》やまなんだという。
 古ギリシアの名妓ラミアは、己の子ほど若い(デメトリオス)王を夢中にしたほど多智聡敏じゃった。その頃エジプトの一青年、美娼トニスを思い煩うたが、トが要する大金を払い得ず空しく悶《もだ》えいると、一霄《いっしょう》夢にその事を果して心静まる。ト聞いて、只《ただ》には置かず揚代《あげだい》請求の訴を法廷へ持ち出すと、ボッコリス王、ともかくもその男にトが欲するだけの金を鉢に数え入れ、トの眼前で振り廻さしめ、十分その金を見て娯《たの》しめよとトに命じた。ラミア評して、この裁判正しからず、子細は金見たばかりで女の望みは満足せねど、夢見たばかりで男の願いは叶《かの》うたでないかと言ったとは、この方が道理に合ったようであり、読者諸士滅多に夢の話しもなりませんぞ。このラミアの説のごとく、行欲の夢はその印相を留むるの深さ他の夢どもに異なり、時として実際その事ありしよう覚えるすら例多ければ、さてこそフィリポス王ごとき偉人もその后の言を疑わなんだのだ。後年アレキサンダー大王遠征の途次、アララット山に神智広大能く未来を言い中《あ》つる大仙ありと聞き、自ら訪れて「汝に希有《けう》の神智ありと聞くが、どんな死様《しにざま》で終るか話して見よ」と問うと、「われは汝に殺されるべし」と答えたので、しからばその通りと王鎗を以て彼を貫く、大仙ここにおいて、汝実にわが子だとて、昔蛇に化けて王の母を娠ませた子細を語って死んだそうじゃ。晋の郭景純が命、今日日中に尽くと、王敦《おうとん》に告げて殺されたと似た事だ。『日本紀』に、大物主神《おおものぬしのかみ》顔を隠して夜のみ倭迹々姫命《やまとととびめのみこと》に通い、命その本形を示せと請うと小蛇となり、姫驚き叫びしを不快で人形に復《かえ》り、愛想|竭《づ》かしを述べて御諸山《みもろやま》に登り去り、姫悔いて箸《はし》で陰《ほと》を撞《つ》いて薨《こう》じ、その墓を箸墓というと載す。
 未聞の代には鬼市《きし》として顔を隠し、また全く形を見せずに貿易する事多し(一九〇四年の『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』十輯一巻二〇六頁に出た拙文「鬼市について」)。これ主として外人を斎忌《タブー》したからで、それと等しく今日までも他部族の女に通うに、女のほかに知らさず。甚だしきは女にすら自分の何人たるを明かさぬ例がある。さて昔は日本にも族霊《トテム》盛んに行われ、一部族また一家族が蛇狼鹿、その他の諸物を各々その族の霊《トテム》としたらしいてふ拙見は、『東京人類学会雑誌』二七八号三一一頁に掲げ置いた。かくて稽《かんが》うると大国主神《おおくにぬしのかみ》は蛇を族霊《トテム》として、他部族の女に通いしが、蛇を族霊とする部族の男と明かすを聞いて女驚くを見、慙《は》じて絶ち去ったと見える。由って女も慙じて自ら陰を撞いて薨ずとあるを、何かの譬喩のように解かんとする人もあるようだが、他部族の男の種を宿さぬよう麁末《そまつ》な手術を仕損じてか、とにかくその頃の婦女にはかようの死様《しにざま》が実際あったので、現今見るべからざる奇事だから昔の記載は虚構だと断ずるの非なるは先に論じた。
 また西アフリカのホイダー市には、近世まで大蛇を祀《まつ》り年々|棍《クラブ》を持てる女巫《みこ》隊出て美女を捕え神に妻《めあ》わす。当夜一度に二、三人ずつ女を窖《あな》の中《うち》に下すと、蛇神の名代たる二、三蛇|俟《ま》ちおり、女巫《みこ》が廟の周《ぐる》りを歌い踊り廻る間にこれと婚す。さて家に帰って蛇児を産まず人児を産んだから、人が蛇神の名代を務めたのだ(一八七一年版シュルツェの『デル・フェチシスムス』五章)。『十誦律』に、優波離《うばり》が仏に詣り、〈比丘の呪術をもって、自ら畜生形と作《な》り、行婬す〉、また〈三比丘の呪術をもって、倶に畜生形と作って行婬〉する罪名を問う事あり。ローマの諸帝中、獣形を成して犯姦せし者数あり。宋以来支那に跋扈《ばっこ》する五通神は、馬豚等の畜生が男に化けて降り来り、放《ほしいま》まに飲食を貪《むさぼ》り妻女を辱しむる由(『聊斎志異』四)、これは濫行の悪漢秘密講を結び、巧みに畜《けもの》の状をして人を脅かし非を遂げたのであろう。
 人が蛇になった話は蛇のある地には必ず多少あって、その変化の理由も様々に説き居る。貪慾な者蛇となって財を守るとは、インド東欧西亜諸方に盛んな説で悪人生きながら蛇になる話はアフリカ未開人間にも行わる(一九〇三年版マーチン女史の『バストランド』十五章)。ただし貪欲でも悪人でもなくて蛇になった話もあって、甲賀三郎は、高懸山の鬼王とか、蛇に化けた山神を殺したとか(『若狭郡県志』二、『郷』三の十に引かれた『諸国旅雀』一)、その報いとしてか悪人の兄どもに突き落された穴中で、三十三年間大蛇となりいたが、妻子が念じて観音の助けで人間になり戻り二兄を滅ぼし繁盛した。羽州の八郎潟の由来書に、八郎という樵夫《きこり》、異魚を食い大蛇となったという(『奥羽永慶軍記』五)。しかし『根本説一切有部毘奈耶《こんぽんせついっさいうぶびなや》雑事』に、女も蛇も多瞋多恨、作悪無恩利毒の五過ありと説けるごとく、何といっても女は蛇に化けるに誂《あつら》え向きで、その例|迥《はる》かに男より多くその話もまたすこぶる多趣だ。
 慙《は》じて蛇になった例は、陸前佐沼の城主平直信の妻、佐沼御前|館《やかた》で働く大工の美男を見初《みそ》め、夜分|閨《ねや》を出てその小舎を尋ねしも見当らず、内へ帰れば戸が鎖されいた。心深く愧《は》じ身を佐治川に投げて、その主の蛇神となり、今に祭の前後必ず人を溺《おぼ》らすそうだ(『郷』四巻四号)。愛執に依って蛇となったは、『沙石集』七に、ある人の娘鎌倉若宮僧坊の児《ちご》を恋い、死んで児を悩死せしめ、蛇となって児の尸《しかばね》を纏《まと》うた譚あり。妬みの故に蛇となったは、梁の※[#「希+おおざと」、第3水準1−92−69]《ち》氏(『五雑俎』八に見ゆれど予その出処も子細も詳らかにせぬから、知った方は葉書で教えられたい)や、『発心集《ほっしんしゅう》』に見えたわが夫を娘に譲って、その睦《むつ》まじきを羨むにつけ、指ことごとく蛇に化《な》りたる尼公《あまぎみ》等あり。
 もしそれ失恋の極蛇になったもっとも顕著なは、紀伊の清姫《きよひめ》の話に留まる。事跡は屋代弘賢《やしろひろかた》の『道成寺考』等にほとんど集め尽くしたから今また贅《ぜい》せず、ただ二つ三つ先輩のまだ気付かぬ事を述べんに、清姫という名余り古くもなき戯曲や道成寺の略物語等に、真砂庄司の女《むすめ》というも謡曲に始めて見え、古くは寡婦また若寡婦と記した。さて谷本博士は、『古事記』に、品地別命《ほむじわけみこと》肥長比売《ひながひめ》と婚し、窃《ひそ》かに伺えば、その美人《おとめご》は蛇《おろち》なり、すなわち見《み》畏《かしこ》みて遁《に》げたもう。その肥長比売|患《うれ》えて海原を光《てら》して、船より追い来れば、ますます見畏みて、山の陰《たわ》より御船を引き越して逃げ上り行《いでま》しつとあるを、この語の遠祖と言われたが、これただ蛇が女に化けおりしを見顕わし、恐れ逃げた一点ばかりの類話で、正しくその全話の根本じゃない。『記』に由って考うるに、この肥長比売は大物主神の子か孫で、この一件すなわち品地別命がかの神の告《つげ》により、出雲にかの神を斎《いつ》いだ宮へ詣でた時の事たり。上にも言った通り、この神の一族は蛇を族霊《トテム》としたから、この時も品地別命が肥長比売の膚に雕《え》り付けた蛇の族霊の標《しるし》か何かを見て、その部族を忌み逃げ出した事と思う。大物主神は素戔嗚尊《すさのおのみこと》が脚摩乳《あしなつち》手摩乳《てなつち》夫妻の女を娶《めと》って生んだ子とも裔《すえ》ともいう(『日本紀』一)。この夫妻の名をかく書いたは宛字《あてじ》で、『古事記』には足名椎手名椎に作る。既《はや》く論じた通り、上古の野椎ミツチなど、蛇の尊称らしきより推せば、足名椎手名椎は蛇の手足なきを号《な》としたので、この蛇神夫妻の女を悪蛇が奪いに来た。ところを尊が救うて妻とした「その跡で稲田|大蛇《おろち》を丸で呑み」さて産み出した子孫だから世々蛇を族霊としたはずである。
 予は清姫の話は何か拠るべき事実があったので、他の話に拠って建立された丸切《まるきり》の作り物と思わぬが、もし仏徒が基づく所あって多少附会した所もあろうといえば、その基づく所は釈尊の従弟で、天眼第一たりし阿那律《あなりつ》尊者の伝だろう。この尊者については、近出の『仏教大辞彙』などに見える珍譚|甚《いと》多い。例せば阿那律すでに阿羅漢となって、顔容美しきを見て女と思い、犯さんとしてその男たるを知り、自らその身を見れば女となりおり、愧じて深山に隠れ数年帰らず。阿那律その妻子の歎くを憐《あわれ》み、その者を尋ねて悔過せしめ、男子となり復《もど》って家内に遇わしめた(『経律異相』十三)。『四分律』十三に、毘舎離の女他国へ嫁して姑と諍《いさか》い本国へ還るに、阿那律と同行せしを、夫追い及んで詰《なじ》ると、〈婦いわく我この尊者とともに行く、兄弟相逐うごとし他の過悪なし〉と、夫怒りて阿を打ってほとんど死せしめたと出るが、阿は高の知れた人間の女に、心を動かすような弱い聖《ひじり》でなく、かつて林下に住みし時、前生に天にあって妻とした天女降って、天上の楽を説くに対し、〈諸《もろもろ》の天に生まれ楽しむ者、一切苦しまざるなし、天女汝まさに知るべし、我生死を尽くすを〉と喝破《かっぱ》したは、南方先生若い盛りに黒奴《くろんぼ》女の夜這《よば》いを叱《しか》り卻《かえ》したに次いで豪い(『別訳雑阿含経』巻二十、南方先生|已下《いか》は拙《やつがれ》の手製)。『弥沙塞五分律《みしゃそくごぶんりつ》』八に、〈仏、舎衛城に在り、云々。時に一の年少の婦人の夫を喪う有りて、これなる念《おも》いを作《な》す。我今まさに何許《いず》くかに更に良き対を求めるべし、云々。まさに一の客舎を作り、在家出家の人を意に任せて宿止せしめ、中において択び取らんと。すなわち便《ただ》ちにこれを作り、道路に宣令して、宿るを須《ま》つ。時に阿那律、暮にかの村に至り、宿所を借問す。人有りて語りて言う、某甲の家に有りと。すなわち往きて宿を求む。阿那律、先に容貌|好《よ》きも、既に得道の後は顔色常に倍せり。寡婦、これを見て、これなる念いを作《な》す。我今すなわち已《すで》に好き胥《むこ》を得たりと。すなわち、指語すらく中に宿るべしと。阿那律すなわち前《すす》みて室に入り結跏趺坐《けっかふざ》す。坐して未だ久しからずしてまた賈客あり、来たりて宿を求む。寡婦答えて言う、我常に客を宿すといえども、今已に比丘に与え、また我に由らずと。賈客すなわち主人の語を以て、阿那律に従きて宿を求む。阿那律寡婦に語りて言う、もし我に由らば、ことごとく宿を聴《ゆる》すべしと。賈客すなわち前に進《い》る。寡婦またこれなる念いを作す。まさに更に比丘を迎えて内に入らしむべし、もし爾《しか》せざれば、後來期なからんと。すなわち内に更に好き牀を敷き燈を燃し、阿那律に語りて言う、進みて内に入るべしと。阿那律すなわち入りて結跏趺坐し、繋念して前に在り。寡婦衆人の眠れる後に語りて言う、大徳我の相|邀《むか》える所以の意を知れるや不《いな》やと。答えて言う、姉妹よ汝が意は正に福徳に在るべしと。寡婦言う、本《も》とこれを以てにあらずと、すなわち具《つぶ》さに情を以て告ぐ。阿那律言う、姉妹よ我等はまさにこの悪業を作《な》すべからず、世尊の制法もまた聴《ゆる》さざる所なりと。寡婦言う、我はこれ族姓にして年は盛りの時に在り、礼儀|備《つぶ》さに挙がりて財宝多饒なり。大徳の為に給事せんと欲す。まさに願うべき所、垂《なに》とぞして納められよと。阿那律これに答えること初めの如し。寡婦またこれなる念いを作す。男子の惑う所は惟《た》だ色に在り。我まさに形を露《あらわ》にしてその前に立つべしと。
前へ 次へ
全14ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング