へ吸い込む、かつて大きな野猪が、虎と噛み合うていたところを、大蛇がこの伝で呑んだといい、帽蛇に睥まれた蛙は、哀鳴してその口に飛び入り食わるというとある。ペンナントいわく、響尾蛇《ラトル・スネーク》、樹上の栗鼠を睨めば、栗鼠|遁《のが》れ能わず悲しみ鳴く、行人その声を聞いて、響尾蛇がそこに居ると知る(熊楠、米国南部で数回かかる事あった)。栗鼠は樹を走り、上りまた下り、また上り下る。一回は一回より増えて多く下る。この間蛇は、栗鼠を見詰めて他念なく、人これに近づくもよほど大きな音せねば逃げず、最後に栗鼠蛇の方へ跳び下りるを、待ってましたと頂戴《ちょうだい》しおわると。ル・ヴァーヤンも、親《みずか》ら鳥が四フィートばかり隔てて、蛇に覘《ねら》わるるを見しに、身体|痙攣《ひきつり》て動く能わず。傍人蛇を殺して鳥を救いしも、全く怖れたばかりで死にいた証拠には、その身を検《しら》べしに少しも疵《きず》なかった。また二ヤードほど距てて蛇に覘わるる鼠を見しに、痙攣《ひきつり》て大苦悩したが、蛇を追い去って見れば鼠は死にいたりと。米国のバートンこれを評して、世に事々《ことごと》しく蛇の魅力というは、蛇に覘《ねら》わるる鳥獣がその子供の命を危ぶみ恐れて叫喚するまでの事で、従来魅力一件を調べると、奇とすべき事がただ一つあるのみ、それは観察も相応に、理解もよい人にして、なおこんな愚説を信ずる一事だと言ったが、フェーラーが言ったごとく、蛇に執《とら》われ啖《く》わるるまで一向蛇を恐れぬ動物も、やはり蛇に魅せられるから、魅力すなわち恐怖とも言えぬ。
 明治十九年秋、予和歌山近傍岩瀬村の街道傍の糞壺の中に、蛙が呻《うめ》くを聞き、就《つ》いて見ると尋常《なみ》の青大将が、蛙一つ銜《くわ》え喉へ嚥《の》み下すたびに呻くので、その傍に夥しく蛙がさして、驚いた気色もなく遊び游《およ》ぎ居るを、蛇が一つ呑みおわりてまた一つ、それからまた一つと夥しく取って啖うのだ。予四十分ばかり見ていたが、大分腹も日も北山に傾いて来たから、名残《なごり》惜しげに立ち去った。この場合、もし魅力これ恐怖といわば、壺中で四十分も自在に游ぎ廻る間に、一疋くらいは壺から外へ逃げそうなものだ。しかるに阿片に酔わされた女が、踏み蹴《け》られても支那人の宅を脱せぬごとく、朋輩《ほうばい》が片端から啖わるるを見、呻き声を聴きながら、悠々と壺中に游ぎて壺外に跳び出ぬは、魅力が恐怖と別事たるを証する。洵《まこと》や蛇は寸にしてその気ありで、予当時動物心理学などいう名も知らなんだが、よほど奇妙と思うて、当日の日記に書き留め居る。ロメーンズは諸家の説を審査した後、ある動物は蛇に睥まれて精神混乱し、進退度を失うて逃れぞこない、蛇の口に陥り、また蛇近く走り行くのだろうと言った。
 川口孫次郎氏説に、蛇が苺《いちご》を食うという俗説あり。実際について観察すると、蛇が苺を食うでなくて、苺の蔭に潜《ひそま》り返って水に渇した小鳥が目に立ちて、紅い苺を取りに来るところを捉《と》るのらしいと(『飛騨史壇』二巻九号)。『酉陽雑俎』十六に、〈蛇に水草木土四種あり〉、水や草叢《くさむら》に棲む蛇は本邦にもあり。支那の両頭蛇(蜥蜴《とかげ》の堕落したもの)などは土中に住む。純《もっぱ》ら樹上に住む蛇は熱地に多く、樹葉や花と別たぬまで美色で光る。これは無論他動物をして、蛇自身の体の、花や葉と思い近付かしめて捉うる擬似作用で、本邦のある蛇が苺の下に隠れて鳥を捕うると同じ働きだ。さて予幼年の頃、しばしば蟾蜍《ひき》を育てたが、毎度蟾蜍が遠方にある小虫を見詰むると、虫落ちてそれに捉わるるを見、その後|爬虫《はちゅう》や両棲類や魚学の大家、英学士会員ブーランゼー氏に話すと、そんな事があるものかと笑われたが、人に笑われる者、必ずしも間違って居るにも限らぬと思い、帰朝後長々蛙類を飼い試むるに、幼年の時驚いたほどの事が今も実現する。壺の中へカジカ蛙をあまた容《い》れ、網蓋《あみぶた》の小孔より蠅を入れると、直様《すぐさま》蛙の口へ飛び込んで嚥まるるもあれば、暫時して蛙の方へ飛び行き捉わるるもある。熟《とく》と観察するに、壺中の石の配置や光線が網眼に映る工合、蠅を飛び下す小孔の位地から蠅を持ち行きやる人の手の左右など、雑多の事情に応じて、蠅が孔より飛び入る方角|趨勢《すうせい》がほぼ定まりある。蛙のうち最も賢き奴一疋これを知りて、その日蠅が飛び入りて、必ず一度留まるべき処に上り俟《ま》ちて居ると、蠅をやるごとにちょうどその蛙の口に吸わるるごとく飛び行きて啖わる。五、六度もかくのごとくで一つも過《あやま》たぬ。その蛙が飽き足りて食わぬとなると、今度は蠅が飛び入りて、この蛙の辺にちょっと留まり、更に転下して岩の上の蛙の口に堕つる事、魅力もて吸わるるごとし。もしそれを脱るると、また他の蛙の方へ飛び行きて啖わる。能々《よくよく》観ると、岩面よりも岩の上に高坐した蛙の方が留まりやすき故、蠅が留まりに行って啖われるので、これらも大抵野猪と同じく、蠅の飛ぶ道筋が定まりおり、その道筋に当る所々に、蛙が時移るごとに身を移して、頭を擡《もた》げて待ちいるので、時と位置により、蛙の色種々に少しながら変るもなるべく蠅を惹《ひ》き寄せる便りとなるらしい。一度|忰《せがれ》が牧牛場から夥しく蠅を取り、翼を抜いて嚢《ふくろ》に容れ持ち来り、壺の蓋を去って一斉に放下せしに、石の上に坐しいた蛙ども、喜び勇んで食いおわったが、例の一番賢い蛙は、最初人壺辺に来ると知るや、直様《すぐさま》蓋近き要処に跳び上がり、平日通り蠅を独占しようと構えいたが、右の次第で、全く己より智慧《ちえ》の劣った者どもにしてやられ、一疋も蠅が飛ばねば一疋も口に入らず、極めて失望の体だった。
 蛇の魅力はまだ精査せぬが、蟾蜍《ひき》が毒気を吹いて、遠距離にある動物を吸い落すというはこんな事で、恐怖でも何でもなく、虎や大蛇アナコンダが、鹿来るべき場所を知りて待ち伏せするような事で、蟾蜍や蛙の舌は、妙に速く出入するがあたかも吸い落すよう見ゆるのじゃ。レオナードの『下《ラワー》ナイジァー|およびその諸民族《エンド・イツ・トライブス》』に、アジュアニなる蛇、玉を体内に持ち、吐き出して森中に置き、その光で鼠蛙等を引き寄せ食い、さてその玉を呑み納む。その玉円く滑らかにして昼青く夜光る。この玉を食中に置かば諸毒を避く。ただし蛇の毒には利かず。この玉を取らば光を失えども諸動物を引き寄する力は依然たる故、猟師これを重んじ高価に売買すとあって、著者の評に、これは蛇が眼を以て魅する力あるを、大層に言い立てたのであろうとある。

     蛇と財宝

 竜の条で書いた通り、欧亜諸国で伏蔵すなわち財宝を匿《かく》した処にしばしば蛇が棲むより、竜や蛇が財宝を蓄え護るという伝説が多い。また吝嗇家《しわんぼう》死して蛇となるともいう。『十誦律』に、大雨で伏蔵|露《あらわ》れたのを仏が見て、毒蛇だというと、阿難も悪毒蛇だといって行き過ぎた。貧人聞き付けて往き見れば財宝多し。それを持ち帰って大いに富む。その人と不好《ふなか》な者が、この者宝蔵を得ながら王に告げぬは不埒《ふらち》と訴えければ、王召してことごとくその財物を奪うたとあるを、『沙石集』などに、財は人に禍する事毒蛇に等し、故に仏も阿難も、かく言ったと解したは最もだが、全体インドでは、伏蔵ある所必ず毒蛇が番すると一汎《いっぱん》に信ずるより、時に取ってかかる名言を吐いたのだ。『南史』に、〈梁武帝元洲苑に幸《みゆき》し、大蛇道に盤屈し、群小蛇これを繞るを見る、みな黒色、宮人曰く恐らくこれ銭竜ならん、帝銭十万貫を以て蛇処を鎮め、以てこれを厭す〉、これ支那でも蛇を銭の神としたのだ。
 アルバニアは俗伝に蛇が伏蔵を護り時々地上へ曝《さら》して、財宝に錆《さび》や黴《かび》の付くを防ぐ。牧羊人かつて蛇が莫大の金を巻けるを見、予《かね》て心得いた通り牛乳一桶をその辺に置き潜み窺うと、案の定かの蛇来て乳を飲み尽くし、また金を巻きいたが、渇いて何ともならずついに遠方へ水を求めに往った。その間に牧羊人大願成就|忝《かたじけ》ないと、全然《そっくり》その金を窃《ぬす》み得た(ハーンの『アルバニッシュ・スチュジエン』巻一)。ハクストハウセンが記したはアルメニア人言う、昔アレキサンドル王、その地にその妻妾を封じ込め、蛇をして守らしめたとあるも美女を財貨と同視しての談だ。インドで今も伝うるは、財を守る蛇はすこぶる年寄りで色白く体に長毛あり、財を与えんと思う人の夢にその所在を教え、その人寤《さ》め往きてこれを取らば、蛇たちまち見えなくなると(一九一五年版エントホヴェンの『コンカン民俗記《フォークロール・ノーツ》』七六頁)。また身その分にあらざるに、暴力や呪言もてかかる財を取った者は、必ず後嗣|亡《な》しと(同氏の『グジャラット民俗記』一四〇頁)。『類聚名物考』七は『輟耕録』を引いて、宋帝の後胤《こういん》趙生てふ貧民が、木を伐りに行って大きな白蛇己を噬《か》まんとするを見、逃げ帰って妻に語ると、妻白鼠や白蛇は宝物の変化《へんげ》だといって夫とともに往き、蛇に随って巌穴に入り、黄巣《こうそう》が手ずから※[#「やまいだれ+(夾/土)」、第3水準1−88−54]《うず》めた無数の金銀を得大いに富んだというが、世俗白鼠を大黒天、白蛇を弁財天の使で福神の下属《てした》という。西土の書にも世々いう事と見ゆと載す。
 かく蛇が匿れた財宝を守るというより転じて、財宝が蛇に化《な》るとか、蛇の身が極めて貴い効用を具うるてふ俗信が生じた。ドイツの古話に、蛇の智慧ある王一切世間の事を知る。この王|昼餐《ちゅうさん》後、必ず人に秘して一物を食うに、その何たるを識《し》る者なし。その僕これを奇《あや》しみ私《ひそか》にその被いを開くと、皿上に白蛇あり、一口|嘗《な》むるとたちまち雀の語を解し得たので、王の一切智の出所を了《さと》ったという。北欧セービュルクの物語に、一僕銀白蛇の肉一片を味わうや否や、よく庭上の鶏や鵝《が》や鶩《あひる》や鴿《はと》や雀が、その城間もなく落つべき由話すを聴き取ったとあり。プリニウス十巻七十章には、ある鳥どもの血を混ぜて生きた蛇を食べた人能く鳥語を暁《さと》ると載す。ハクストハウセンの『トランスカウカシア』にいわく、ある若き牧牛人|蛇山《オツエザール》の辺に狩りし、友に後《おく》れて単《ひと》り行く、途上美しき処女が路を失うて痛《いたく》哭《なげ》くに遭《あ》い、自分の馬に同乗させてその示す方へ送り往く内、象牙の英語で相惚《アイボレー》と来た。女言う、妾実は家も骨内《みうち》もない孤児だが、ふと君を一日|見《み》進《まい》らせてより去りがたく覚えた熱情の極、最前のような啌《うそ》を吐《つ》いたも、お前と夫婦に成田山《なりたさん》早く新勝寺《しんしょうじ》を持って見たいと聞いて、男も大いに悦び伴《つ》れ帰って女房にした。ところが一日インドの道人《ファキル》遣って来り、その指環に嵌《は》めた層瑪瑙《オニキス》の力で即座にかの女を蛇の変化《へんげ》と知ったというのは、この石変化の物に逢わばたちまち色を失うからだ。道人すなわち窃《ひそ》かにその由を夫に告げ、啌と思うなら物は試《ため》し、汝の妻にその最も好む食物を煮|調《ととの》わしめ、密《そっ》と塩若干をその中に投じ、彼が遁《のが》れ得ぬよう固く家を鎖《とざ》し、内には水一滴も置かず熟睡したふりで厳に番して見よと教えた。夫その通りして成り行きを伺うとは知るや知らずや、白歯のかの艶妻が夜に入りて起き出で、家中探せど水を得ず、爾時《そのとき》妻|頸《くび》限りなく延び長じ、頭が烟突から外へ出で室内ただ喉の鳴るを聞いたので、近処の川の水を飲み居ると判った。夫これを見て怖れ入り、明日道人に何卒《なにとぞ》妻を除く法を授けたまえと乞うと、道人教えて、妻をして麪麭《パン》を焼かしめ竈《かまど》に入れんとて俯《うつむ》くところを火中に突き落し、石もて竈口を閉じ何ほど哀願
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