《しわざ》とす(一八一九年リヨン版『布教書簡集《レットル・エジフィアント》』九巻一三〇頁)。かく種々の天象を竜とし竜と号《な》づけた後考うると、誠に竜はこれらの天象を蛇とし畏敬せしより起ったようだが、何故《なぜ》雲雨暴風等を特に蛇に比したかと問われて、蛇は蚯蚓《みみず》、鰻等より多く、雲雨等に似居る故と言うたばかりでは正答とならぬ。すなわちどの民も、最《いと》古く蛇を霊怪至極のものとし、したがって雲雨暴風竜巻や、ある星宿までも、蛇や竜とするに及んだと言わねばならぬ。『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』十一版二十四巻に、スタンレイ・アーサー・クック氏が蛇崇拝を論じて、この問題は樹木崇拝の起原発達を論ずると等しく、一項ごとに人間思想史の諸問題を併せ解くを要し、事極めて複雑難渋だと述べ居る。それに竜となると角があったり火を吐いたり、異類異様に振る舞うから、その解決は蛇より数層むつかしく、孔子のいわゆる竜に至っては知るなきなりだ。加之《そのうえ》拙者本来八岐大蛇の転生《うまれがわり》で、とかく四、五升呑まぬと好い考えが付かぬが、妻がかれこれ言うから珍しく禁酒中で、どうせ満足な竜の起原論は成るまいが、材料は夥《おお》くある故、出来るだけ遣って見よう。
まずクック氏は、蛇類は建築物や著しき廃址に寓し、池《いけ》壁《かべ》樹《き》の周囲《ぐるり》を這《は》い、不思議に地下へ消え去るので、鳥獣と別段に気味悪く人の注意を惹《ひ》いた。その滑り行く態《さま》河の曲れるに似、その尾を噛《か》むの状大河が世界を環《めぐ》れるごとく、辛抱強く物を見詰め守り、餌たるべき動物を魅入《みい》れて動かざらしめ、ある種は飼い馴《な》らしやすく、ある種は大毒ありて人畜を即死せしめ、ある物を襲うに電と迅さを争うなど、夙《つと》に太古の人を感ぜしめたは必定なれば、蛇類を馴らし弄《もてあそ》んだ人が衆を驚かし、敬われたるも怪しむに足らず。あるいは蛇の命長く、定時に皮を脱ぎかえるを見て、霊魂不死と復活を信ずるに及んだ民もあるべしと述べて、竜の諸譚は蛇を畏敬するより起ったように竜と蛇を混同してその崇拝の様子や種別を詳説されたが、竜と蛇の差別や、どんな順序で蛇てふ観念が、竜てふ想像に変じたか、一言もしおらぬ。
上に述べた通り、古エジプトや西アジアや古欧州の竜は、あるいは無足の大蛇、あるいは四足二翼のものだったが、中世より二足二翼のもの多く、また希《ま》れに無足有角のものもある。インドの那伽《ナーガ》を古来支那で竜と訳したが、インドの古伝に、那伽は人面蛇尾で帽蛇《コブラ》を戴き、荘厳尽くせる地下の竜宮《バタラ》に住み、和修吉《ヴァスキ》を諸那伽の王とす。これは仏経に多頭竜王と訳したもので、梵天の孫|迦葉波《カーシャバ》の子という。日本はこの頃ようやく輸入されたようだが、セイロン、ビルマ等、小乗仏教国に釈迦像の後に帽蛇が喉を膨《ふく》らして立ったのが極めて多い。『四分律蔵《しぶりつぞう》』に、仏|文※[#「馬+鄰のへん」、第3水準1−94−19]《ぶんりん》水辺で七日坐禅した時、絶えず大風雨あり、〈文※[#「馬+鄰のへん」、第3水準1−94−19]竜王自らその宮を出で、身を以て仏を繞《めぐ》る、仏の上を蔭《おお》いて仏に白《もう》して言わく、寒からず熱からずや、飄日のために暴《さら》されず、蚊虻のために触※[#「女+堯」、第4水準2−5−82]せらるるところとならずや〉、風雨やんでかの竜一年少|梵志《ぼんし》に化し、仏を拝し法に帰した、これ畜生が仏法に入った首《はじめ》だと見ゆ。
帽蛇《コブラ》(第四図)は誰も知るごとく南アジアからインド洋島に広く産する蛇で、身長六フィート周囲六インチに達し、牙に大毒あるもむやみに人を噛まず、頭に近き肚骨《あばらぼね》特に長く、餌を瞰《ねら》いまた笛声を聴く時、それを拡げると喉が団扇《うちわ》のように脹《ふく》れ、惣身《そうみ》の三分一を竪《た》てて嘯《うそぶ》く、その状極めて畏敬すべきところからインド人古来これを神とし、今も卑民のほかこれを殺さず。卑民これを殺さば必ず礼を以て火葬し、そのやむをえざるに出でしを陳謝《いいわけ》す。一八九六年版、クルックの『北印度俗間宗教および民俗誌《ゼ・ポピュラル・レリジョン・エンド・フォークロール・オブ・ノルザーン・インジア》』二巻一二二頁に拠《よ》れば、その頃西北諸州のみに、那伽《ナーガ》すなわち帽蛇崇拝徒二万五千人もあった。昔アリア種がインドに攻め入った時、那伽種この辺に栄え、帽蛇を族霊《トテム》としてその子孫と称しいた。すなわち竜種と漢訳された民族で、ついにアリア人に服して劣等部落となった。件《くだん》の畜生中第一に仏法に帰依した竜王とは、この竜種の酋長を指《さ》したであろう。俗伝にはかの時|仏《ぶつ》竜王が己れを蓋《おお》いくれたを懌《よろこ》び、礼に何を遣ろうかと問うと、われら竜族は常に金翅鳥《こんじちょう》に食わるるから、以後食われぬようにと答え、仏すなわち彼の背に印を付けたので、今に帽蛇にその印紋ある奴は、鳥類に食われぬという。かく那伽はもと帽蛇の事なるに、仏教入った頃の支那人は帽蛇の何物たるを解せず、その霊異《ふしぎ》にして多人に崇拝さるる宛然《さながら》支那の竜同然なるより、他の蛇輩と別たんとて、これを竜と訳したらしい。ただしインドにおいても那伽を霊異とするより、追々蛇以外の動物の事相をも附け加え、上に引いた『大孔雀呪王経』に言わるる通り、二足四足多足等支那等の竜に近いものを生じたが、今に至るまで本統の那伽は依然帽蛇で通って居る。支那に至っては、上古より竜蛇の区別まずは最も劃然《かくぜん》たり。後世日本同様異常の蛇を竜とせる記事多きも、それは古伝の竜らしき物実在せぬよりの牽強《こじつけ》だ。
[#「第4図 帽蛇」のキャプション付きの図(fig1916_04.png)入る]
全体竜と蛇がどう差《ちが》うかといわんに、『本草綱目』に、今日の動物学にいわゆる爬虫類から亀の一群を除き、残った諸群の足あるものを竜、足なきを蛇とし居る。アリストテレスが爬虫を有鱗卵生四足(亀と蜥蜴)、卵生無足(蛇)、無鱗卵生四足(蛙の群)に別ったに比して、亀と蛙を除外しただけ分類法が劣って居るが、欧州でも近世まで学者中に獣鳥魚のほか一切の動物を虫と呼び通した例すらあれば、それに比べて『綱目』の竜蛇を魚虫より別立し、足の有無に拠って竜類すなわち蜥蜴群と蛇群を分けたは大出来で、その後本邦の『訓蒙図彙』等に竜は鱗虫の長とて魚類に、蛇は字が虫篇|故《ゆえ》蝶蠅などと一つに虫類に入れたは不明の極だ。さて支那にも僧など暇多い故か、観察の精《くわ》しい人もあって、後唐の可止てふ僧托鉢して老母を養い行《ある》きながら、青竜疏《せいりょうそ》を誦する事|三載《みとせ》、たちまち巨蟒《うわばみ》あって房に見《あらわ》る。同院の僧居暁は博物《ものしり》なり、曰く蛇の眼は瞬《またた》かぬにこの蟒《うわばみ》の眼は動くから竜だろうと、止香を焚《た》いて蟒に向い、貧道《それがし》青竜疏を念ずるに、道楽でなく全く母に旨《うま》い物を食わせたい故だ、竜神|何卒《なにとぞ》好《よ》き檀越《だんおつ》に一度逢わせてくださいと頼むと、数日後果して貴人より召され、夥しく供養されたという(『宋高僧伝』七)。拙者も至って孝心深く、かつ無類の大食なれば、可止法師に大いに同感を寄するが、それよりも感心なは居暁の博物《ものしり》で、壁虎《やもり》の眼が瞬《またた》かぬなど少々の例外あれど、今日の科学|精覈《せいかく》なるを以てしても、一汎《いっぱん》に蛇の眼は瞬かず、蜥蜴群の眼が動くとは、動かし得ざる定論じゃ。それを西人に先だって知りいたかの僧はなかなか豪《えら》いと南方先生に讃《ほ》めてもらうは、俗吏の申請で正六位や従五位を贈らるるよりは千倍悦んで地下に瞑するじゃろう。ただし、生きた竜の眼を実験とは容易にならぬこと故、これを要するに、例外は多少ありながら、竜蛇の主として別るる点は翼や角を第二とし、第一に足の有無にある。『想山著聞奇集』五に、蚯蚓《みみず》が蜈蚣《むかで》になったと載せ、『和漢三才図会』に、蛇海に入って石距《てながだこ》に化すとあり、播州でスクチてふ魚|海豹《あざらし》に化すというなど変な説だが、蛆《うじ》が蠅、蛹《さなぎ》が蛾《が》となるなどより推して、無足の物がやや相似た有足の物に化ける事、蝌蚪《かえるご》が足を得て蛙となる同然と心得違うたのだ。これらと同様の誤見から、無足の蛇が有足の竜に化し得、また蛇を竜の子と心得た例少なからぬ。南アフリカの蜥蜴蛇《アウロフィス》など、前にも言った通り蜥蜴の足弱小に身ほとんど蛇ほど長きものを見ては誰しも蛇が蜥蜴になるものと思うだろ。『蒹葭堂雑録』の二足蛇のほか本邦にかかる蜥蜴あるを聞かぬが、これらは主に土中に棲んで脚の用が少ないから萎減《いげん》し行く退化中のもので、アフリカに限らず諸州にあり。実際と反対に蛇が竜に変ずるてふ誤信を大いに翼《たす》け、また虫様の下等竜すなわち※[#「虫+璃のつくり」、第3水準1−91−62]竜《あまりょう》てふ想像動物の基となっただろう。※[#「虫+璃のつくり」、第3水準1−91−62]竜は支那人のみならずインド人も実在を信じたらしい(『起世因本経』七、『大乗金剛|髻珠《けつじゅ》菩薩修行分経』)。『本草綱目』にいう、〈蜥蜴一名石竜子、また山竜子、山石間に生ず、能く雹《ひょう》を吐き雨を祈るべし、故に竜子の名を得る、陰陽折易の義あり、易字は象形、『周易』の名けだしこれに取るか、形蛇に似四足あり、足を去ればすなわちこれ蛇形なりと〉、『十誦律』に、〈仏舎衛国にあり、爾時《そのとき》竜子仏法を信楽す、来りて祇※[#「さんずい+亘」、第3水準1−86−69]《ぎおん》に入る、聴法のため故なり、比丘あり、縄を以て咽に繋ぎ、無人処に棄つ、時に竜子母に向かいて啼泣す〉、母大いに瞋《いか》り仏に告ぐ、仏言う今より蛇を※[#「罘」の「不」に代えて「絹のつくり」、179−2]《あみ》する者は突吉羅罪《ときらざい》とす、器に盛り遠く無人処に著《お》くべしと。いずれも蛇を竜の幼稚なものとしたので、出雲|佐田社《さだのやしろ》へ十月初卯日ごとに竜宮から竜子を献《たてまつ》るというも、実は海蛇だ。『折焚柴記《おりたくしばのき》』に見えた霊山《りょうぜん》の蛇など、蛇が竜となって天上した談は極めて多い(蛇が竜に化するまでの年数の事、ハクストハウセンの『トランスカウカシア』に出《い》づ)。
故にフィリップやクックが竜は蛇ばかりから生じたように説いたは大分粗漏ありて、実は諸国に多く実在する蜥蜴群が蛇に似て足あるなり、これを蛇より出て蛇に優《まさ》れる者とし、あるいは蜥蜴や※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]《がく》が蛇同様霊異な事多きより蛇とは別にこれを崇拝したから、竜てふ想像物を生じた例も多く、それが後に蛇崇拝と混合してますます竜譚が多くまた複雑になったであろう。『古今図書集成』辺裔典二十五巻に、明の守徐兢高麗に使した途上、定海県総持院で顕仁助順淵聖広徳王てふ法成寺《ほうじょうじ》関白流の名の竜王を七昼夜祭ると、神物出現して蜥蜴のごとし、実に東海竜君なりと出《い》づ。画の竜と違い蜥蜴のようだとあれば、何か一種の蜥蜴を蓄《こ》うて竜とし祠《まつ》りいたのだ。『類函』四三七、〈『戎幕間談《じゅうばくかんだん》』曰く、茅山《ぼうざん》竜池中、その竜蜥蜴のごとくにして五色なり、昔より厳かに奉ず、貞観《じょうがん》中竜子を敷取し以て観《み》る、御製歌もて送帰す、黄冠の徒競いてその神に詫《わ》ぶ、李徳裕その世を惑わすを恐れ、かつて捕えてこれを脯《ほ》す、竜またついに神たる能わざるなり〉、これは美麗な大|蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》を竜と崇めたのだ。本邦には蜥蜴や蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]の属数少なく余り目に立つものもないので、格別
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