それは海鰻《はも》に吃い去らるるのだと駁撃した。しかし宗祇『諸国物語』に、ある人いわく、市店に売る蛸、百が中に二つ三つ足七つあるものあり、これすなわち蛇の化するものなり。これを食う時は大いに人を損ずと、怖るべしと見え、『中陵漫録』に、若狭《わかさ》小浜の蛇、梅雨時|章魚《たこ》に化す。常のものと少し異なる処あるを人見分けて食わずといえる。『本草啓蒙』に、一種足長蛸形|章魚《たこ》に同じくして足|最《いと》長し、食えば必ず酔いまた斑《はん》を発す。雲州でクチナワダコといい、雲州と讃州でこれは蛇の化けるところという。蛇化の事若州に多し。筑前では飯蛸《いいだこ》の九足あるは蛇化という。八足の正中に一足あるをいうと記せるごとき、どうもわが邦にも交合に先だって一足が特に長くなり体を離れてなお蠕動《ぜんどう》する、いわゆる交接用の足(トクユチルス(第五図[#図省略]))が大いに発達活動して蛇に肖《に》た蛸あり。それを見謬って蛇が蛸に化《な》るといったらしい。キュヴィエーいわく、欧州東南の海に蛸類多き故に、古ギリシア人蛸を観察せる事すこぶる詳《つまび》らかで、今日といえども西欧学者の知らぬ事ども多しと。わが邦またこの類多く、これを捕るを業とする人多ければ、この蛇が蛸に化る話なども例の一笑に附せず静かに討究されたい事じゃ。それから蛸と同類で、現世界には化石となってのみ蹟《あと》を留むるアンモナイツは、漢名石蛇というほど蟠《ま》いた蛇に酷《よく》似いる。したがってアイルランド人はその国にこの化石出るを、パトリク尊者が国中の蛇をことごとく呪して石となし、永くこれを除き去った明証と誇る由(タイラー『原始人文篇《プリミチヴ・カルチュール》』一巻十章)、一昨年三月号一六三頁にその図あり。
『続歌林良材集』に、菖蒲が蛇になる話あり。『方輿勝覧《ほうよしょうらん》』に、湖北岳州府の池に棲んだ大蛇を呂巌《りょがん》が招くと出て剣に化けたといい、美女の髪が蛇になった話は、藤沢氏の『伝説』信濃巻に出で、オヴィジウスの『|変化の賦《メタモルフォーセース》』には、人の脊髄が蛇となると述べた。ルーマニアの伝説に拠ると、人の血を吸う蚤《のみ》は蛇から出たのだ。いわく、太古ノア巨船《アルク》に乗って洪水を免るるを、何がな災を好む天魔、錐《きり》を創製して船側を穿ち水浸りとなる、船中の輩急いで汲み出せども及ばず、上帝これを救わんとて、蛇に黠智《かっち》を授けたから、『聖書』に蛇のごとく慧《さと》しといったのじゃ。ここにおいて蛇来ってノアに、われ穴を塞いで水を止めたら何をくれるかと問うた。さいう爾《なんじ》は何を欲するかと問い返すと、蛇洪水|息《や》んで後、われと子孫の餌として毎日一人ずつくれと答う。途轍《とてつ》もない事と思うても背に替えられぬ腹を据えて、いかにも日に一人ずつ遣ろうと誓うたので、蛇尾の尖《さき》を以て穴を塞ぎ水を止め天魔敗走した。洪水息んでノア牲《いけにえ》を献《たてまつ》って上帝に謝恩し、一同大いに悦ぶ最中に蛇来って約束通り人を求めて食わんという。ノアこの人少なに毎日一人ずつ取られては、たちまち人種が尽きると怒って、蛇を火に投じ悪臭大いに起ちて上帝を不快ならしめた。由って上帝風を起し蛇の尸灰を世界中へ吹き散らし、蚤その灰より生じて世界中の人の血を吸う。その分量を合計すればあたかも毎日一人ずつ食うに等しいから、ノアの契約は永く今までも履行され居る訳になると。
 それから三河で伝うるは、蝮《まむし》は魔虫で、柳かウツギの木で打ち殺すと立ちどころに何千匹となく現われ来ると(早川孝太郎氏説)。盛夏深山の渓水に、よく蝮が来て居る。それを打ち殺して、暫くして往き見ると、多分他の蝮が来て居るは予しばしば見た。紀州安堵峯辺でいう、栗鼠《りす》は獣中の山伏で魔法を知ると、これややもすれば樹枝に坐して手を拱《きょう》し礼拝の態を為《な》すに基づく。さて杣人《そまびと》一日山に入りて儲けなく、ちょっと入りて大儲けする事もあればこれも魔物なり。杣人山中で栗鼠に会うに、杣木片《そまこっぱ》すなわち斧で木を伐った切屑また松毬《まつかさ》を投げ付けると、魔物同士の衝突だからサア事だ、その辺一面栗鼠だらけになると。また日高郡丹生川大字大谷に、蚯蚓《みみず》小屋ちゅうは昔ここの杣小屋へ大蚯蚓一疋現われしを火に投ずると、暫くの間に満室蚯蚓で満たされその建物倒れそう故逃げ帰った、その小屋|址《あと》という。随分|信《うけ》られぬ話のようだが何か基づく所があるらしい。
 明治十八年、予神田錦町で鈴木万次郎氏の舅《しゅうと》の家に下宿し、ややもすれば学校へ行かずに酒を飲み為す事なき余り、庭上に多き癩蝦蟆《いぼがえる》に礫《こいし》を飛ばして打ち殺すごとに、他の癩蝦蟆肩を聳《そび》やかし、憤然今死んだ奴の方へ躍り来た勇気のほど感じ入ったが、それをもまた打ち殺し、次に来るをも打ち殺し、かくて四、五疋殺したので蛙も続かず、こっちも飽きが出て何しに躍り来たか見定めなんだが、上述の蝮を殺した実験もあり、また昔無人島などで鳥獣を殺すとその侶《とも》の鳥獣が怕《おそ》れ竄《かく》れず、ただ怪しんで跡より跡より出で来て殺された例も多く読んだから攷《かんが》うると、いかなる心理作用よりかは知らぬが、同類殺さるを知りながら、その死処に近づく性《たち》の動物が少なからぬようで、蚯蚓などの下等なものは姑《しばら》く措《お》き、蝮、栗鼠ごときやや優等のもの多かった山中には、一疋殺せば数十も集まり来る事ありしを右のごとく大層に言い伝えたのかと想う。
 ただしかかる現象を実地について研究するに、細心の上に細心なる用意を要するは言うまでもないが、人の心を以て畜生の心を測るの易《やす》からぬは、荘子と恵子が馬を観《み》ての問答にもいえる通りで、正しく判断し中《あ》てるはすこぶる難い。たとえば一九〇二年に出たクロポートキン公の『互助論《ミューチュアル・エード》』に、脚を失いて行き能わぬ蟹を他の蟹が扶《たす》け伴れ去ったとあるを、那智山中読んで一月|経《へ》ぬ内に、自室の前の小流が春雨で水増し矢のごとく走る。流れのこっちの縁に生えた山葵《わさび》の芽を一疋の姫蟹が摘み持ち、注意して流れの底を渡りあっちの岸へ上り終えたところを、例の礫を飛ばして強く中てたので半死となり遁《のが》れ得ず、爾時《そのとき》岩間より他の姫蟹一疋出で来り、件《くだん》の負傷蟹を両手で挟《はさ》み運び行く。この蟹走らず歩行遅緩なれば、予ク公の言の虚実を試《ため》すはこれに限ると思い、抜き足で近より見れば、負傷蟹と腹を対《むか》え近づけ両手でその左右の脇を抱き、親切らしく擁《かか》え上げて、徐《そぞ》ろ歩む友愛の様子にアッと感じ入り、人を以て蟹に及《し》かざるべけんやと、独り合点これを久しゅうせし内、かの親切な蟹の歩み余りに遅く、時々立ち留まりもするを訝《いぶか》り熟視すると何の事だ、半死の蟹の傷口に自分の口を接《あ》て、啖《く》いながら巣へ運ぶのであった。これを見て予は書物はむやみに信ぜられぬもの、活動の観察はむつかしい事と了《さと》った次第である。
 蛇が他の物に化け、他の物が蛇になる話はかくのごとく数え切れぬほど多い。また蛇が自分化けるでなく、人を化けしむる力ありてふ迷信もある。ボルネオの海《シイ》ダヤク人はタウ・テパン(飛頭蛮《ろくろくび》)を怖るる事甚だし、これはその頭が毎夜体を離れ抜け出でて、夜すがらありたけの悪事を行い、旦《あした》近く体へ復《かえ》るので里閭《りりょ》これと交際を絶ち、諸《もろもろ》の厭勝《まじない》を行いその侵入を禦《ふせ》ぎ、田畠には彼が作物を損じに来る時、その眼と面を傷つくるよう竹槍を密《ひそ》かに植うる。あるいはいう、昔その地を荒らした大蛇の霊がわが舌を取って食い得たら、頭だけ飛行自在にしてやると教えたに始まると(六年前四月二十日の『ネーチュール』)。
 蛇が人に化けた例は諸国甚だ多く、何のために化けたかと問うと、多くは『平家物語』の緒方家の由緒通り、人と情交を結ばんとしてである。また人が蛇に化けて所願を遂げた例もありて、トランスカウカシアの昔話に、アレキサンダー大王はその実偉い術士の子だった。この術士常にマケドニア王フィリポスの后オリムピアスを覬覦《きゆ》したがその間《ひま》を得ず、しかるに王軍行して、后哀しみ懐《おも》う事切なるに乗じ、御望みなら王が一夜還るよう修法《しゅほう》してあげるが、蛇の形で還っても構わぬか、人の形ではとてもならぬ事と啓《もう》すと、ただ一度逢わば満足で、蛇はおろかわが夫が真実還ってくれるなら、糞蛆《せっちむし》の形でもこちゃ厭《いと》やせぬと来た。得たり賢し善は急げと、術士得意の左道を以て自ら蛇に化けて一夜を后と偕《とも》に過ごし、同時に陣中にある王に蛇となって后に遇う夢を見せた。軍《いくさ》果て王いよいよ還ると后既に娠《はら》めり。王怪しんでこれを刑せんとす。后いわく、爾々《しかじか》の夜王は蛇となって妾と会えりと。聞いてびっくり苅萱道心《かるかやどうしん》なら、妻妾の髪が蛇となって闘うを見て発心したのだが、この王は自分が蛇となった前夜の夢を憶い出して奇遇に呆《あき》れ、后を宥《ゆる》してまた問わず。しかし爾後蛇を見るごと、身の毛|竪立《よだ》ちて怖れたそうだ。烏羽玉《うばたま》の夢ちゅう物は誠に跡方もない物の喩えに引かるるが、古歌にも「夢と知りせば寤《さめ》ざらましを」と詠んだ通り、夫婦情切にして感ずる場合はまた格別と見え、『唐代叢書』五冊に収めた『開元天宝遺事』に、〈楊国忠《ようこくちゅう》出でて江浙に使し、その妻思念至って深し、荏苒《じんぜん》疾くなり、たちまち昼夢国忠と○、因って孕むあり、後に男を生み朏《ひ》と名づく、国忠使帰るに至るにおよび、その妻|具《つぶさ》に夢中の事を述ぶ、国忠曰く、これけだし夫婦相念い情感の至る所、時人|譏誚《きしょう》せざるなきなり〉。国忠の言を案ずると、フィリポス王同然自分もちょうどその時異夢を見たのだろう。
 仏典に名高い賢相|大薬《マハウシャダ》の妻|毘舎※[#「にんべん+去」、第3水準1−14−15]《ヴィサクハ》女、美貌智慧|併《ならび》に無双たり。時に北方より五百商人その国へ馬売りに来り、都に名高き五百妓を招きスチャラカ騒ぎをやらかしけるに、商主一人少しも色に迷わず、夥中《かちゅう》最も第一の美妓しきりに誘えど、〈我邪念なし、往返徒労なり〉と嘯《うそぶ》いたとは、南方先生の前身でもあったものか、自宅によほどよいのがあったと見える。かの妓|躍気《やっき》で、君は今堅い事のみ言うが、おのれ鎔《と》かさずに置くべきか、していよいよ妾に堕された日は、何をくれるかと問うと、その場合には五馬を上げよう。もしまた当地滞留中いささかも行いを濫《みだ》さなんだら、和女《そなた》われに五百金銭を持って来なと賭《かけ》をした。それからちゅうものは前に倍して繁《しげ》く来り媚び諂《へつら》うに付けて、商主ますます心を守って傾く事なし。諸商人かの妓を気の毒がり、一日商主に城中第一の名代女の情に逆らうは不穏当と忠告すると、商主誠に思召《おぼしめし》ありがたきも昨夜夢に交通を遂げた。この上何ぞ親しく見《まみ》ゆるを要せんと語る。かの妓伝え聞いて、人足多く率い来て商主に対《むか》い、汝昨夜われとともに非行したから五馬を渡せと敦圉《いきま》き、商主は夢に見た事が汝に何の利害もあるものかと大悶着となって訴え出で、判官苦心すれど暮に至るも決せず、明日更に審査するとして大薬《マハウシャダ》その家に還ると、毘女何故|晩《おそ》かったかと問うと、委細を語り何とか決断のしようがないかと尋ねた。毘女|其式《それしき》の裁判は朝飯前の仕事と答えて夫に教え、大薬妻の教えのままに翌日商主の五馬を牽《ひ》き来て池辺の岩上に立たせ、水に映った五馬の影を将《ひき》去れ、〈もし影馬実に持つべき者なしと言わば、夢中行欲の事もまた同然なり〉、と言い渡したので、国王始め訴訟の当人まで嗟賞《さしょう
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