も刀杖の持ち合せない時、これに向って汝は卑怯者だ逃げ去る事はならぬぞといい置き、家に還って鋤《すき》鍬《くわ》を持ち行かば蝮ちゃんと元のままに待って居る。竿でその頭を※[#「てへん+孑」、234−14]《せせ》るにかつて逃げ去らず。徐々《そろそろ》と身を縮め肥えてわずかに五、六寸となって跳び懸かるその頭を拗《ひし》げば死すとある。蝮は蛇ほど速く逃げ去らぬもの故、人に詞《ことば》懸けられてその人が刀杖を取りに往く間待って居るなど言い出したのだ。
英国や米国南部やジャマイカでは、蛇をいかほど打ち拗《ひし》ぐとも尾依然動きて生命あるを示し、日没して後やっと死ぬと信ず(『ノーツ・エンド・キーリス』十輯一巻二五四頁)。英のリンコルンシャーで伝うるは、蛇切れたら切片が種々動き廻り切り口と切り口と逢わば継ぎ合うて蘇る。それ故蛇を殺すにはなるべく多くの細片に切り※[#「坐+りっとう」、第3水準1−14−62]《きざ》めばことごとく継ぎ合うに時が掛かる、その内に日が没《い》るから死んでしまうそうじゃ。日向《ひゅうが》の俗信に、新死《しんし》の蛇の死骸に馬糞と小便を掛けると蘇ると(『郷』四の五五五)。右リンコルンシャーの伝は欧州支那ビルマ米国に産する蛇状蜥蜴《オフィオサウルス》を蛇と心得て言い出したのだ。外貌甚だ蛇に似た物だが実は蜥蜴が退化して前脚を失い後脚わずかに二小刺となりいる。すべてこんな蜥蜴が退化してほとんどまたは全く四脚を失うたものと真の蛇を見分けるには、無脚蜥蜴の瞼《まぶた》は動くが蛇のは(少数の例外を除いて)動かぬ。蛇の下齶の前《さき》にちょっと欠けた所があって口を閉じながらそこから舌を出し得るが蜥蜴の口は開かねば舌を出し得ぬ。また蛇の腹は横に広くて脇から脇へ続いて大きな鱗一行(稀に二行)を被るに蜥蜴の腹は鱗七、八行またそれより少なくとも一行では済まぬ。それから蜥蜴の腹を逆《さか》さに撫でるに滑らかなれど、蛇の腹を逆撫ですると鱗の下端が指に鈎《かか》る。また無脚蜥蜴は蛇の速やかに走るに似ず行歩甚だ鈍い。さて蛇状蜥蜴《オフィオサウルス》はすべて三種あるが皆尾が体より遥かに長くその区分がちょっとむつかしい。その尾に夥《おびただ》しく節あり、驚く時非常な力で尾肉を固く縮める故ちょっと触《さわ》れば二、三片に断《き》れながら跳《おど》り廻る。これは蜥蜴の尾にも能く見るところで切った尾が跳り行くのに敵が見とれ居る間に蜥蜴は逃げ去るべき仕組みだ。こんな事から米国でも欧州でも蛇状蜥蜴《オフィオサウルス》を硝子蛇《グラス・スネーク》と呼ぶ。鱗が硝子《ガラス》様に光り長い尾が硝子のごとく脆《もろ》く折れるからだ。したがって支那にも『淮南子』に神蛇自らその尾を断ち自ら相続《あいつ》ぐ、その怒りに触ればすなわち自ら断つ事刀もて截《た》つごとし、怒り定まれば相就《あいつ》いて故《もと》のごとし。『潜確類書』に〈脆蛇一名片蛇、雲南の大侯禦夷州に出《い》づ、長二尺ばかり、人に遇わばすなわち自ら断ちて三、四となる人去ればすなわちまた続《つな》ぐ、これを乾して悪疽《あくそ》を治す云々〉。米国でも硝子蛇ちょっと触れば数片に折《さ》け散りまた合して全身となるといい、それより転じて真の蛇断れた時|艾《よもぎ》のような草で自ら続《つ》ぎ合すという(オエン『|老兎および巫蠱篇《オールド・ラビット・ゼ・ヴーズー》』)。
プリニウス言う、ハジ(アフリカの帽蛇)の眼は頭の前になくて顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》にあれば前を見る事ならず、視覚より足音を聴いて動作する事多しと。テンネントの『錫蘭博物志《ゼ・ナチュラル・ヒストリー・オブ・セイロン》』にいわく、セイロンで蛇に咬まるるはほとんど皆夜なり。昼は人が蛇を見て注意すれど闇中不意に踏まば蛇驚いて正当防禦で咬むのだ。故に土人闇夜外出するに必ず錫杖《しゃくじょう》を突き蛇その音を聴いて逃げ去ると。しかるに蝮は逃ぐる事遅いから英国労働者などこれを聾と見、その脊の斑紋実は文字で歌を書いて居るという。その歌を南方先生が字余り都々逸《どどいつ》に訳すると「わが眼ほど耳がきくなら逃げ支度して人に捉《と》られはせぬものを」だ。鶯も蛙も同じ歌仲間というが敷島の大倭《おおやまと》での事、西洋では蝮が唄を作るのじゃ。蛇は多く卵で子を生むが蝮や海蛇や多くの水蛇や響尾蛇《ラトル・スネーク》は胎生だ。『和漢三才図会』に蝮の子生まるる時尾まず出で竹木を巻き母と子と引き合うごとく、出生後直ぐに這い行く、およそ六、七子ありという。ホワイトの『セルボルン博物志』には、蝮の子は生まるると直ぐ歯もないくせに人を咬まんとす、雛鶏|趾《けづめ》なきに蹴り、羔《こひつじ》と犢《こうし》は角なきに頭もて物を推し退くと記した。いわゆる蛇は寸にしてその気ありだ。蟾蜍《ひきがえる》など蛙類に進退|究《きわ》まる時頭を以て敵を押し退けんとする性あり。コープ博士だったかかくてこの輩の頭に追々角が生《は》える筈といったと覚える。支那の書に角ある蟾蜍の話あるは虚構とするも、予輩しばしば睹《み》た南米産の大蛙ケラトリフス・コルナタは両眼の上に角二つある。それ羔《こう》犢《とく》角なきに衝《つ》く真似し歯もなき蝮子が咬まんとするは角あり牙ある親の性を伝えたに相違ないが、件《くだん》のコープの説に拠ると、いずれも最初に衝こう咬もうという一念から牛羊の始祖は角、蝮の始祖は牙を生じたのだ。ブラウンの『俗説弁惑《プセウドドキシア》』三巻十六章にヘロドテ等昔の学者は、蝮子母の腹を破って生まる。これ交会の後雌蝮その雄を噛み殺す故、その子父の復仇に母の腹を破るのだと信じた。かく蝮は父殺しを悪《にく》むもの故ローマ人は父殺した人を蝮とともに嚢《ふくろ》に容れて水に投げ込み誅したと出《い》づ。ただし天主教のテクラ尊者は蛇坑に投げられ、英国中古の物語に回主がサー・ベヴィス・オブ・ハムプタウンを竜の牢に入れたなどいう事あれば、ローマ人のほかに蛇で人を刑した例は西洋に少なからぬじゃ。東洋では『通鑑《つがん》』に後漢の高祖が毒蛇を集めた水中に罪人を投じ水獄と名づけた。また仏経地獄の呵責を述ぶる内に罪人蛇に咬まるる例多きは、インドにも実際蛇刑があったに基づくであろう。わが邦にそんな実例のあった由を聞かねど、加賀騒動の講談に大槻蔵人一味の老女竹尾が彼輩姦謀|露《あら》われた時蛇責めに逢うたとあるは多分虚譚であろう。大水の時蛇多く屋根に集まり、わずかに取り縋《すが》りいる婦女や児輩が驚き怖れて手を放ち溺死する事しばしばあったと聞く。
毒蛇が窘《くるし》められた時思い切って自分の身を咬んで絶命するという事しばしば聞いたが、毒蛇を酒精に浸すと困《くるし》んで七転八倒し、怒って自分の体に咬み付いたまま死ぬ事あり、また火を以て蠍《かつ》を取り囲むにその毒尾の尖《さき》を曲げて脊を衝いて死する事もあるが、これらは狂人が自身を咬むと等しく、決して企ててする自殺でなくまた毒分が自身を害するでもないから、ただ自殺と見えるばかりだ。朝鮮にある沖縄人から前日報ぜられたは、以前ハブ蛇多き山を焼くとかように自身を咬んだまま死んだハブばかり間《まま》見当った由。仏が寺門屋下に鴿《はと》蛇猪を画いて貪《どん》瞋《しん》痴《ち》を表せよと教え(『根本説一切有部毘奈耶』三四)、その他蛇を瞋恚《しんい》の標識とせる事多きは、右の擬自殺の体を見たるがその主なる一因だろう、古インド人も蛇自殺する事ありと信じたと見える。たとえば『弥沙塞五分律《みしゃそくごぶんりつ》』に舎利弗《しゃりほつ》風病に罹《かか》り呵梨勒果《かりこくか》一を牀脚辺に著《つ》けたまま忘れ置いて出た。瞿伽離《くがり》見付けて諸比丘に向い、世尊|毎《いつ》も舎利弗は欲少なく足るを知ると讃むるが我らの手に入らぬこの珍物を蓄うるは世尊の言と違うと言った。舎利弗聞いてその果《み》を棄てた。諸比丘それは大徳病気の療治に蓄えたのだから棄つるなかれと言うと、舎利弗われこの少しの物を持ったばかりに梵行人をして我を怪しましめたは遺憾なり、捨てた物は復《ふたた》び取れぬと答えた。仏|言《のたま》わく、舎利弗は一度思い立ったら五分でも後へ退《ひ》かぬ気質だ。過去世にもまたその通りだった。過去世一黒蛇あり、一犢子を螫《さ》した後穴に退いた。呪師羊の角もて呪したがなかなか出で来ぬから、更に犢子の前に火を燃して呪するとその火蜂と化《な》って蛇穴に入った黒蛇蜂に螫され痛みに堪えず、穴を出でしを羊角で抄《すく》うて呪師の前に置いた。呪師蛇に向い、汝かの犢を舐《ねぶ》って毒を取り去るか、それがいやならこの火に投身せよと言うと蛇答えて、彼この毒を吐いた上は還《また》これを収めず、たとい死ぬともこの意《こころ》を翻さぬと言いおわって毒を収めず自ら火に投じて死んだが舎利弗に転生《うまれかわ》った。死苦に臨むもなお一旦吐いた毒を収《とりい》れず、いわんや今更に棄つるところの薬を収めんやと。『十誦律毘尼序《じゅうじゅりつびにじょ》』にこの譚の異伝あり。大要を挙げんに、舎婆提《しゃばてい》の一居士諸僧を請《しょう》ぜしに舎利弗上座たり。仏の法として比丘の食後今日は飲食美味に飽満たりや否やと問う定めだったので、僧ども帰りて後仏が一子|羅喉羅《らごら》その時|沙弥《しゃみ》(小僧)たりしにかく問うに得た者は足り得ざる者は不足だったと答えた。仔細を尋ぬるに上座中座の諸僧は美食に飽きたが、下座と沙弥とは古飯と胡麻滓《ごまかす》を菜に合せて煮た麁食《そしょく》のみくれたので痩《や》せ弱ったという。仏舎利弗は怪《け》しからぬ不浄食をしたというを聞きて、舎利弗食べた物を吐き出し、一生馳走に招かれず布施を受けずと決心し常に乞食した。諸居士|何卒《なにとぞ》舎利弗が馳走を受けくれるよう仏から勧めて欲しいと言うと、仏|言《のたま》わく舎利弗の性もし受くれば必ず受けもし棄つれば必ず棄つ、過去世もまたしかりとて毒蛇だった時火で自殺した一件を説き種々の因縁を以て舎利弗を呵《しか》り、以後馳走に招かれたら上座の僧まず食いに掛からず、一同へあまねく行き届いたか見届けた後食うべしと定めたそうじゃ。而《しか》して件《くだん》の毒蛇を呪する法を舎伽羅呪《しゃがらじゅ》だと書き居る。そんなもの今もあるにや、一九一四年ボンベイ版エントホヴェンの『グジャラット民俗記《フォークロール・ノーツ》』一四二頁に或る術士は符※[#「竹かんむり/(金+碌のつくり)」、第3水準1−89−79]《ふろく》を以て人咬みし蛇を招致し、命じて創口《きずぐち》から毒を吸い出さしめて癒す。蛇咬を療ずる呪を心得た術士は蛇と同色の物を食わず産蓐《さんじょく》と経行中の女人に触れると呪が利かなくなる。しかる時は身を浄《きよ》め洗浴し、乳香の烟を吸いつつ呪を誦《ず》して呪の力を復すと見ゆ。
蛇と方術
インドは毒蛇繁盛の国だけに、その呪法が極めて多い。『弥沙塞五分律』に、一比丘浴室の火を燃さんとて薪を破る時、木の孔より蛇出で、脚を螫《さ》して比丘を殺した。仏|言《のたま》わくかの比丘八種の蛇名を知らず、慈心もて蛇に向わず、また呪を説かずして蛇に殺されたとて、八種の蛇名を挙げたるを見るに、竜王の名多し。仏経の竜は某々の蛇にほかならぬからだ。その呪言は、〈我諸竜王を慈《いつく》しむ、天上および世間、わが慈心を以て、諸|恚毒《いどく》を滅し得、我|智慧《ちえ》を以て取り、これを用いこの毒を殺す、味毒無味毒、滅され地に入りて去る〉、仏曰く、この呪もて自ら護る者は、毒蛇に傷殺されずと。味毒無味毒とは、蛇の牙から出る毒液に、味あると味なきとあるを、古くインド人が試み知ったと見ゆ。
一九〇六年版、ドラコット女史の『シムラ村話《ヴィレージ・テールス》』二一八頁にいわく、インドの小邦ラゴグールの王は、帽蛇《コブラ》を始め諸蛇の咬んだのを治す力を代々受け伝う。毒蛇に咬まれた人、糸一条を七所結び頸に掛け、ジェット・シン、ジェット・シンと唱え続けながら、王宮に趨《おもむ》く途
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