、またの名|野椎《ぬつち》の神という。『日本紀』に、草祖草野姫《くさおやかやぬひめ》またの名|野槌《のづち》と見えて草野の神だ。その信念が追々堕落する事、ギリシアローマの詩に彫刻に盛名を馳《は》せた幽玄絶美な諸神が、今日|藪沢《そうたく》に潜める妖魅に化しおわったごとくなったものか。『文選』の和訓には、支那の悪鬼|人間《じんかん》にありて怪害を作《な》すてふ野仲《やちゅう》をノヅチと訳した。それからちょうど古ギリシアローマの名神に、蛇妖となり下ったものあるように、野槌も草野の神から悪鬼、次に上述通りの異態な蛇を指す号《な》と移ったものか。
今より千十余年前成った『新撰字鏡』に、蝮を乃豆知《のづち》と訓《よ》んだ。ほとんど同時に出来た『延喜式神名帳』、加賀に野蛟神社《のづちのやしろ》二所あり。『古事記伝』に拠れば、ノヅチは野の主の意らしい。予山中岸辺で蝮を打ち殺したつもりで苔など探し居ると、負傷した蝮が孑孑《ぼうふり》様に曲り動いて予の足もとに滑り落ち来れるに気付き、再び念入れて打ち絶やした事三、四回ある。したがって俗伝の野槌は、かように落ち来る蝮から生じた譚で、あるいは上世水辺の蛇を、ミヅチすなわち水の主、野山の蝮をノヅチ野の主と見立てたのかとも思う。ただし野槌に似た動物が、実際世界にないでなく、例せばウロペルチス(円盾《ペルタ》状の尾の義)の一族およそ四十種、南インドとセイロンに産す。山林の土中に棲み、眼至って小さく、両齶に歯あり、尾甚だ短く太く、斜めに截《き》り取られたようで、その端円盾のごとく、その表面|粗《あら》し。それを地に押し著けて歩く、その状あたかも古欧州の軍士が円盾を手で使い分けたごとく、わが邦人に解るように言うなら、塚原老翁が鍋蓋を以て宮本武蔵と立ち廻ったごとしだ。紀州でモッコクの木を食う蠹《きくいむし》に、ちょうど同様の尾を同様に使うのがあるが何というものか知らぬ。予はウロペルチスの生きたのを見た事なけれど、類推すると余り活溌なものでなかろうが、周章《あわて》る時は孑孑様に騒ぎながら、岸より落ちて人を驚かすほどの事はあろう。
支
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