十二支考
田原藤太竜宮入りの話
南方熊楠
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)馬琴《ばきん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)官軍|三井寺《みいでら》攻め
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「虫+玄」、124−12]《むかで》なり
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)今や/\とぞ
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話の本文
この話は予の知るところでは、『太平記』十五巻に出たのが最も古い完全な物らしい、馬琴《ばきん》の『昔語質屋庫《むかしがたりしちやのくら》』二に、ある書にいわくと冒頭して引いた文も多分それから抄出したと見える。その『太平記』の文は次のごとし。いわく、
(延元元年正月、官軍|三井寺《みいでら》攻めに)
前々《せんぜん》炎上の時は、寺門の衆徒、これを一大事にして隠しける九乳《きゆうにゆう》の鳧鐘《ふしよう》も、取る人なければ、空しく焼けて地に落ちたり、この鐘と申すは、昔竜宮城より伝はりたる鐘なり、その故は承平の頃俵藤太|秀郷《ひでさと》といふ者ありけり、ある時この秀郷、たゞ一人|勢多《せた》の橋を渡りけるに、長《たけ》二十丈ばかりなる大蛇、橋の上に横たはつて伏したり、両の眼は輝いて、天に二つの日を掛けたるがごとし、双《なら》べる角《つの》の尖《するど》にして、冬枯れの森の梢《こずえ》に異ならず、鉄《くろがね》の牙上下に生《お》ひ差《ちご》ふて、紅の舌|炎《ほのお》を吐くかと怪しまる、もし尋常《よのつね》の人これを見ば、目もくれ魂消えて、すなはち地にも倒れつべし、されども秀郷、天下第一の大剛の者なりければ、更に一念も動ぜずして、彼《かの》大蛇の背《せなか》の上を、荒らかに踏みて、閑《しずか》に上をぞ越えたりける、しかれども大蛇もあへて驚かず、秀郷も後を顧みずして、遥《はる》かに行き隔たりける処に、怪しげなる小男一人、忽然《こつぜん》として秀郷が前に来《きたつ》ていひけるは、我この橋の下に住む事すでに二千余年なり、貴賤往来の人を量り見るに、今|御辺《ごへん》ほどに剛なる人いまだ見ず、我に年来《としごろ》地を争ふ敵あつて、動《やや》もすれば彼がために悩まさる、しかるべくは御辺、我敵を討つてたび候へと懇《ねんごろ》に語《かたら》ひけれ、秀郷一義もいはず、子細あるまじと領状して、すなはちこの男を前《さき》に立て、また勢多の方へぞ帰りける、二人共に湖水の波を分けて水中に入る事五十余町あつて、一の楼門あり、開いて内へ入るに、瑠璃《るり》の沙《いさご》厚く、玉の甃《いしだたみ》暖かにして、落花自ずから繽紛《ひんぷん》たり、朱楼紫殿玉の欄干|金《こがね》を鐺《こじり》にし銀《しろがね》を柱とせり、その壮観奇麗いまだかつて目にも見ず、耳にも聞かざりしところなり。
この怪しげなりつる男、まづ内へ入つて、須臾《しゆゆ》の間に衣冠を正しくして、秀郷を客位に請《しよう》ず、左右|侍衛官《しえのかん》前後花の粧《よそお》ひ、善尽し美尽せり、酒宴数刻に及んで、夜既に深《ふけ》ければ、敵の寄すべきほどになりぬと周章《あわて》騒ぐ、秀郷は、一生涯が間身を放たで持ちたりける、五人|張《ばり》にせき弦《づる》懸けて噛《く》ひ湿《しめ》し、三年竹の節近《ふしぢか》なるを、十五束|二伏《ふたつぶせ》に拵《こしら》へて、鏃《やじり》の中子《なかご》を筈本《はずもと》まで打ち通しにしたる矢、たゞ三筋を手挟《たばさ》みて、今や/\とぞ待ちたりける、夜半過ぐるほどに、雨風一通り過ぎて、電火の激する事|隙《ひま》なし、暫《しばら》くあつて比良《ひら》の高峯《たかね》の方より、焼松《たいまつ》二、三千がほど二行に燃えて、中に島のごとくなる物、この竜宮城を指《さ》してぞ近づきける、事の体《てい》を能々《よくよく》見るに、二行に点《とぼ》せる焼松は、皆|己《おのれ》が左右の手に点したりと見えたり、あはれこれは、百足蛇《むかで》の化けたるよと心得て、矢比《やごろ》近くなりければ、件《くだん》の五人張に十五束|三伏《みつぶせ》、忘るゝばかり引きしぼりて、眉間《みけん》の真中をぞ射たりける、その手答へ鉄を射るやうに聞えて、筈を返してぞ立たざりける、秀郷一の矢を射損じて安からず思ひければ、二の矢を番《つご》うて、一分も違《ちが》へず、わざと前の矢所《やつぼ》をぞ射たりける、この矢もまた、前のごとくに躍り返りて、これも身に立たざりけり、秀郷二つの矢をば、皆射損じつ、憑《たの》むところは矢一筋なり、如何《いかん》せんと思ひけるが、屹《きつ》と案じ出だしたる事あつて、この度射んとしける矢先に、唾を吐き懸けて、また同じ矢所をぞ射たりける、この矢に毒を塗りたる故にや依りけん、また同じ矢坪を、三度まで射たる故にや依りけん、この矢眉間の只中《ただなか》を徹《とお》りて、喉の下まで、羽《は》ぶくら責めてぞ立ちたりける、二、三千見えつる焼松も、光たちまち消えて、島のごとくにありつる物、倒るゝ音大地を響かせり、立ち寄りてこれを見るに、果して百足の※[#「虫+玄」、124−12]《むかで》なり、竜神はこれを悦びて、秀郷を様々に饗《もてな》しけるに、太刀|一振《ひとふり》、巻絹《まきぎぬ》一つ、鎧一領、頸|結《ゆ》うたる俵一つ、赤銅《しやくどう》の撞鐘《つきがね》一口を与へて、御辺の門葉《もんよう》に、必ず将軍になる人多かるべしとぞ示しける。
秀郷都に帰つて、後この絹を切つて使ふに更に尽くる事なし、俵は中なる納物《いれもの》を、取れども/\尽きざりける間、財宝倉に満ちて、衣裳身に余れり、故にその名を、俵藤太とはいひけるなり、これは産業の財《たから》なればとて、これを倉廩《そうりん》に収む、鐘は梵砌《ぼんぜい》の物なればとて、三井寺へこれを奉る、文保《ぶんぽう》二年、三井寺炎上の時、この鐘を山門へ取り寄せて、朝夕これを撞きけるに、あへて少しも鳴らざりける間、山法師ども、悪《にく》し、その義ならば鳴るやうに撞けとて、鐘木《しもく》を大きに拵へて、二、三十人立ち掛りて、破《わ》れよとぞ撞きたりける、その時この鐘、海鯨《くじら》の吼《ほ》ゆる声を出して、三井寺へ往《ゆ》かふとぞ鳴いたりける、山徒いよ/\これを悪《にく》みて、無動寺《むどうじ》の上よりして、数千丈高き岩の上をば、転《ころ》ばかしたりける間、この鐘|微塵《みじん》に砕けにけり、今は何の用にか立つべきとて、そのわれを取り集めて、本寺へぞ送りける、ある時一尺ばかりなる小蛇来つて、この鐘を尾を以て扣《たた》きたりけるが、一夜の内にまた本の鐘になつて、疵《きず》付ける所|一《ひと》つもなかりけり云々。
この鐘に似た事、支那にてこれより前に記された。予が明治四十一年六月の『早稲田文学』六二頁に書いた通り、『酉陽雑俎』(蜈蚣《むかで》退治を承平元年と見てそれより六十八年前に死んだ唐の段成式著わす)三に、歴城県光政寺の磬石《けいせき》、膩光《つや》滴《したた》るがごとく、扣《たた》けば声百里に及ぶ、北斉の時、都内に移し撃たしむるに声出ず、本寺に帰せば声|故《もと》のごとし、士人磬神聖にして、光政寺を恋《した》うと語《うわさ》したとある。『続古事談』五に、経信大納言言われけるは、玄象という琵琶は、調べ得ぬ時あり、資通|大弐《だいに》、この琵琶を弾《ひ》くに調べ得ず、その父|済政《なりまさ》、今日この琵琶|僻《ひが》めり、弾くべからざる日だと言うた、経信白川院の御遊に、呂の遊の後律に調べるについに調べ得ず、古人のいう事、誠なるかなと言われたとある。和漢とも貴重な器具は、人同様心も意気地もありとしたのだ。鐘が鳴らぬからとて、大騒ぎして砕いたなど、馬鹿げた談《はなし》だが、昔は、東西ともに大人が今の小児ほどな了簡の所為多く、欧州でも中世まで、動物と人と同様の権利も義務もありとし、証人に引き、また刑の宣告もした(『ルヴィユー・シャンチフィク』三輯三巻、ラカッサニュの説)。されば時として、無心の什器《じゅうき》をも、人と対等視した例も尠《すくな》からず、一六二八年、仏国ラ・ロシェルに立て籠った新教徒降った時、仏王の将軍、かの徒の寺に懸けあった鐘を下ろし、その罪を浄めるため、手苛《てひど》く笞懲《うちこら》したは良かったが、これを買った旧教徒に、王人をして代金を求めしむると、新教徒が旧教に化した時、その借金を払うに三年の猶予ある、因ってこの鐘も三年待ってくれと言ったとは珍譚じゃ(コラン・ド・プランチー『遺宝霊像評彙《ジクショネール・クリチク・デー・レリク・エ・デー・イマージュ・ミラクロース》』一八二一―二年版、巻三、二一四頁)。
『太平記』に三井の鐘破れたるを、小蛇来り尾で叩いて本に復したとあるは、竜宮から出た物ゆえ、竜が直しに来た意味か、または鐘の竜頭が神異を現じた意味だろう、名作の物が、真物同然不思議を働く例は、『酉陽雑俎』三に、〈僧一行異術あり、開元中かつて旱す、玄宗雨を祈らしむ、一行いわく、もし一器上竜状あるものを得れば、まさに雨を致すべし、上内庫中において遍ねくこれを視せしむ、皆類せずと言う、数日後、一古鏡の鼻の盤竜を指し、喜びて曰くこれ真竜あり、すなわち持ちて道場に入る、一夕にして雨ふる〉。『近江輿地誌略』十一には、秀郷自分この鐘を鋳て三井に寄附せりとし、この鐘に径五寸ばかりの円き瑕《きず》あり、土俗いわく、この鐘を鋳る時、一女鏡を寄附して鋳物師に与う、しかれども、心|私《ひそ》かに惜しんだので、その鏡の形に瑕生じたと。また『淡海録』曰く、昔|赤染衛門《あかぞめえもん》、若衆に化けてこの鐘を見に来り、鐘を撫《な》ぜた手が取り著《つ》いて離れず、強く引き離すと手の形に鐘取れた痕《あと》なり、また染殿后《そめどののきさき》ともいうと。『誌略』の著者は、享保頃の人だが、自ら睹《み》た所を記していわく、この鐘に大なる※[#「比+皮」、127−5]裂《ひびわれ》あり、十年ばかりも以前に、その裂目へ扇子入りたり、その後ようやくして、今は毫毛《ごうもう》も入らず、愈《い》えて※[#「比+皮」、127−7]裂なし、破鐘を護《まも》る野僧の言わく、小蛇来りて、夜ごとにこの瑕を舐むる故に愈えたりと、また笑うべし、赤銅の性、年経てその瑕愈え合う物なり、竜宮の小蛇、鐘を舐《ねぶ》りて瑕を愈やす妙あらば、如何ぞ瑕付かざるように謀《はか》らざるや、年経て赤銅の破目愈え合うという事、臣《それがし》冶工に聞けりと。予今年七十六歳の知人より聞くは、若い時三井寺で件《くだん》の鐘を見たるに※[#「比+皮」、127−11]裂筋あり、往昔弁慶、力試しにこれを提《さ》げて谷へ擲《な》げ下ろすと二つに裂けた、谷に下り推《お》し合せ長刀《なぎなた》で担《にの》うて上り、堂辺へ置いたまま現在した、またその鐘の面に柄附《えつき》の鐘様の窪《くぼ》みあり、竜宮の乙姫《おとひめ》が鏡にせんとて、ここを採り去ったという、由来書板行して、寺で売りいたと。
何がな金にせんと目論み、一つの鐘に二つまで瑕の由来を作った売僧輩《まいすはい》の所行《しわざ》微笑の至りだが、欧州の耶蘇《ヤソ》寺にも、愚昧な善男女を宛《あ》て込んで、何とも沙汰の限りな聖蹟霊宝を、捏造《ねつぞう》保在した事無数だ。試みに上に引いたコラン・ド・プランチーの『評彙』から数例を採らんに、ローマにキリストの臍帯《さいたい》および陰前皮《まえのかわ》と、キリストがカタリン女尊者に忍び通うた窓附の一室、またアレキシス尊者登天の梯《はしご》あり。去々年独軍に蹂躙されたランスの大寺に、石上に印せるキリストの尻蹟あり、カタンにアガテ女尊者の両乳房、パリ等にキリストの襁褓《むつき》、ヴァンドームにキリストの涙、これは仏国革命の際、実検して南京玉と判《わか》った。またローマに、日本聖教将来の開山ハビエロの片腕、ロヨラ尊者の尻、ブロア附近にキリストの父が木を伐る時出し
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