り、熊皮を蒙《かぶ》り、玄裳朱衣して戈《ほこ》を執り盾《たて》を揚ぐ、十二獣は毛角を衣《き》るあり、中黄門これを行う、冗縦僕財これを将《もち》いて以て悪鬼を禁中に逐う、云々。その時中黄門が、悪鬼輩速やかに逃げ去らずば、甲作より騰眼に至る十二神が食ってしまうぞと唱え、方相と十二獣との舞をなして、三度呼ばわり廻り、炬火《たいまつ》を持ちて疫を逐い端門より出す云々とある。『日本百科辞典』巻七、追儺《ついな》の条にも明示された通り、当夜方相は戈で盾をたたき隅々《すみずみ》より疫鬼を駈り出し、さて十二獣を従えて鬼輩を逐い出すのだ。一九〇二年頃の『ネーチュル』に、インドにある英人ジー・イー・ピール氏が寄書して、犬の両眼の上に黄赤い眼のような両点あるものは、眠っていても眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》り居るよう見えるから、野獣甚だこれを恐れて近附かぬと述べた。そんな事よりでもあろうか、パーシー人は、人死すれば右様の犬(本邦の俗四つの眼と呼ぶ)を延《ひ》いてその屍を視せ、もはや悪鬼が近付かずとて安心すという。米国で出たハムポルト文庫所収の何かの書に出あったが、今この宅にないから書名を挙げ得ぬ。しかしパーシー人からも親しく聴いた事だ。方相の四目もそんな理由で、いわば二つでさえ怖ろしい金の眼を二倍持つから、鬼が極めて方相におじるのだ。方相が十二神を従えて疫を逐う状は、『日本百科大辞典』の挿画で見るべし。しかるに後世方相の形が至ってにくさげなるより、方相を疫鬼と間違えたとみえ、安政またはその前に出た『三世相大雑書』などに、官人が弓矢もて方相を逐う体を図したのをしばしばみた。只今拙宅の長屋にすむ人もそんな本を一部もちおるが、題号|失《う》せたれば書名を知りがたい。惟《おも》うにデンニス氏が記せるところも、最初方相四眼もて悪鬼を睨みおどした事が、件《くだん》の『大雑書』の誤図と等しく、いつの間にか謬伝されて、方相四眼もて人に邪視を加うると信ぜられ、妊婦やその夫や胎児も、他の理由から人に忌まるるに乗じて、かようの夫婦や胎児までも四眼ありて、邪視を人に及ぼすと言わるるに及んだものか。[#地から2字上げ](昭和四年一〇月、『民俗学』一ノ四)

    (付) 邪視という語が早く用いられた一例

 余り寒いので何を志すとなく、明の陳仁錫の『潜確居類書』一〇七をそこここ見ておると、鶏廉狼貪、魚瞰鶏睨、魚不瞑、鶏邪視とある。この文句は何から採っただろうと、『淵鑑類函』四二五、鶏の条を探ると、〈王褒《おうほう》曰く、魚瞰鶏睨、李善|以為《おも》えらく魚目|瞑《つむ》らず、鶏好く邪視す〉とある。鶏はよく恐ろしい眼付きで睨むをいうので、この田辺辺で古く天狗が時に白鶏に化けるなどいい忌む人があったは、多少その邪視を怖れたからだろう。白いのに限らず鶏をすべて嫌うた村もあったときく。『拾遺記』一、※[#「禾+砥のつくり」、312−2]支の国より堯に献じた重明の鳥は、〈双睛目あり、状《かたち》鶏のごとし、能く猛獣虎狼を搏逐す、妖災群悪をして、害為す能わざらしむ、(中略)今人毎歳元日、あるいは木を刻み金を鋳す、あるいは図を画きて鶏|※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]上《ゆうじょう》に為す、これその遺像なり〉。その他支那で鶏を以て凶邪を避けた諸例は、載せて Willoughby−Mcade,‘Chinese Ghouls and Goblins’. 1928. pp. 155−157. に出《い》づ。またマレー群島中、アムボイナやマカッサーの人はその辺の海に千脚ある大怪物すみ、その一脚を懸けられてもたちまち船が覆《くつが》える、がこの怪物鶏を怖れるからとて、船には必ず鶏を乗せて出発するという(Stavorinus, “Account of Celebes, Amboyna, etc.”, in Pinkerton,‘Voyages and Travels’, vol. xi. p. 262, London, 1812)。これら種々理由あるべきも、その一つは鶏の邪視もて他の怪凶をば制したのであろう。王褒は有名な孝子かつ学者で、『晋書』八八にその伝あり。李善は唐の顕慶中、『文選』を註した(『四庫全書総目』一八六)。熊楠十歳の頃、『文選』を暗誦して神童と称せられたが、近頃年来多くの女の恨みで耄碌《もうろく》し、件《くだん》の魚瞰鶏睨てふ王褒の句が、『文選』のどの篇にあるかを臆《おも》い出し得ない。が何に致せ李善がこれに註して、魚瞰とは死んでも眼を閉じぬ事、鶏睨とはよく邪視する事を解いたのだ。前項に、邪視なる語は、唐の貞元中に訳された『普賢行願品』に出でおり、今(昭和四年)より千百三十年ほどの昔既に支那にあったと述べたれど、それよりも約百四十年ほど早く行われいたと、この李善の註が立証する。また魚瞰について想い出すは、予の幼時、飯のサイにまずい物を出さるると母を睨んだ。その都度母が言ったは、カレイが人間だった時、毎々《つねづね》不服で親を睨んだ、その罰で魚に転生して後《のち》までも、眼が面の一側にかたより居ると。さればカレイも邪視する魚と嫌うた物か[延享二年大阪竹本座初演、千柳《せんりゅう》、松洛《しょうらく》、小出雲《こいずも》合作『夏祭浪花鑑《なつまつりなにわかがみ》』義平治殺しの場に、三河屋義平治その婿団七九郎兵衛を罵《ののし》る詞《ことば》に、おのれは親を睨《ね》めおるか、親を睨むと平目になるぞよ、とある。ヒラメもカレイも眼が頭の一傍にかたよりおるは皆様御承知]。『後水尾院《ごみずのおいん》年中行事』上に、一参らざる物は王余魚、云々。またカレイ、目の一所によりて附し、その体異様なれば参らずなどいう女房などのあれども、それも各の姿なり、その類の中に類いず、こと様にあらばこそと見ゆ。(二月二十八日)
 追加 前項に、今より千二百七十年ほどの昔、唐の顕慶年間、李善が書いた『文選』の註に、鶏好邪視とあるを、邪視なる語のもっとも早くみえた一例として置いた。その後また捜索すると、それより少なくとも五百二十年古く、後漢の張平子の『西京賦』に、〈ここにおいて鳥獣、目を殫《つく》し覩窮《みきわ》む、遷延し邪視す、乎長揚の宮に集まる〉。注に『説文』曰く、〈睨は斜視なり、劉長曰く、邪睨邪視なり〉、同上、麗服|※[#「風にょう+昜」、第3水準1−94−7]菁《ようせい》、※[#「目+名」、313−14]藐流眄《べいびょうりゅうべん》、一顧|傾城《けいせい》とある*を、山岡明阿の『類聚名物考』一七六に引いて、邪視をナガシメと訓じあるを見あてた。この邪睨は邪視と同じくイヴル・アイを意味し、支那でイヴル・アイをいい表わした最も古い語例の一つだろう。ナガシメは紀州田辺近村の麦打ち唄に「色けないのに色目を使う」というイロメで、流眄によく合えど、邪睨邪視には合わない。また同項に引いたマレー群島で海中の怪物が鶏を怖るるてふ話に近きは、琉球にもあって、佐喜真《さきま》君の『南嶋説話』二九頁に出《い》づ。
[#地から2字上げ](昭和六年四月、『民俗学』三ノ四)
 * 註に※[#「目+名」、314−5]は眉睫《びしょう》の間、藐、好《よ》き視容なり。



底本:「十二支考(上)」岩波文庫、岩波書店
   1994(平成6)年1月17日第1刷発行
   1997(平成9)年10月6日第10刷発行
底本の親本:「南方熊楠全集 第一・二巻」乾元社
   1951(昭和26)年
入力:小林繁雄
校正:かとうかおり
2005年11月6日作成
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