掘魔《おうくつま》僧となり、樹下に目を閉じ居る。国王これを訪《おとな》い眼を開きて相面せよといいしに、わが眼睛|耀《てり》射《い》て、君輩当りがたしと答え、国史に猿田彦大神、眼|八咫鏡《やたのかがみ》のごとくにして、赤酸漿《あかかがち》ほど※[#「赤+色」、248−3]《かがや》く、八百万《やおよろず》神、皆|目勝《まか》ちて相問うを得ずとある。いずれも邪視強くて、他《ひと》を破るなり。さて天鈿女《あまのうずめ》は、目人に勝《すぐ》れたる者なれば、選ばれ往きて胸乳《むなち》を露わし、裳帯《ものひも》を臍下に垂れ、笑うて向い立ち、猿田彦と問答を遂げたとあるは、女の出すまじき所を見せて、猿田彦の見毒を制服したのだ。
『郷土研究』四巻二九六頁、尾佐竹猛氏、伊豆|新島《にいじま》の話に、正月二十四日は、大島の泉津村|利島《としま》神津島とともに日忌《ひいみ》で、この日海難坊(またカンナンボウシ)が来るといい、夜は門戸を閉じ、柊《ひいらぎ》またトベラの枝を入口に挿し、その上に笊《ざる》を被《かぶ》せ、一切外を覗《のぞ》かず物音せず、外の見えぬようにして夜明けを待つ。島の伝説に、昔泉津の代官|暴戻《ぼうれい》なりし故、村民これを殺し、利島に逃れしも上陸を許されず。神津島に上ったので、その代官の亡霊が襲い来るというのだが、どうも要領を得ぬとある。吾輩一家でさえ、父の若い時の事を、父に聞いても分らぬ事多く、祖父の少時の事を、祖父に聞くと一層解しがたく、曾祖高祖等が履歴を自筆せるを読むに、寝言また白痴のごとき譫語《たわごと》のみ、さっぱり要領を得ぬが、いずれも村の庄屋を勤めた人故、狂人にもあるまじ、その要領を得がたきは、彼らが朝夕見慣れいた平凡極まる事物一切が、既に変り移ってしまったから、彼らが常事と心得た事も、吾輩に取っては稀代の異聞としか想われぬに因る。
 一九〇三―四年の間、グリーンランドのエスキモ人の中に棲んだ、デンマルク人ラスムッセンの『|極北の人民《ゼ・ピープル・オヴ・ゼ・ポラー・ノース》』を読むに、輓近《ばんきん》エスキモ人がキリスト教に化する事多きより、一代前の事は全く虚誕のごとく聞えるが、遺老に就いて種々調べると、欧人が聞いて無残極まり、世にあり得べからずと思われる事や、奇怪千万な行いなどは、彼らに取ってはありふれた事で、欧人が聞くに堪えぬと惟《おも》う話のその聞くに堪えぬところが、彼らのもっとも面白がるところである。したがって欧人が何とも要領を得ず、拙作極まる小説としか受け取れぬ諸誕は、ことごとく実在した事歴を述べたものだと論じ居る。新島《にいじま》の伝説もこの通りで、代官暗殺云々は全く事実であろう。代官の幽公が来るのを懼れて、戸を閉じ夜を守ったも事実であろう。柊は刺で、トベラは臭気で悪霊を禦ぐは分りやすいが、笊《ざる》を何故用いるか。種彦《たねひこ》の『用捨箱《ようしゃばこ》』巻上に、ある島国にていと暗き夜、鬼の遊行するとて戸外へ出でざる事あり。その夜去りがたき用あらば、目籠を持ちて出るなり、さすれば禍なしと、かの島人の話なりといえるは、やはり新島辺の事で、昔は戸口にも笊を掛け、外出にも持ち歩いたであろう。種彦は、江戸で二月八日|御事始《おことはじめ》に笊を門口に懸けた旧俗を釈《と》くとて、昔より目籠は鬼の怖るるといい習わせり、これは目籠の底の角々は☆|如此《かく》晴明九字(あるいは曰く晴明の判)という物なればなり。原来の俗説、ただ古老の伝を記すと言ったが、その俗説こそ大いに研究に用立つなれ。すなわちこの星状多角形の辺線は、幾度見廻しても止まるところなきもの故、悪鬼来りて家や人に邪視を加えんとする時、まずこの形に見取れ居る内、邪視が利かなくなるの上、この晴明の判がなくとも、すべて籠細工の竹条は、此処《ここ》に没して彼処《かしこ》に出で、交互起伏して首尾容易に見極めにくいから、鬼がそれを念入れて数える間に、邪視力を失うので、イタリア人が、無数の星点ある石や沙や穀粒を、袋に盛って邪視する者に示し、彼これを算《かぞ》え尽くすの後にあらざれば、その力|利《き》かずと信ずると同義である。節分の夜、豆|撒《ま》くなども、鬼が無数の豆を数え拾う内に、邪力衰うべき用意であろう。
 かつて強盗多かった村人に聞いたは、強盗盛んな年は、家に小銭を多く貯え置く、泥的御来臨のみぎり、二、三問答の上、しからばやむをえない、貴公らに金を仮りたとあっては相済まぬ、少々ながら有金すっかり進呈しよう、大臣にでもなったら返しくだされ、その節は、子供を引き立てくだされなど、能《いい》加減に述べて、引き出しを抽《ひ》いて、たちまち彼奴《かやつ》の眼前へ打ち覆《かえ》すと、無数の小銭が八方へ転がり走る。泥公一心これを手早く掻き込むに取り忙ぎ、銭の多寡を論じたり、凶器を弄《もてあそ》ぶに暇なく、集めおわりてヘイさようならで慌《あわ》て去るものだ。強盗に逢ったら僕の名を言いたまえ、毎度逢って善い顧客だから麁略《そりゃく》にすまい、貴下のような文なしには、少々置いて行くかも知れぬと教えくれたが、まだ一度も逢わぬから、折角の妙案も実試せぬ。全体予の事を、人々が女に眉毛を読まれやすいと言うを、いかにも眉毛が鮮かなと讃めてくれると思うたが、拙妻聞いて更に懌《よろこ》ばぬから、奇妙と惟《おも》いいた。ところが『郷土研究』四の四三三頁に、林魁一君が、美濃の俗伝を報じた内に、眉毛に唾《つば》を塗ると毛が付き合うて、狐その数を読む能わず、したがって魅《ばか》す事がならぬとあるを読んで大いに解り、〈人書を読まざればそれなお夜行のごとし〉と嘆じた。マアこんな訳故、新島の一条も、もと目籠を以て邪視を避くる風が、エジプト、インド、東京《トンキン》、イタリア等同様、日本にもありしが、新島ごとき辺土に永く留まった。そこへ代官暗殺されその幽霊の来襲を惧《おそ》るる事甚だしくなりて、今更盛んに目籠を以てこれを禦ぎしより、ついに専ら代官殺しが、日忌の夜笊を出す唯一つの起りのよう、訛伝《かでん》したのであろう。
 邪視は、人種学民族学、また宗教学上の大問題で、エルウォーシー等の著述もあり。本邦これに関する事どもは、明治四十二年五月の『東京人類学会雑誌』と、英京の『ネーチュール』に拙文を出したから、御覧を願うとして、改めて蛇と邪視の関係を述べんに、前述のごとく蛇の画もて、鬼や妖巫の邪視を禦ぎ、大効あると同時に、蛇自身の眼にも、強い邪視力があると信ずる民多し。いわゆる蛇の魅力(ファッシネーション)だ。

     蛇の魅力

『塵塚《ちりづか》物語』は、天文二十一年作という、その内にいわく「ある人の曰く、およそ山中広野を過ぐるに、昼夜を分たず心得あるべし、人気|罕《まれ》なる所で、天狗魔魅の類、あるいは蝮蛇を見付けたらば、逃げ隠るる時、必ず目を見合すべからず。怖ろしき物を見れば、いかなる猛《たけ》き人も、頭髪立て足に力なく振い出《い》づ。これ一心顛倒するに因ってかかる事あり。この時眼を見合すれば、ことごとくかの物に気を奪われて、即時に死するものなり。ほかの物は見るとも、構えて眼ばかりは窺《うかが》うべからず。これ秘蔵の事なり。たとえば暑き頃、天に向いて日輪を見る事暫く間あらば、たちまち昏盲として目見えず。これ太陽の光明|熾《さかん》なるが故に云々。万人に降臨して、平等に臨みたもう日天さえかくのごとし、いわんや魔魅|障礙《しょうげ》の物をや、毫髪《ごうはつ》なりとも便を得て、その物に化して真気を奪わんと窺う時、眼を見るべからずとぞ」。曖昧な文だが、日本にも邪視を怖るる人あり、蛇に邪視ありと信じた証に立つ。この論に、日の光が人の眼を眩ますを、邪視に比したは、古エジプトで諸神の眼力極めて強く、能く諸物を滅すとせるに似て面白い。たとえば、古エジプトの神ホルスは、日を右眼とし、月を左眼とし、その眼力能く神敵たる巨蛇アペプを剄《くびき》る。また神怒れば、その眼力叢林を剿蕩《そうとう》す。またラー神の眼、諸魔を平らぐるに足るなど信じた。『薩婆多論』に、むしろ身分を以て毒蛇口中に入るも、女人を犯さざれ、蛇に三事ありて人を害す、見て人を害すると、触れて害すると、噛んで害するとあり。蛇と等しく女人にも三害あり。もし女人を見れば、心欲想を発し人の善法を滅す、もし女人の身に触るれば、身中罪を犯し、人の善法を滅す。もし共に交会せば、身重罪を犯し人の善法を滅す。また七害あり。一には、もし毒蛇に害せらるればこの一身を害すれど、女人に害せらるれば、無数身を害す云々と、長たらしく女の害、遥かに蛇に勝《まさ》れる由数え立て居る。ここに蛇見て人を害すとあるは、インドでも蛇は邪視を行うとしたのだ。ただし女人には、邪視や見毒のほかに、愛眼というやつがあって、その効果もっとも怖ろしい。本町二丁目の糸屋の娘、姉が二十一、妹が二十、諸国諸大名は刃《やいば》で殺す、この女二人は、眼元で殺すと唄うこれなり。その糸屋はどうなったか、博文館は同町故、取り調べて史蹟保存とするがよい。要するに女人は、毒蛇よりも忌むべしなどいうは、今日に適せぬ愚論で、中古の天主徒が洗浴を罪悪として、某尊者は、幾年|浴《ふろ》に入らなんだなど特書したり、今日の耶蘇《ヤソ》徒が禁酒とか、公娼廃止とか喋舌《しゃべ》ると同程度の変痴気説じゃ。一六四四年、オランダで出版された『ヒポリツス・レジヴィヴス』てふ詩は、手苛《てひど》く婦女を攻撃したものだが、発端に作者自ら理論上女ほど厭な者はない、しかし実行上好きで好きで神と仰ぐと断わって居るは、最《いと》粋な人だ。惜しい事にはその本名が伝わらぬ。上に引いた『薩婆多論』の述者も、多分こんな性の坊主だろう。
 女の方へ脱線ばかりすると方付《かたづ》かぬから、また蛇の方へ懸るとしよう。まず蛇の魅力の豪い奴から始める。『酉陽雑俎』の十に、〈蘇都瑟匿国西北に蛇磧あり、南北蛇原五百余里、中間あまねき地に、毒気烟のごとくして飛鳥地に墜つ、蛇因って呑み食う〉、これは地より毒烟上りて、鳥を毒殺するその屍を蛇が食うのか、蛇がその磧《すなはら》一面に群居し、毒気を吐きて鳥を堕《おと》し食うのか判らぬ。蛇が物を魅するというは、普通に邪視を以て睥《にら》み詰めると、虫や鳥などが精神|恍惚《とぼけ》て逃ぐる能わず、蛇に近づき来り、もしくは蛇に自在に近づかれて、その口に入るをいうので、鰻が蛇に睥まれて、頭を蛇の方へ向け游《およ》ぎ、少しも逃げ出す能わなんだ例さえ記されある。『予章記』に、呉猛が殺せし大蛇は、長《たけ》十余丈で道を過ぐる者を、気で吸い取り呑んだので、行旅《たびびと》断絶した。『博物志』に、天門山に大巌壁あり、直上数千|仭《じん》、草木|交《こもご》も連なり雲霧|掩蔽《えんぺい》す。その下の細道を行く人、たちまち林の表へ飛び上がる事幾人と知れず。仙となりて昇天するようだから、これを仙谷と号《な》づけた。遠方から来て昇天を望む者、この林下にさえ往けば飛び去る。しかるにこれを疑う者あり、石を自分の身に繋《つな》ぎ、犬を牽《ひ》いて谷に入ると犬が飛び去った。さては妖邪の気が吸うのだと感付き、若少者《わかもの》数百人を募り捜索して、長数十丈なる一大|蟒蛇《うわばみ》を見出し殺した(『淵鑑類函』四三九)。
 プリニウスいわく、ポンツスのリンダクス河辺にある蛇は、その上を飛ぶ鳥を取り呑む、鳥がどれほど高く速く飛んでも必ず捉わると。『サミュール・ペピスの日記』一六六一年二月四日の条に、記者ある人より聞いたは、英国ランカシャーの荒野に大蛇あり、雲雀《ひばり》が高く舞い上がるを見て、その真下まで這い行き口を擡《もた》げて毒を吐かば、雲雀たちまち旋《かえ》り堕ちて蛇口に入り、餌食となると書いた。コラン・ド・プランシーの『妖怪辞彙《ジクチョネーランフェルナル》』五版四一三頁に、ペンシルヴァニアの黒蛇、樹下に臥して上なる鳥や栗鼠《りす》を睥むと、たちまち落ちてその口に入るといい、サンゼルマンの『緬甸帝国誌《ゼ・バーミース・エンパイヤー》』に、ビルマ人は、蛇が諸動物を魅して口
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