すなわち便《ただ》ちに衣を脱して前に立ちて笑う。阿那律すなわち閉目正坐し、赤骨観を作す。寡婦またこれなる念いをなす。我かくの如しといえども、彼猶お未だ降らずと。すなわち牀に上りこれと与《とも》に共に坐さんと欲す。是において阿那律踊りて虚空に昇る。寡婦すなわち大いに羞恥し、慚愧の心を生じ疾く還りて衣を著し、合掌して過ちを悔い、云々。阿那律妙法を説き、寡婦聞き已《おわ》りて塵を遠ざけ垢を離れて、法眼の浄なるを得たり〉。これが少なくとも、熊野の宿主寡婦が安珍に迫った話にもっともよく似居る。
『油粕《あぶらかす》』に「堂の坊主の恋をする頃、みめのよき後家や旦那に出来ぬらん」とあるごとく、双方とも願ったり叶《かな》ったり。明き者同士なれば、当時の事体、安珍の対手《あいて》を清姫てふ室女とするよりは、宿主の寡婦とせる方恰好に見える。外国でも色好む寡婦、しばしば旅宿を営んだ(ジュフールの『売靨史』や、マーレの『北土考古篇《ノーザーン・アンチクイチース》』ボーン文庫本三一九頁等)。一九〇七年版カウエルおよびラウス訳『仏本生譚《ジャータカ》』五四三に、梵授王の太子、父に逐われ隠遁《いんとん》せしが、世を思い切らず竜界の一竜女、新たに寡なるが他の諸竜女その夫の好愛するを見、ついに太子を説いて偕《とも》に棲むところあるなど、竜も人間も閨情に二つなきを見るに足る。この辺で俗伝に安珍清姫宅に宿り、飯を食えば絶《はなは》だ美《うま》し。窃《ひそ》かに覗《のぞ》くと清姫飯を盛る前必ず椀《わん》を舐《な》むる、その影|行燈《あんどん》に映るが蛇の相なり。怪しみ惧《おそ》れて逃げ出したと。
蛇の効用
この辺でまた伝えしは、前掲トチワの国では蛇を常食としダシを作ると。されば現時持て囃《はや》さるる「味の素」は蛇を煮出して作るというも嘘でないらしいと言う人あり。琉球で海蛇を食うなどを訛伝《かでん》したものか。効用といえば未開半開の世には蛇が裁判役を勤めた。昔琉球で盗人を検出するに、巫女蛇を連れ来り、衆人を集め示せば、盗人に食い付きていささかも違《たが》わず、故に盗賊なかりしと(『定西法師伝』)。熊楠案ずるに『隋書』に日本人の獄訟《うったえ》を、〈あるいは小石を沸湯中に置き、競うところの者にこれを探らしむ、いわく理曲なればすなわち手|爛《ただ》る、あるいは蛇を甕中に置きこれを取らしむ、いわく曲なればすなわち手を螫《さ》す〉。前者は武内宿禰《たけのうちのすくね》などが行った湯起請《ゆぎしょう》で国史にも見える。それと記し駢《なら》べたるを見ると古く蛇起請も行われたるを、例の通り邦人は常事として特に書き留めなんだが、支那人は奇として記録したのだ。礼失して野に求むてふ本文のごとく、かかる古俗が日本に亡びて、琉球に遺存したのだ。それよりも珍事は十字軍の時、回将サラジンが大蛇を戦争に使わんとしたので五月号に出し置いた。西洋で鰻を食うに、骨切りなどの法なく、ブツブツと胴切りにして羹《しる》に煮るを何やら分らずに吃《く》う。ウィリヤム・ホーンの書を見ると、下等な店では蛇を代用するもあるらしい。由って在英中得も知れぬ穢《きたな》い店どもへ多く入りて鰻汁を命じ、注意して視《み》たが最早そんな事はせぬらしかった。『今昔物語』など読むと、本邦でも低価な魚として蛇を食わせ、知らぬが仏の顧客を欺く事も稀にあったらしいが、永良部鰻《えらぶうなぎ》てふ海蛇のほかに満足に食用すべきものなきがごとし。昔支那から伝えた還城楽《げんじょうらく》は本名|見蛇楽《けんじゃらく》で、好んで蛇を食う西国人が蛇を得て悦ぶ姿を摸したという。古今風俗の違いもあるべきが、支那より西に当って蛇を食う民を捜すと、『聖書』に爬虫類を啖う禁戒あれば、ユダヤ教やキリスト教の民でまずはない。しかるに回教を奉ずるアラビア人は、無毒の蛇を捕え頭を去り体を小片に切り串に貫き、火の上に旋《まわ》しながらレモンや塩や胡椒《こしょう》等を振り掛け食う。欧人これを試みた者いわく、腥《なまぐさ》くてならぬ故臭い消しに炙《あぶ》る前、その肉をやや久しく酢に漬け置くべし味は鰻に優るとも劣りはせんと(ピエロチの『パレスチン風俗口碑記』四六頁)。
支那や後インドで※[#「虫+冉」、305−15]蛇肉《ぜんじゃにく》を賞翫《しょうがん》し、その胆を薬用する事は本篇の初回に述べた。プリニウス言う、エチオピアの長生人《マクロビイ》アトス山の住民等蝮を常食とし、虱《しらみ》生ぜず四百歳の寿を保つと。一六八一年に成ったフライヤーの『|東印度および波斯新話《ア・ニュウ・アッカウント・オヴ・イースト・インジア・エンド・パーシア》』一二三頁に、蝮酒は肺癆《はいろう》を治し、娼妓の疲れ痩せたるを復すといい、サウシの『随得録《コンモンプレース・ブック》』四には、蝮酒は能《よ》く性欲を強くするとある。『本草綱目』に、醇《よき》酒《さけ》一斗に蝮一疋活きたまま入れて封じ、馬が溺《いばり》する処に埋め、一年経て開けば酒は一升ほどに減り、味なお存し蝮は消え失せいる。これを飲めば癩病を癒すとある。蝮は興奮の薬力ある物か。予が知る騎手など競馬に先だち、乾した蝮の粉を馬に餌《えば》うと、甚だ勇み出すといった。先日の新紙に近年蛇を薬用のため捕うる事大流行で、鯡《にしん》を焼けば蛇|聚《つど》い来るとあったが虚実を知らぬ。
一六六五年再版ド・ロシュフォーの『西印度諸島博物世態誌《イストア・ナチュラル・エ・モラル・デ・イール・アンチュ》』一四二頁に、土人の家に蛇多く棲むも鼠を除くの効著しき故殺さずと見え、『大英百科全書』四に両半球に多種あるボア族の大蛇いずれも温良《おとなし》く、有名なボア・コンストリクトルなど、人と同棲して鼠害を除くとある。その鼠害というはなかなか日本のような事でなく、予かつて虫類を多く集め来り、針もて展翅板《てんしばん》へ留め居る眼前へ鼠群襲い来り、予が一疋の蝶に針さす間に先様から鼠に粉※[#「くさかんむり/韲」、第4水準2−87−23]《ふんさい》され、一方へ追い廻る間に他方より侵来して何ともなる事でなかった。かかるところにあっては蛇の姿を嫌がるどころにあらず、諸邦でこれを家の祖霊、耕地の護神とせるは尤《もっとも》千万《せんばん》と悟った。さる功績あらばこそ堅固なキリスト信教国の随一たるスウェーデンですら、十六世紀まで蛇を家の神と祀《まつ》った。「蛇の変化」の項で記したホイダーの蛇神大崇拝のごとき、この国に蛇ほど尊きものなきごとくしたは不思議に堪えぬ。しかるにその実状を視《み》た公平な論者は、古く既にこの神と冊《かしず》かるる蛇が毒蛇どもを殺し、田畑に害ある諸動物を除く偉功を認めかく敬わるるは当然だといった(アストレイ、三の三七頁)。わが国の農民が、蛇家に入るをミが入ると悦ぶも、もと蛇が大いに耕作を助けた時の遺風と知れる。
それから随分危険ながら蛇が著しく人を助くる今一件は、その毒を鏃《やじり》に塗りて蠢爾《しゅんじ》たる最も下劣な蛮人が、猛獣巨禽を射殺して活命する事だ。パッフ・アッダーはほとんどアフリカ全部に産し、長《たけ》四、五フィートに達する大毒至醜の蝮で、その成長した奴は世界でもっとも怖るべき物という。この蝮は平生頭のみ露わして体を沙中に埋め、その烈毒を憑《たの》んで猥《みだ》りに動ぜず。人畜近くに及び、わずかに首を擡《もた》ぐ。人はもとより馬もこれに咬まるれば数時の後|斃《たお》る。しかるにこの蛇煙草汁を忌む事抜群で、この物煙草汁に中《あた》って死するは、人がこの物の毒に中って死するより速やかだから、ホッテントット人これを見れば、煙草を噛んでその面に吹き掛け、あるいは杖の尖《さき》にその脂《やに》を塗りて、これに咬み付かしむればたちまち死す。ブシュメン人、この蛇の動作鈍きに乗じ、急にその頸を跣足《はだし》で蹈み圧《おさ》え、一打ちに首を切り、さて寛《ゆっく》りその牙の毒を取り、鏃に着くるに石蒜《ひがんばな》属のある草の粘汁を和す。ブシュメン用いるところの弓は至って粗末なるに反して、その矢は機巧を究め、蘆茎を※[#「竹かんむり/幹」、第3水準1−89−75]《やがら》とし、猟骨を鏃とし、その尖に件《くだん》の毒を傅《つ》けて※[#「竹かんむり/幹」、第3水準1−89−75]中に逆さまに挿し入れ蔵《おさ》め置き、用いるに臨み抜き出して尋常に※[#「竹かんむり/幹」、第3水準1−89−75]の前端に嵌《は》め着く。このブシュメン人は濠州土人|火地人《フェージャン》等と併《なら》びに最劣等民と蔑《べっ》せらるるに、かくのごとき優等の創製を出した上に、パッフ・アッダーを殺すごとその毒を嚥《の》まば、蛇毒ついにその身を害し能わざるべきを予想し、実行したるは愚者も千慮の二得というべし。
ウッドの『博物画譜』にいわく、パッフ・アッダーに咬まれたのに利く薬|聢《たし》かに知れず。南アフリカの土人は活きた鶏の胸を開いて心動いまだ止《や》まぬところを創《きず》に当てると。一七八二年版ソンネラの『東印度および支那紀行』にいわく、インドのカリカルで見た毒蛇咬の療法は妙だった。若い牝鶏の肛門を創に当て、その毒を吸い出さしむると少時して死す。他の牝鶏の尻を当てるとまた死す。かくて十三回まで取り替ゆると、十三度目の者死なずまた病まず。その人ここにおいて全快したと。多紀某の『広恵済急方』という医書に、雀の尻上を横|截《ぎ》りした図を出し、確か指を切って血止まらざるを止めんとならば、活きた雀を腰斬りしてその切り口へ傷処をさし込むべしとあったと記憶するが、これらいずれも応急手当として多少の奏効をしたらしい。
(付) 邪視について
一巻二号九二頁に石田君がセーリグマン氏の書いた物より引かれた一条を読んで、近時の南支那にも、昔の東晋時代と同じく邪視を悪眼と呼ぶ事を知り得た。過ぐる大正六年二月の『太陽』二三巻二号一五四―一五五頁に、予は左のごとく書き置いた。
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邪視英語でイヴル・アイ、伊語でマロキオ、梵語でクドルシュチス。明治四十二年五月の『東京人類学会雑誌』へ、予その事を長く書き邪視と訳した。その後一切経を調べると、『四分律蔵』に邪眼、『玉耶経』に邪盻《じゃけい》、『増一阿含』および『法華経』普門|品《ぼん》また『大宝積経』また『大乗宝要義論』に悪眼、『雑宝蔵経』と『僧護経』と『菩薩処胎経』に見毒、『蘇婆呼童子経』に眼毒とあるが、邪視という字も『普賢行願品《ふげんぎょうがんぼん》』二八に出でおり、また一番よいようでもあり、柳田氏その他も用いられおるから、手前味噌ながら邪視と定めおく。もっとも本統の邪視のほかに、インドでナザールというのがあって、悪念を以てせず、何の気もなく、もしくは賞讃して人や物を眺めても、眺められた者が害を受けるので、予これを視害と訳し置いたがこれは経文に拠って見毒と極《き》めるが良かろう。
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ここにいえる、邪視の字が出おる『普賢行願品』は、唐の徳宗の貞元中、醴泉寺《れいせんじ》の僧般若が訳し、悪眼の字が出おる『増一阿含』は、東晋時代に苻堅に礼接された曇摩難提が訳した。故に両《ふたつ》ながら昨今始まった語でなく、悪眼は今よりおよそ千五百四十年前、邪視は今よりおよそ千百三十年前既にあったと知らる(『高僧伝』巻一、『宋高僧伝』巻三)。而《しか》して石田君が『晋書』から引かれた衛※[#「王+介」、第3水準1−87−85]《えいかい》の死に様は、『南方随筆』に載せた裏辻公風と同じくいわゆる見毒(ナザール)に中《あた》ったらしい。小児を打ち続けて発病せしむると、撫《な》で過ぎて疳《かん》を起させると差《ちが》うほど邪視と差う。
また石田君はデンニス氏の書から、支那で妊婦やその夫は、胎児とともに四眼をもつ者として、邪視の能力者として、一般から嫌忌さるる由を引かれた。『琅邪代酔編』巻二に、後漢の時、季冬に臘《ろう》に先だつ一日大いに儺《おにやらい》す、これを逐疫という、云々、方相氏は黄金の四目あ
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