中、結び目を六つまで解く、宮に入って王の前で、七つ目の結びを解く、時に王水をその創《きず》に灌《そそ》ぎ、また両手に懸け、一梵士来りて祈りくれると、平治して村へ還ると。トダ人蛇咬を療するに、女の髪を捻《ねじ》り合せて、創の近処三所括り呪言を称う(リヴァルス著『トダ人篇』)。いかなる理由ありてか、紀州でウグちゅう魚に刺されたら、一日ばかり劇しく痛み、死ぬ方が優《まし》じゃなど叫ぶ時、女の陰毛三本で創口を衝《つ》かば治るという。『郷土研究』二巻三六八頁にも、門司でオコゼに刺された処へ、女陰の毛三筋当て置けば、神効ありと出《い》づ。ある人いわく、ウグもオコゼも人を刺し、女は※[#ゴマ、1−3−30]※[#ゴマ、1−3−30]※[#ゴマ、1−3−30]※[#ゴマ、1−3−30]。その事大いに異なれど国言相通ず。陰陽和合して世間治安する訳だから、魚に一たび刺された代りに※[#ゴマ、1−3−30]※[#ゴマ、1−3−30]※[#ゴマ、1−3−30]※[#ゴマ、1−3−30]仇を、徳で征服する意で、女人の名代にその毛を用いるのだと。これは大分受け取りがたい。しかし女の髪といい、三という数がインドのトダ人の呪術にもあるが面白い。
『古事記』にも、須佐之男命《すさのおのみこと》の女|須勢理毘売《すせりびめ》が、大国主命《おおくにぬしのみこと》に蛇の領巾《ひれ》を授けて、蛇室中の蛇を制せしめたとあれば、上古本邦で女がかかる術を心得いたらしい。インドの術士は能く呪して、手で触れずに蛇を引き出し払い去る(一九一五年版エントホヴェンの『コンカン民俗記』七七頁)。アツボットの『マセドニアン民俗《フォークロール》』に、かの地で蛇来るを留むる呪あり。「諸害物の駆除者モセスは、柱と棒の上に投鎗を加えて、十字架に像《かた》どり、その上に地を這う蛇を結い付けて、邪悪に全勝せり、モセスかくて威光を揚げたれば、吾輩は吾輩の神たるキリストに向いて唄うべし」という事だ。欧州で中古|禁厭《まじない》を行う者を火刑にしたが、アダム、エヴァの時代より、詛《のろ》われた蛇のみ厭《まじな》う者を咎《とが》めなんだ。蛇を見付けた処から、少しも身動きせざらしむる呪言は「汝を造れる上帝を援《ひ》いてわれ汝に、汝の機嫌が向おうが向くまいが、今汝が居る処に永く留まれと命じ、兼ねて上帝が汝を詛いしところのものを以て汝を詛う」というのだ(チャムバースの『ブック・オブ・デイス』一巻一二九頁)。『嬉遊笑覧』に、『萩原随筆』に蛇の怖るる歌とて「あくまたち我たつみちに横《よこた》へば、やまなしひめにありと伝へん」というを載せたり。こは北沢村の北見伊右衛門が伝えの歌なるべし。その歌は、「この路に錦|斑《まだ》らの虫あらば、山立姫に告《い》ひて取らせん」。『四神地名録』多摩郡喜多見村条下に、この村に蛇除《へびよけ》伊右衛門とて、毒蛇に食われし時に呪いをする百姓あり、この辺土人のいえるには、蛇多き草中に入るには、伊右衛門/\と唱えて入らば、毒蛇に食われずという、守りも出す。蛇多き時は、三里も五里も、守りを受けに来るとの事なり、奇というべしといえり。さてかの歌は、その守りなるべし。あくまたちは赤斑なるべく、山なし姫は、山立ひめなるべし。野猪をいうとなん、野猪は蛇を好んで食う、殊に蝮《まむし》を好む由なり。予在米の頃、ペンシルヴァニア州の何処《どこ》かに、蛇多きを平らげんとて、欧州より野猪を多く輸入し、放ちし事ありし。右の歌、蛇を悪魔とせしは、耶蘇《ヤソ》教説に同じ。梨《ありのみ》と言い掛けた山梨姫とは、野猪が山梨を嗜《この》むにや、識者の教えを竢《ま》つ。
三河国|池鯉鮒《ちりふ》大明神の守符、蛇の害を避く。その氏子の住所は蛇なく、他の神の氏子の住所は、わずかに径《こみち》を隔つも蛇棲む。たといその境|雑《まじ》るもかくのごとし(『甲子夜話』続篇八〇)。和歌山近在、矢宮より出す守符は妙に蝮に利《き》く。蝮を見付けてこれを抛《な》げ付くると、麻酔せしようで動く能わずというが、予|尋常《なみ》の紙を畳んで抛げ付けても、暫くは動かなんだ。世に蝮指というは、指を緊張して伸ばし、先端の第一関節のみ折れ曲がりて、蛇の鎌頸状を成すので、五指ことごとくそうなるを苦手《にがて》といい、蛇その人を見れば怖れて動かず、自在に捕わるそうだ(『郷土研究』四の五〇二)。予の現住地の俗信に、蝮指の爪は横に広く、癪《しゃく》を抑うるに効あり、その人手が利くという。拙妻は左手のみ蝮指だから、亭主|勝《まさ》りの左|利《きき》じゃなかろうかと案じたが、実は一滴も戴《いただ》けませんから安心しやした。それからまた、苦手の人蟹を掴み、少時経つとその甲と手足と分れてしまうという、『仏説穣麌梨童女経』は、蛇を死活せしむる真言を説いた物だ。
蛇で占う事、『淵鑑類函』四三九に、『詩経類考』を引いて、江西の人、菜花蛇てふ緑色の蛇を捕え、その蟠《わだかま》る形を種々の卦《け》と名づけ、禍福を判断し俚俗これを信ずと出《い》づ。『酉陽雑俎』に、蛇|交《つる》むを見る人は三年内に死す。ハツリットの『|諸信および民俗《フェース・エンド・フォークロール》』二に、古ローマ人は蛇の動作を見て卜《うらの》うた。ロッス説に、水蛇と陸上の蛇の闘いは、人民の不幸を予示すと。アツボットいわく、マセドニア人、首途《かどで》に蛇を見れば不吉として引き還すと。ラームグハリット言う、ニルカンス鳥は、女神シタージの使物として、インドに尊ばる帽蛇、蛙を啣《くわ》え、頭にこの鳥を載せて川を渡るを見る人は、翌年必ず国王となると。南方先生裸で寝て居る所へ、禁酒家の娘が百万円持参で、押し付け娵入《よめい》りに推し懸くるところを見た人はという事ほど、さようにあり得べからざる事である。
ハツリット説に、一八六九年アルゼリアのコンスタンチナ市裁判所で、夫が妻の貞操を疑うて、その鼻と上唇を截《き》った裁判あった時、妻の母いわく、この男は悋気《りんき》甚だしいから、妾それを止めんとて、高名な道士に蛇の頭を麻の葉に裹《つつ》んでもらい、婿の頭巾の襞《ひだ》の中へ入れるつもりでしたと言い、傍聴人に向って、何とこの法が一番能く利くでありませぬかと問うと、たちまちアラブ人数名頭巾を脱いで、銘々そうともそうとも、吾輩も悋気が豪《えら》いからこの通りと言って、件《くだん》の禁厭品《まじないもの》を取り出し示したが、陪席の土人官員一名、また判官の問いをも俟《ま》たず、僕も妻について焼かぬ間もなしだから、この通り蛇頭を戴きおります、蛇頭は男子を強力、女人を貞実ならしむる物ですと述べたそうだ。ブラックの『俚薬方篇《フォーク・メジシン》』五九頁に、英国サセックスの俗頸|腫《は》れた時、蛇を頸の上に挽《ひ》きずり、罎《びん》に封じ固く栓して埋めると、蛇腐るに随って腫れ減ずと見ゆ。これは英国で、蝸牛《かたつむり》や牛肉や林檎《りんご》に疣《いぼ》を移し、わが邦《くに》でも、鳥居や蚊子木葉《いすのきのは》に疣を伝え去るごとく、頸の腫れを蛇に移すのだ。紀伊、伊勢等で蛇の屍を丁寧に埋め、線香供え日参すれば、歯痛癒ると信じ、予小時毎度頼まれて蛇を殺した。中世スペインの天主教名僧、ロムアルドの遺骸を、分配供養して功徳とせんと、熱心の余り、上人《しょうにん》を殺さんとしたごとし。今となっては仔細判らざれど、初めは蛇の屍で歯を撫《な》で、痛みを移して埋めたであろう。三河で病人久しく一の場所で臥せば、青大将に血を吸わるという(『郷土研究』三の一一八)。
『英国人類学会雑誌』十巻三〇九頁にいう、ソロモン島では、人の余食を神池の魚や蛇に食わせば、その人死すというと。インドのパンジャブで伝うるは、孕婦《ようふ》の影、蛇に懸れば、その蛇盲となると(『パンジャブ随筆問答雑誌』一)。また、コルベル・ロンギシムスは、医神エスクラピウスの使で、その到る処万病を除くとて、ローマの軍隊遠征にこの蛇数|疋《ひき》を伴れ行いた。米人リーランドの『俗伝に残った、ユトラスカとローマの旧習』(一八九二年ロンドン版)にいわく、「イタリアのロマニヤ地方の民、邪視と妖巫《ようふ》を避け、奇幸を迎うるため壁に蛇を画く、ただし尾を上に頭を下に、身体諸部混雑して結び居るを要す。また二、三の蛇、互いに纏うた処を編み物にして戸口に掲ぐる。ペルシアで絨氈《じゅうたん》の紋の条を、なるべく込み入って相|絡《から》んだ画にするも、邪視を禦《ふせ》ぐためだ」とあって、長々その理由を演《の》べ居る。すべてかくのごとく小むずかしく縺《もつ》れ絡んだ蛇の画を、護符として諸多の災害を避くるは、イタリアに限らず、例せば一切経中に見る火難|除《よ》けの符画も、熟《よく》視《み》るとやはり蛇の画だ。日本でも吾輩幼時、出雲の竜蛇、その他蛇の画符を悪魔除けとして、門戸に貼《は》ったのが多かった。リーランドいう、妖巫や邪視する人が、かく縺れ絡んだ物を見ると、線の始めから終りまで、細《くわ》しく視届けるその間に、邪念も邪視力も大いに弱り減ずる故、災難を起し得ぬ。ちょうど疳持《かんもち》の小児が、むつかしくぐずり掛かるところへ、迷宮様に道筋を引き廻した図や、縺れ解けぬ片糸を手渡せば、一心不乱にその方をほどきに懸る内、最初思い立ちいた小理窟は、忘れてしまうがごとしと。ここにいえる妖巫、英語でウィッチ、伊語でストレガ、女人殊に老女が、左道を修め鬼魅に事《つか》え、悪念を以て人畜を害する者で、中には世襲の妖巫輩出する部落も家族もある。而《しか》してその妖巫の眼力が邪視だ。本邦にも、飛騨《ひだ》の牛蒡《ごぼう》種てふ家筋あり、その男女が悪意もて睨《にら》むと、人は申すに及ばず菜大根すら萎《しぼ》む。他家へ牛蒡種の女が縁付いて、夫を睥《にら》むとたちまち病むから、閉口してその妻の尻に敷かれ続くというが、てっきり西洋の妖巫に当る。
邪視英語でイヴル・アイ、伊語でマロキオ、梵語でクドルシュチス。明治四十二年五月の『東京人類学会雑誌』へ、予その事を長く書き邪視と訳した。その後一切経を調べると、『四分律蔵』に邪眼、『玉耶経』に邪盻《じゃけい》、『増一阿含』に悪眼、『僧護経』『菩薩処胎経』に見毒、『蘇婆呼童子経』に眼毒とあるが、邪視という字も『普賢行願品』二十八に出でおり、また一番好いようでもあり、柳田氏その他も用いられ居るから、手前味噌ながら邪視と定め置く。もっとも本統の邪視のほかにインドでナザールというのがあって、悪念を以てせず、何の気もなく、もしくは賞讃して人や物を眺めても、眺められた者が害を受けるので、予これを視害と訳し置いたが、これは経文に因って見毒と極《き》めるがよかろう。
南欧や北アフリカからペルシア、インドに、今もこの迷信甚だ行われ、悪《にく》み蔑《みさぐ》るどころか賞めてなりとも、人の顔を見ると非常に機嫌を損じ、時に大騒動に及ぶ事あり。故に邪視を惧るる者、ことさらに悪衣を着、顔を穢《よご》し痣《あざ》を作りなどして、なるべく人に注視されぬようにし、あるいは男女の陰像を佩《お》びて、まず前方の眼力をその方に注ぎ弱らしむ。支那の古塚に、猥褻《わいせつ》の像を蔵《おさ》めありたり。本邦で書箱|鎧櫃《よろいびつ》等に、春画《まくらえ》を一冊ずつ入れて、災難除けとしたなども、とどの詰まりはこの意に基づくであろう。アイルランドには、古建築殊に寺院の前に、陰を露わせる女の像を立てたるものあり、邪視の者に強く睨まるれば火災等起る。しかるにその人の眼、第一に女陰の方へ惹《ひ》かれて、邪力幾分か減散すれば、次に寺院を睥んでも、大事を起さぬ。すなわち女陰が避雷柱《かみなりよけ》のような役目を務むるのじゃと。かの国人で、只今大英博物館人類学部長たるリード男の直話だった。わが邦で、拇指を食指と中指の間に挟《はさ》み出し人に示すは、汝好色なりという意という事だが、イタリア人などにそれを見せると、火のごとくなって怒る。それから殺人に及んだ例もある。自分を邪視力ある者と見定め、その害を避けんとて、陰相を作り示すと心得て怒るのだ。仏経に鴦
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