た声、カタロンとオーヴァーンは、聖母マリアの経水|拭《ふ》いた布切《ぬのぎれ》、オーグスブールとトレーヴにベルテレミ尊者の男根、それからグズール女尊者の体はブルッセルに、女根と腿《もも》はオーグスブールに鎮坐して、各々随喜恭礼されたなど、こんな椿事《ちんじ》は日本にまたあるかいな。
 されば弁慶力試しや、男装した赤染衛門の手印などは、耶蘇坊主の猥雑《わいざつ》極まる詐欺に比べて遥かに罪が軽い、それから『川角太閤記《かわすみたいこうき》』四に、文禄元辰二月時分より三井寺の鐘鳴りやみ、妙なる義と天下に取り沙汰の事と見ゆ、これも何か坊主どもの騙術《まやかし》だろうが、一体この寺の鐘性弱いのか、またさなくとも、度々《たびたび》の兵火でしばしば※[#「比+皮」、128−12]裂《ひびわれ》たのを、その都度よい加減に繕うたが、ついに鳴りやんだので、その※[#「比+皮」、128−13]裂や欠瑕を幸い、種々伝説を造って凡衆を誑《たぶら》かしたのだろう、かようの次第で三井の鐘が大当りと来たので、これに倣《なろ》うて他にも類似の伝説附の鐘が出て来たは、あたかも江戸にも播州《ばんしゅう》にも和歌山にも皿屋敷があったり、真言宗が拡まった国には必ず弘法大師|三鈷《さんこ》の松類似の話があったり(高野のほかに、『会津風土記』に載った、磐梯山恵日寺の弘法の三鈷松、『江海風帆草』に見ゆる筑前立花山伝教の独鈷《とっこ》松、チベットにもラッサの北十里、〈色拉寺中一|降魔杵《ごうましょ》を置く、番民呼んで多爾済《ドルジ》と為《な》す、大西天より飛来し、その寺|堪布《カンボ》これを珍《め》づ、番人必ず歳に一朝観す〉と『衛蔵図識』に出《い》づ)、殊に笑うべきは、天主教のアキレスとネレウス二尊者の頭顱《されこうべ》各五箇ずつ保存恭拝され、欧州諸寺に聖母《マドンナ》の乳汁《ちち》、まるで聖母は乳牛だったかと思わるるほど行き渡って奉祀され居るがごとし。
 すなわち『近江輿地誌略』六一、蒲生《がもう》郡川守村鐘が嶽の竜王寺の縁起を引きたるに、宝亀《ほうき》八年の頃、この村に小野時兼なる美男あり、ある日一人の美女たちまち来り、夫婦たる事三年ののち女いわく、われは平木の沢の主なり、前世の宿因に依ってこの諧《かた》らいを為《な》せり、これを形見にせよとて、玉の箱を残して去った、時兼恋情に堪えず、平木の沢に行って歎くと、かの女|長《たけ》十丈ばかりの大蛇と現わる、時兼驚き還ってかの箱を開き見るに鐘あり、すなわち当寺に寄進す、かの沢より竜燈今に上るなり、霊験新たなるに依って、一条院勅額を竜寿鐘殿と下し賜わり、雪野寺を竜王寺と改めしむ、承暦《しょうりゃく》二年十月下旬、山徒これを叡山《えいざん》へ持ち行き撞けども鳴らねば、怒りて谷へ抛げ落す、鐘破れ瑕《きず》つけり、ある人当寺へ送るに、瑕自然愈合、その痕今にあり、年|旱《ひでり》すれば土民雨をこの鐘に祈るに必ず験あり、文明六年九月濃州の石丸丹波守、この鐘を奪いに来たが俄《にわか》に雷電して取り得ず、鐘を釣った目釘を抜きけれど人知れず、二年余釣ってあったとあるは、回祖《マホメット》の鉄棺が中空に懸るてふ[#「てふ」に「〔という〕」の注記]欧州の俗談(ギボン『羅馬帝国衰亡史《デクライン・エンド・フォール・オブ・ゼ・ローマンエンパイヤー》』五十章註)に似たり。
 竜燈の事は、昨年九、十、十一月の『郷土研究』に詳論し置いた。高木君の『日本伝説集』一六八頁には、件《くだん》の女が竜と現じ、夫婦の縁尽きたれば、記念《かたみ》と思召せとて、堅く結んだ箱を男に渡し、百日内に開くべからずと教えて黒雲に乗って去った。男百日|俟《ま》たず、九十九日めに開き見るに、紫雲立ち上って雲中より鐘が現われたとあるは、どうも浦島と深草少将を取り交《ま》ぜたような拙《つたな》い作だ。また平木の沢には鐘二つ沈みいたが、一つだけ上がった方は水鏡のように澄み、一つ今も沈みいる方は白く濁る、上がった方の鐘は女人を嫌いまた竜頭を現わさず、常に白綿を包み置く、三百年前一向宗の僧兵が陣鐘にして、敗北の節谷に落し破ったが、毎晩白衣の女現われ、その破目《われめ》を舐めたとあるから、定めて舐めて愈《なお》したのだろ、これらでこの竜王寺の譚《はなし》は、全く後世三井寺の鐘の盛名を羨んで捏造された物と判りもすれば、手箱から鐘が出て水に沈むとか、女を忌む鐘の瑕を女が舐めて愈したなど、すこぶる辻褄合わぬ拙作と知れる。
『太平記』に、竜神が秀郷に、太刀、巻絹、鎧、俵、鐘、五品を与えたとあれど(『塵添※[#「土へん+蓋」、第3水準1−15−65]嚢抄《じんてんあいのうしょう》』十九には如意《にょい》、俵、絹、鎧、剣、鐘等とあり、鎧は阪東《ばんどう》の小山《おやま》、剣は伊勢の赤堀に伝うと)、巌谷君が、『東洋口碑大全』に引いた『神社考』には、太刀のほかの四品、『和漢三才図会』には太刀、鎧、旗、幕、巻絹、鍋、俵、庖刀、鐘と心得童子《こころえのどうじ》、計九品と一人、太刀の名|遅来矢《ちくし》と出《い》づ。寛永十年頃筆せられた『氏郷記』巻上にも、如上の十種を挙げた。鍋を早小鍋、俵を首結俵とし居る。また一伝に、露という硯《すずり》も将来したが竹生島へ納むとあり、太刀は勢州赤堀の家にあり、避来矢《ひらいし》の鎧は下野国《しもつけのくに》佐野の家にあり、童は思う事を叶《かな》えて久しく仕えしが、後に強《きつ》う怒られて失《う》せしとかや、巻絹は裁《た》ち縫うて衣裳にすれども耗《へ》らず、衣服に充満《みち》けるが、後にその末を見ければ延びざりけり、鍋は兵糧を焼《た》くに、少しの間に煮えしとなり。これも後には底抜けて、その破片《かけ》は蒲生家にありとぞ聞えし、俵は米を取れども耗らず、粮《かて》も乏しき事なし、それ故に名字を改め、俵藤太とぞ申しける。されども、将門《まさかど》退治の後、ある女房俵の底を叩いて米を開《あ》ければ、一尺ばかりの小蛇出で去りしより、米出でざりけり、これより始まりて、今俵の底を叩かぬ謂《いわ》れとなり、また秀郷の末孫、陣中にて女房を召し仕わざるも、この謂れとかや云々。秀郷を神と崇めて勢多に社あり(『近江輿地誌略』に、勢多橋南に秀郷社竜王社と並びあり、竜王社は世俗乙姫の霊を祭るという、傍なる竜光山雲住寺縁起に、秀郷水府に至りて竜女と夫婦の約あり、後ここに祭ると)、されば秀郷の子孫、勢多橋を過ぐるには、下馬して笠を脱ぎ、鈎匙《さじ》、小刀、鞭《むち》、扇等、何にても水中へ投げ入れ、礼拝して通るに必ず雨ふるなり云々、また曰く、下野国佐野の家にも秀郷より伝えし鎧あり、札に平石権現と彫り付け牡蠣《かき》の殻も付きたり、かの家にては「おひらいし」の鎧とて答拝せらるとなり、またかの鎧竜宮より持ちて上りし男、竜二郎、竜八とて二人あり、これも佐野家に仕えけるが、竜二郎は断絶す、竜八は今において佐野の秋山という処にこれあり、彼らが子孫は必ず身に鱗ありとなり、避来矢《ひらいし》の鎧と書き、平石にてはなしと、以上『氏郷記』の文だ。
『近江輿地誌略』に、ある説に鐺《なべ》は、蒲生忠知の室は内藤帯刀《ないとうたてわき》女《むすめ》なり、故に蒲生家断絶後内藤家に伝う、太刀は佐野の余流赤堀家に伝う(蒲生佐野ともに秀郷の後胤《こういん》だ)。この宝物を負い出でたる童を、如意と名づく、その子孫を竜次郎とて、佐野の家にあり、後《のち》宮崎氏と称すると出《い》づ、何に致せ蒲生氏|強盛《ごうせい》の大名となりてより、勢多の秀郷社も盛んに崇拝され、種々の宝物も新造されて、秀郷当身の物と唱えられたらしい。『誌略』に雲住寺縁起に載った、秀郷の鏃を見んと、洛西妙心寺に往って見ると、鏃甚だ大にしてまた長く、常人の射るべき物ならず、打根《うちね》のごとし、打根は射る物でなく手に掛けて人に打ち付くる物なり、尚宗とある銘の彫刻および中真《なかみ》の体、秀郷時代より甚だ新しいようだから、臣寺僧に問うに、この鏃は中世蒲生家よりの贈品で、秀郷の鏃という伝説もなし、ただ参詣人、推して秀郷の鏃と称えるのですと対《こた》えたとある。
『明良洪範《めいりょうこうはん》』二四には、天正十七年四月、秀吉初め男子(名は棄君)を生む、氏郷累代の重器たる、秀郷|蜈蚣《むかで》射たる矢の根一本|献《たてまつ》る、この子三歳で早世したので、葬処妙心寺へかの鏃を納めたとあるから見ると、氏郷重代の宝だったらしい。
 さて秀郷を俵藤太という事、この人初め下野の田原てふ地に住み(あるいはいう大和の田原で生まる、またいう近江の田原を領せり)、藤原氏の太郎だった故、田原藤太といいしを、借字して俵と書くようになって、俵の字を解かんとて竜宮入りの譚を誰かが作り出したであろうと、馬琴《ばきん》が説いたは、まずは正鵠《せいこく》を得たものだろう。それから『和漢三才図会』に〈按《あん》ずるに秀郷の勇、人皆識るところなり、三上山蜈蚣あるべし、湖中竜住むべし、而《しか》して十種宝物我が国中世用の器財なり、知らず海底またこれを用うるか、ただ恨むらくはその米俵巻絹世に存せざるなり〉という事は、『質屋庫』に引いた『五雑俎』四に、〈蘇州東海に入って五、六日ほど、小島あり、濶《ひろ》さ百里余、四面海水皆濁るに、独りこの水清し、風なくして浪高きこと数丈、常に水上紅光|見《あら》われ日のごとし、舟人あえて近づかず、いわくこれ竜王宮なり、而して西北塞外人跡到らざるの処、不時数千人樹を□木を※[#「てへん+曳」、第4水準2−13−5]《ひ》くの声を聞く、明くるに及んで遠く視るに山木一空、いわく海竜王宮を造るなり、余|謂《おも》えらく竜水を以て居と為す、豈《あに》また宮あらん、たといこれあるもまたまさに鮫宇貝闕なるべし、必ずしも人間《じんかん》の木殖を藉《か》らざるなり、愚俗不経一にここに至る〉とあるより翻案したのだろう。さて『和漢三才図会』の著者が、〈けだし竜宮竜女等の事、仏経および神書往々これを言う、更に論ずるに足らず〉と結んで居るが、一概に論ずるに足らずと斥けては学問にならぬ、仍《よ》ってこれから、秀郷の竜宮入りの譚の類話と、系統を調査せんに、まず瑣末《さまつ》な諸点から始めるとしよう。
『氏郷記』に、少時間《すこしのま》で早く物を煮得る鍋を、宝物に数えたり、秀郷の子孫に限り、陣中女房を召し仕わざる由を特書したので、件《くだん》の竜宮入りの譚は、早鍋世に極めて罕《まれ》に、また中古の欧州諸邦と等しく、わが邦でも、軍旅に婦女を伴れ行く風が存した時代に出来たと知らる。今も所により、米升《こめのます》を洗うを忌むごとく、何かの訳で俵の底を叩くを忌んだのに附会して、ある女房俵の底叩いて蛇を出したと言い出したのであろう。外国にも、米と竜と関係ある話がある。これは蛇が鼠を啖《くろ》うて、庫を守るより出た事か、今も日本に米倉中の蛇を、宇賀神など唱え、殺すを忌む者多し。
『外国事』にいう、毘呵羅《ひから》寺に神竜ありて、倉中に往来す、奴米を取る時、竜|却後《ひっこ》む、奴もし長く取れば竜与えず、倉中米尽くれば、奴竜に向い拝すると、倉|即《やがて》盈溢《みちあふ》る(『淵鑑類函』四三七)。『高僧伝』三に、〈迦施《かし》国白耳竜あり、毎《つね》に衆僧と約し、国内豊熟せしむ、皆信効あり、沙門ために竜舎を起す、並びに福食を設け、毎に夏坐《げざ》の訖《おわ》るに至り、竜すなわち化して一少蛇と作《な》る、両耳ことごとく白し、衆|咸《みな》これ竜と識《し》る、銅盂《どうう》を以て酪を盛る、竜を中に置き、上座より下に至りてこれを行くこと遍し、すなわち化し去る、年すなわち一たび出づ、法顕また親しく見る〉。
 ある蛇どもが乳を嗜む事は、一九〇七年版、フレザーの『アドニス篇』に載せて、蛇を人間の祖先と見立てた蛮人が、祖先再生までの間これを嬰児《みどりご》同様に乳育するに及んだのだろうとあるを、予実例を挙げて、蛇が乳を嗜むもの多きより、これを崇拝する者乳を与うるのだと駁《ばく》し置いた(一九〇九年『ノーツ・エンド・キーリス』十輯十一巻、一五七―
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