八頁)。蛇また竜が豊作に縁ありてふ事は、フレザーのかの書五九頁、一九一一年版『エンサイクロペジア・ブリタニカ』二十四、蛇崇拝の条等に見ゆ。ここに面白きは、ハクストハウセンの『トランスカウカシア』に載せた伝説「米の発見」てふ奴《やつ》だ、いわくアブラハムの子シャー・イスマエル既に全世界を従え、大洋を囲んで無数の軍兵に、毎人一桶ずつ毎日その水を汲《く》ませ、以て大海を乾《ほ》し涸《か》らそうと懸った、かくて追々海が減る様子を、海の民が海王に告げると、王彼らに「敵軍水を汲むに急ぎおるか、徐々《そろそろ》行《や》りおるか見て来い、急いで行りおるなら、彼らはほどなくへこ垂《た》れるはずだ、徐々|行《や》っておるなら、われら降参して年貢を払わにゃならぬ」と言った。これ誠に名言で、内典にも大施太子、如意宝珠を竜宮に得、海を渡って少眠《まどろ》む内、諸竜にその珠を盗まれしが、眼覚めて、珠を復《とりかえ》さずばついに空しく帰らじと決心し、一の亀甲を捉《と》って海水を汲み涸《ほ》さんとした。海神問うらく、海水深庭三百三十六万里、世界中の民ことごとく来て汲んだって減らぬに限《きま》った物を、汝一身何ぞ能く汲み尽くし得べきと。太子|対《こた》えて、〈もし人至心にして所作事あるを欲せば、弁ぜざるなし、我この宝を得まさに用いて一切群生を饒益し、この功徳を以て用いて仏道を求むべし、わが心|懈《おこた》らず、何を以て能わざる〉と言ったので、海神その精進強力所作に感じ、珠を還し、その根性強さでは、汝必ず後身|成道《じょうどう》すべき間、その時必ず我を弟子にしてくれと頼んだ、大施太子は今の釈迦で、海神は離越これなりとある(『賢愚因縁経』八)。
さて、海王が視《み》に遣った民が還って、陸王は海を汲むに決して急がず、毎卒日に一桶ずつ汲むと告げたので、海王しからば降参と決し、使をシャーに遣わした。その使の言語一向分らぬから、シャーこれを牢舎し、一婦をその妻として同棲せしめると子が出来た、その子七歳になり、海陸両世界の語を能くすから、これを通弁として、海王の使がシャーの前に出で、海王降参の表示《しるし》として、何を陸王に献《たてまつ》るべきやと問うと、百ガルヴァルだけ糧食《かて》を上《たてまつ》れと答う。使これを海王に報ずると、大いに困って、われは大海所有一切の宝を献るべきも、百ガルヴァルてふ莫大の食料は持たぬといった。百ガルヴァルは、日本の二四一九貫二〇〇匁で、大した量でないがこの話成った頃の韃靼《タタリア》では、莫大な物だったのだ。そこでシャー、しからば五十ガルヴァルはと問うと、海王それも出来ぬから、自分の后と諸公主《むすめども》を進《まいら》そうと答えた。このシャー女嫌いと見え、しからば二十五ガルヴァルはというと、それだけなら何とか拵《こしら》えて見ますと言って献った、その海王の粮《かて》というは稲で、もとより水に生じ、陸に生きなんだが、この時より内地諸湖の際に植えられたとある。
秀郷が、竜宮から得た巻絹や俵米は尽きなんだが、一朝|麁忽《そこつ》な扱いしてから出やんだちゅう談に似た事も、諸邦に多い。『五雑俎』十二に、〈巴東寺僧青磁碗を得て、米をその中に投ず、一夕にして満盆皆米なり、投ずるに金銀を以て皆|然《しか》り、これを聚宝※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1−88−72]《じゅほうわん》という、国朝沈万三富天下に甲たり、人言うその家にかの宝盆ありと〉、これは少し入れると一盃に殖えるので、無尽の米絹とやや趣きが差《ちが》う。欧州には、金を取れども尽きぬ袋の話多く、例せば一八八五年版クレーンの『伊太利俗談《イタリアン・ポピュラル・テールス》』に三条を出す。『近江輿地誌略』三九、秀郷竜宮将来の十宝の内に、砂金袋とあるもこの属《たぐい》だろう。古ギリシアのゼウス神幼時乳育されたアマルティアてふ山羊の角を折ってメリッセウスの娘どもに遺《おく》り、望みの品は何でもその角中に満つべき力を賦《つ》けた(スミス『希臘羅馬人伝神誌名彙《ジクショナリ・オヴ・グリーク・エンド・ローマン・バヨグラフィ・エンド・ミソロジー》』巻一)。
仏説に摩竭陀《まかだ》国の長者、美麗な男児を生むと同日に、蔵中|自《おの》ずから金象を生じ、出入にこの児を離れず、大小便ただ好《よ》く金を出す、阿闍世王これを奪わんとて王宮に召し、件《くだん》の男名は象護を出だし、象を留むるにたちまち地に没せり、門外に踊り出で、彼を乗せて還った、彼害を怖れ仏に詣り出家すると、象また随い行き、諸僧騒動す、仏象護に教え象に向い、我|今生《こんじょう》分《ぶん》尽きたれば汝を用いずと言わしむると、象すなわち地中に入ってしまった、仏いわく昔|迦葉仏《かしょうぶつ》の時、象護の前身|一《ある》塔中菩薩が乗った象の像少しく剥《は》げたるを補うた功徳で、今生金の大小便ばかり垂れ散らす象を得たとあるが、どんな屁を放《ひ》ったか説いていない(『賢愚因縁経』十二)。
『今昔物語』六に、天竺《てんじく》の戒日王、玄奘三蔵に帰依して、種々の財を与うる中に一の鍋あり、入りたる物取るといえども尽きず、またその入る物食う人病なしと見えるが、芳賀博士の参攷本に類話も出処も見えず、予も『西域記』その他にかかる伝あるを知らぬ、当時支那から入った俗説じゃろう。ヒンズー教の『譚流朝海《カタ・サリット・サラガ》』に、一樵夫夜叉輩より瓶を得、これを持てばどんな飲食も望みのまま出来るが、破《わ》れればたちまち消え失せるはずだ、やや久しく独りで楽しんでいたが、ある夜友人を会し宴遊するに、例の瓶から何でも出《い》で来る嬉しさに堪えず、かの瓶を自分の肩に載せて踊ると、瓶落ち破れて、夜叉のもとへ帰り、樵夫以前より一層侘しく暮したと出《い》づ。アイスランドの伝説に、何でも出す磨《ひきうす》を試すとて塩を出せと望み挽くと、出すは出すは、磨動きやまず、塩乗船に充《み》ち溢《あふ》れて、ついにその人を沈めたとあり。『酉陽雑俎』に、新羅国の旁※[#「施のつくり」、138−7]《ぼうい》ちゅう人、山中で怪小児群が持てる金椎子《きんのつち》が何でも打ち出すを見、盗み帰り、所欲《のぞみのもの》撃つに随って弁じ、大富となった、しかるにその子孫戯れに狼の糞を打ち出せと求めた故、たちまち雷震して椎子を失うたと見ゆるなど、いずれも俵の底を叩いて、米が出やんだと同じく、心なき器什《どうぐ》も侮らるると瞋《いか》るてふ訓戒じゃ。
それから、竜神が秀郷に送った無尽蔵の巻絹の因《ちな》みに、やや似た事を記そう。ハクストハウセン(上に引いた書)がペルシアの俗談と書いたは、支那の伏羲|流寓《さすらえ》て、ある富んだ婦人に宿を求めると、卑蔑《さげすん》で断わられた。次に貧婦の小舎《こや》を敲《たた》くと、歓び入れてあるたけの飲食《おんじき》を施し、藁の床に臥さしめ、己は土上に坐し終夜眠らず、襦袢を作って与え、朝食せしめて村外れまで送った。伏羲嬉しさの余り、その婦に汝が朝手初めに懸った業は、※[#「日+甫」、第3水準1−85−29]《くれ》まで続くべしと祝うて去った。貧婦帰ってまず布を度《さ》し始めると、夕まで布尽きず、跡から跡から出続いたので、たちまち大富となった。夜前伏羲を断わった隣の富家の婦聞いて大いに羨《うらや》むと、数月の後伏羲また村へ来た、かの婦|強《し》いて自宅へ迎え取り食を供し、夜中自室へ蝋燭|点《とも》し通夜仕事すると見せ掛け、翌朝|予《かね》て拵え置いた襦袢を呈し、食を供えて送り出すと、伏羲前度のごとく祝した。悦んで帰宅の途中、布を度《さ》す事のみ念じて宅へ入る刹那《せつな》、自家の飼牛が吼《ほ》える、水を欲しいと見える、布を量る前に水を遣らんと水を汲んで桶から槽《ふね》に移すに、幾時経っても、桶一つの水が尽きず、夥しく出続き家も畠も沈み、牛畜溺死し、村民大いに怒り、かの婦わずかに身を以て免《のが》れたとある。
一六一〇年頃出たベロアル・ド・ヴェルヴィルの『上達方《ル・モヤン・ド・パーヴニル》』三九章にも似た話あって遥《ずっ》と面白い。いわくマルサスのバラセ町へ貧僧来り、富家に宿を求めると、主婦無情で亭主|慳貪《けんどん》の由言って謝絶した。次に貧家へ頼むと、女房至誠懇待到らざるなかったので、翌朝厚く礼を述べ、宿銭持たぬは残念と言うと、金が欲しさに留めたでないと言う、因って神に祈って、汝が朝し始めた事は何でも晩まで続くべしと祝して去った、女房一向気に留めず、昨日拡げ置いた布を巻き掛けると、巻いても巻いても巻き尽きず、手が触《さわ》るごとに殖えて往く、ところへかの僧を門前払いにした婦やって来て、仔細を聞き、追い尋ねてやっとかの僧を見附け、わが夫の性がころりと改まったから、今夜|情願《どうぞ》拙宅へと勧めると、勤行《ごんぎょう》が済み次第参ろうとあって、やがてついて一泊し、明朝出立に臨み前夜通りの挨拶の後、僧また汝が朝始めた業は昏《くれ》まで続くべしと言って去った。待ってましたと、大忙《おおいそ》ぎで下女に布を持ち来らしめ、度《さし》に掛かろうとすると、不思議や小便たちまち催して、忍ぶべうもあらず、これは堪《たま》らぬ布が沾《ぬれ》ると、庭へ飛び下りて身を屈《かが》むる、この時遅くかの時早く、行《ゆく》尿《しし》の流れは臭くして、しかも尋常の水にあらず、淀《よど》みに浮ぶ泡沫《うたかた》は、かつ消えかつ結びて、暫時《しばし》も停《とど》まる事なし、かの「五月雨《さみだれ》に年中の雨降り尽くし」と吟《よ》んだ通り、大声※[#「口+曹」、第3水準1−15−16]々|驟雨《ゆうだち》の井を倒《さかさ》にするごとく、小声切々|時雨《しぐれ》の落葉を打つがごとく、とうとう一の小河を成して現存すとは、天晴《あっぱれ》な吹きぶりじゃ。
『氏郷記』に、竜宮から来た竜二郎、竜八の二子孫必ず身に鱗ありとは、垢《あか》が溜り過ぎたのかという人もあらんが、わが邦の緒方の三郎(『平家物語』)、河野道清(『予章記』)、それから松村武雄氏の祖(『郷土研究』二巻一号、二四頁)など、いずれも大蛇が婦人に生ませた子で、蛇鱗を具《そな》えいたと伝え、支那隋の高祖も竜の私生児でもあった者か、〈為人《ひととなり》竜顔にして、額上五柱八項あり、生まれて異あり、宅旁の寺の一尼抱き帰り自らこれを鞠《やしな》う、一日尼出で、その母付き自ら抱く、角出で鱗|起《た》ち、母大いに驚きこれを地に墜す、尼心大いに動く、亟《いそ》ぎ還りこれを見て曰く、わが児を驚かし、天下を得るを晩《おそ》からしむるを致す〉。『続群書類従』に収めた「稲荷鎮座由来」には、荷田氏の祖は竜頭太とて、和銅年中より百年に及ぶまで稲荷|山麓《さんろく》に住み、耕田採薪した山神で、面竜のごとく、顔光ありて夜を照らす事昼に似たり、弘法大師に約して長くこの地を守る、大師その顔を写して、当社の竈戸殿に安置すと見ゆ。既に竜顔といえば鱗もあったるべく、秀郷に従うた竜二郎竜八は、この竜頭太に傚《なろ》うて造り出されたものか、一八八三年版、ムラの『柬埔寨王国誌《ル・ロヨーム・ジュ・カンボジュ》』二に、昔仏|阿難《あなん》を従え、一島に至り、トラクオト(両舌ある大蜥蜴《おおとかげ》)の棲める大樹下に、帝釈《たいしゃく》以下天竜八部を聚《あつ》めて説法せし時、余食《くいのこし》をトラクオトに与え、この蜥蜴はわが説法を聴いた功徳により、来世必ず一国の王とならん、しかしその国の人民、皆王の前身舌二枚ある蜥蜴たりし業報《むくい》にかぶれ、いずれも不信実で、二枚舌使う者たるべしといったが、この予言通り、カンボジア人は不正直じゃと出《い》づ。これは竜の子孫に鱗の遺伝どころか、両舌竜の後身に治めらるる国民全体までも、両舌の心性を伝染したのだ。『大摩里支菩薩経』に、〈※[#「口+縛」、第3水準1−15−28]酥枳竜口より二舌|出《い》づ、身弦線のごとし〉とあるのは、トラクオトなどより転出した物か、アリゾナのモキス人、カシュミルの竜種人など、竜蛇の子孫という民族所々にある、これらも昔は鱗
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