介故、皆持って往こうと言うと、その間に竜輩凍死すべければ、以後汝を休ませ、吾輩毎日運ぶべしと言った。誠に厭《いや》なものを兄弟分にしたと迷惑の余り竜輩評議して、ラが睡るに乗じ斧で切り殺すに決した。ラこれを窃《ぬす》み聞き、その夜|木槐《きくれ》に自分の衣を著《き》せ臥内《ねや》に入れ、身を隠し居るとは知らぬ竜輩来て、木が屑になるまで※[#「石+欠」、第4水準2−82−33]《き》り砕いて去った。ラ還って木を捨てその跡へ臥す。鼾が高いので、竜輩怪しみ何事ぞと問うに、今夜痛く蚋《ぶと》に螫《さ》されたと対う。あんなに強《したた》か斧で※[#「石+欠」、第4水準2−82−33]ったのを蚋が螫したとは、到底手に竟《おえ》ぬ奴だ、何とかして立ち退《の》かそうと考え、翌旦《あくるあさ》ラに、汝も妻子をちと訪ねやるがよい、大金入りの袋一つ上げるからと言うと、汝らのうち一人その袋を担《かた》げて随《つ》いて来るなら往こうと言う。因って竜一人|従《とも》してラの宅に近づくと、暫く待っておれ、我は先入って子供が汝を食わぬよう縛り付けて来るとて宅に入り太縄で子供を括《くく》り、今竜が見え次第大声でその竜肉を啖《く》いたいと連呼《よびつづ》けよと耳語《ささや》いて出で、竜を呼び込むと右の通りで竜大いに周章《あわ》て、袋を落し逃れた。途上狐に会って子細を話すと、痴《たわ》けた事を言いなさんな、ラザルスごとき頓知奇《とんちき》の忰《せがれ》が何で怖かろう、われらなどはあの家に二羽ある鶏を、昨夜一羽平らげ、只今また一羽|頂戴《ちょうだい》に罷《まか》り出るところだ、嘘と想うなら随《つ》いて来なせえといって、竜を自分の尾に括り付けてラの宅に近づく、ラこれを見て狐に向い、われ汝に竜を残らず伴《つ》れて来いと言ったに、一つしか伴れて来ぬかと呼ばわる。竜さては狐と共謀して、吾輩《われら》を食うつもりと合点し、急ぎ奔《はし》ると、※[#「てへん+曳」、第4水準2−13−5]《ひ》きずられた狐は途上の石で微塵《みじん》に砕けた。ラは最早《もはや》竜来る患《うれい》なければ、安心してかの袋の中の金で巨屋を立て、余生を安楽に暮したそうだ。竜をかかる愚鈍なものとしたのは、主として上述の川に落ちて死ぬほど、身重く動作緩慢なりなどいう方面から起っただろう。
一二一一年頃ジャーヴェ筆『皇上消閑録《オチア・インペリアーナ》』を見ると、その頃既に仏国でも、竜は詰まらぬ河童様の怪魅と為《な》りおり、専ら水中に住み、人に化けて市へ出るが別に害をなさず、婦女童児水浴びるを覗い、金環金盃に化けて浮くを採りに懸るところを引き入れて自分の妻に侍せしむとあり。また男を取り殺した例も出でおる。わが国に古くミヅチなる水の怪《ばけもの》あり。『延喜式』下総《しもうさ》の相馬《そうま》郡に蛟※[#「虫+罔」、168−5]《みづち》神社、加賀に野蛟《のづち》神社二座あり。本居宣長はツチは尊称だと言ったは、水の主《ぬし》くらいに解いたのだろ、また柳田氏は槌《つち》を霊物とする俗ありとて、槌の意に取ったが、予は大蛇をオロチ、巨蟒をヤマカガチと読むなどを参考し、『和名抄』や『書紀』に、蛟《こう》や※[#「虫+礼のつくり」、第3水準1−91−50]《きゅう》いずれも竜蛇の属の名の字をミヅチと訓《よ》んだから、ミヅチは水蛇《みずへび》、野蛟《のづち》は野蛇《のへび》の霊異なるを崇《あが》めたものと思う。今も和泉、大和、熊野に野槌と呼ぶのは、尾なく太短い蛇だ(『東京人類学会雑誌』二九一号の拙文を見よ)。その蛟《みづち》が仏国の竜《ドラク》同様変遷したものか今日河童を加賀、能登でミヅチ、南部でメドチ、蝦夷《えぞ》でミンツチと呼ぶ由、また越後《えちご》で河童|瓢箪《ひょうたん》を忌むという(『山島民譚集』八二頁)。『書紀』十一に、武蔵人と吉備中国《きびのなかつくに》の人が、河伯《かわのかみ》また大※[#「虫+礼のつくり」、第3水準1−91−50]《みづち》に瓠《ひさご》を沈めよと註文せしに沈め得ず、由ってその偽神なるを知り、また斬り殺した二条の話あるを見ると、竜類は瓢を沈め能わぬ故、忌むとしたのだ。日本に限らぬと見えて、『西域記』にも凌山氷雪中の竜瓢を忌むとある。ビール言う、瓢に容れた水凍りて瓢を裂く音大なるを忌むのだとは迂遠に過ぎる。それらまさかこの禁忌の源《もと》であるまいが、一九〇六年版ワーナーの『英領中央亜非利加土人篇《ゼ・ネチブス・オブ・ブリチシュ・セントラル・アフリカ》』に、シレ河辺※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]害殊に多い処々で、婦女水を汲みに川に下りず、高岸上より長棒の端に付いた瓢箪で汲むから、その難に逢わぬとは、竜や※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]に取りて瓢は重々不倶戴天の仇と見える。
フィリップ氏また竜が守護神たり怖ろしい物たるより、古く武装に用いられた次第を序し、ホメロスの詩に見えたアガメムノンの盾に三頭《みつがしら》の竜を画き、ローマや英国で元帥旗に竜を用いたり、ノールス人が竜頭の船に乗った事などを述べ居るが、今長く抄するをやめ、一、二氏の言わぬところを補わんに、古エジプト人は、ウレウス蛇が有益なるを神とし、日神ラーはこの蛇二頭を、他の多くの神や諸王は一頭を前額《ひたい》に戴《いただ》くとした(バッジ『埃及諸神譜《ゼ・ゴッズ・オヴ・ゼ・エジプチアンス》』二、三七七頁)。仏教の弁財天や諸神王竜王が額や頭に竜蛇を戴く、わが邦の竜頭《たつがしら》の兜《かぶと》はこれらから出たものか。支那にも『類函』二二八に、竜を盾に画く、〈また桓元《かんげん》竜頭に角を置く、あるいは曰くこれ亢竜《こうりゅう》角というものなり〉。盾や喇叭《らっぱ》を竜頭で飾ったのだから、兜を同じく飾った事もあるべきだが、平日調べ置かなんだから、喇叭も吹き得ぬ、いわんや法螺《ほら》においてをやだ。
ただしエリスの『古英国稗史賦品彙《スペシメンス・オヴ・アーリー・イングリッシュ・メトリカル・ローマンセス》』二版一巻六二頁に、古ブリトン王アーサーの父アサー陣中で竜ごとき尾ある彗星を見、術士より自分が王たるべき瑞兆と聞き、二の金竜を造らせ、一をウィンチェスターの伽藍に納め、今一を毎《つね》に軍中に携えた。爾来竜頭アサーと呼ばれた。これ英国で竜を皇旗とする始まりで、先皇エドワード七世が竜を皇太子の徽章《しるし》と定めた。さてアサー、ロンドンに諸侯を会した宴席で、コーンウォール公ゴーロアの美妻イゲルナに忍ぶれど色に出にけりどころでなく、衆人の眼前で、しきりに艶辞を蒔《ま》いたを不快で、かの夫妻退いて各一城に籠《こも》り、王これを攻むれど落ちず。術士メルリン城よりもまず女を落すべく王に教え、王ゴーロアの偽装で入城してイゲルナを欺き会いて、その夜アーサー孕《はら》まる。次いでゴーロア戦死し、王ついにイゲルナを娶《めと》り、これもほどなく戦死、アーサー嗣《つ》ぎ立て武名を轟かせしが、父に倣《なろ》うてか毎《つね》に竜を雕《ほ》った金の兜を着けたとあれば、英国でも竜を兜に飾った例は、五、六世紀の頃既にあったのだ。
フィリップ氏またキリスト教法で竜を罪悪の標識、天魔の印相とする風今に変らざる由を述べていわく、中世|異端《ヘレシー》を竜に比し、シギスモンド帝はジョン・フッスの邪説敗れた祝いに、伏竜てふ位階を新設した。また中世地獄を画くに、口を開き火を吐く竜とした。悪魔を標識せる竜の像を祭会《まつり》の行列に引き歩く事も盛んで、ルアンのガーグイユ竜などもっとも高名だ。かかる竜の像は追々その本旨を忘れ、古ギリシアの善性竜王《ドラコンテス》同様、土地の守護神ごときものに還原され了《しま》ったとは、わが邦諸社の祭礼に練り出す八岐大蛇《やまたのおろち》が本《もと》人間の兇敵と記憶されず、災疫を禳《はら》い除くと信ぜらるるに同じ。また天文に竜宿《ドラコ》なるは、その形蛇に似たから名づけたらしいが、ギリシアの神誌にヘラクレスに殺されて竜天に上りてこの星群となったというと。熊楠いわく、インドでも〈柳宿は蛇に属す、形蛇のごとし、室宿は蛇頭天に属す、また竜王身光り憂流迦《うるか》といい、ここには天狗と言う〉。日本で天火、英国で火竜《ファイアドレーク》と言い、大きな隕石《いんせき》が飛び吼《ほ》えるのだ。その他支那で亢宿《こうしゅく》を亢金竜と呼ぶなど、星を竜蛇と見立てたが多い。それから『聖書《バイブル》』にヨハネが千年後天魔獄を破り出て、世界四隅の民を惑わすと言ったを誤解して、紀元一千年が近くなった時全欧の民大騒ぎせし事、明治十四年頃世界の終焉《おわり》が迫り来たとて、わが邦までも子婦《よめ》を取り戻したり、身代を飲み尽くした者あったに異ならず。その時欧州に基督敵《アンチ・クリスト》現出して世界を惑乱させ、天下|荒寥《あれすさ》むといい、どこにもここにも基督敵産まれたといって騒いだ。その法敵も多く竜の性質形体を帯びた物だった(『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』巻三)。第三図は、この法敵とキリストと闘うところだ。またそれに次いで大流行だった如安《ジャン》法王の伝というは、九世紀に若僧と掛落《かけおち》した男装の女が大学者となって、ついにレオ四世に嗣《つ》いで、ローマ法王となり、全く男と化けて世を欺きいた内、従僕の子を姙みし天罰で、あろう事か街の上に産み落したその場で死に、その子は世界終る時|出《い》づべき法敵として魔が取り去ったそうだ。この女は死して地獄に落ちるので地獄を竜の口としある(ベーリング・グールド『中世志怪』)。基督敵《アンチ・クリスト》同前の説が仏教にもありとはお釈迦様でも気が付くまい。すなわち『大法炬陀羅尼経』に、悪世にこの世界|所有《あらゆる》悪竜大いに猛威を振い、毒蛇遍満して毒火を吐き人畜を螫《さ》し殺し、悪人悪馬邪道を行い悪行を専らにすと説かれた。
[#「第3図 1493年版アンチ・クリストの世の図」のキャプション付きの図(fig1916_03.png)入る]
竜の起原と発達
一八七六年版ゴルトチッヘルの『希伯拉鬼神誌《デル・ミスト・バイ・デン・ヘブレアーン》』に、『聖書』にいわゆる竜は雲雨暴風を蛇とし、畏敬《いけい》せしより起ると解いた。アラビア人マスージー等の書に見る海蛇(『聖書』の竜《タンニン》と同根)は、その記載旋風が海水を捲《ま》き上ぐる顕象たる事明白で、それをわが国でも竜巻といい、八雲立《やくもたつ》の立つ同様下から立ち上るから竜をタツと訓《よ》み、すなわち旋風や竜巻を竜といったと誰かから聞いた。支那やインドで竜王を拝して雨を乞うたは主《おも》にこれに因ったので、それより衍《ひ》いて諸般の天象を竜の所為《しわざ》としたのは、例せば『武江年表』に、元文二年四月二十五日|外山《とやま》の辺より竜出て、馬場下より早稲田町通りを巻き、人家等損ずとあるは、明らかに旋風で、『新著聞集』十八篇高知で大竜家を破ったとか、『甲子夜話』三十四江戸大風中竜を見たなど、いずれも竜巻を虚張《こちょう》したのだ。『夜話』十一に、深夜烈風中竜の炯眼《ひかるめ》を見たとは、かかる時電気で発する閃光だろう。『熊野権現宝殿造功日記』新宮に竜落ちて焼けたとあるは前述天火なるべく、『今昔物語』二十四雷電中竜の金色の手を見て気絶した譚は、その人臆病抜群で、鋭い電光を見誤ったに相違ない。『論衡《ろんこう》』に雷が樹を打ち折るを漢代の俗天が竜を取るといったと見え、『法顕伝』に毒竜雪を起す、慈覚大師『入唐求法記』に、竜闘って雹《ひょう》を降らす、『歴代皇紀』に、伝教《でんぎょう》入唐出立の際暴風大雨し諸人悲しんだから、自分所持の舎利を竜衆に施すとたちまち息《や》んだと出づ。ベシシ人は竜を有角大蛇とし、地竜海竜と戦い敗死し天に昇りて火と現ずるが虹なりと信ず(スキートおよびブラグデン『巫来半島異教民族篇《ペーガン・レーセス・オヴ・ゼ・マレー・ペニンシュラ》』二)。東京《トンキン》人は月蝕を竜の所為
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